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心のおデブへ送る小説9選

 勧善懲悪なハッピーエンド小説を読むとストレス発散になります。しかし成人してからも摂取しすぎると、心に負荷がかかる(≒これまで信じていた価値観が崩される)ような運動が苦手となります。そんな人を「心のおデブ」と呼んでいます。

 養鶏業者がブロイラーを太らせたがるのと同じように、人々が「心のおデブ」になることを望む人たちは多く存在します。でも本当は、あなたはこの世界に生まれた以上、様々な考えに触れたいし、いろんな見方で世界を知りたいってのが本音なのではないでしょうか?

 心の運動をしたくなったあなたへ、9つの小説をお薦めします。

①罪と罰(1866)

 F.M.ドストエフスキーによるロシアのリアリズム文学。男子大学生が人を殺してしまい、その恐怖と孤独に怯えていく。

「十字路に立ち、ひざまずいて、あなたが汚した大地(=人々の繋がりの象徴)に接吻しなさい、それから世界中の人々に対して、四方に向かってお辞儀をして、大声で、私が殺しました!と言うのです。」(と風俗嬢に諭され救われる)

 表面的には、罪は「人間社会の全体最適のため個人に定められた禁止事項」に過ぎないのかもしれない。しかし、人間という生物は、長い年月をかけ、遺伝子レベルで社会性を進化させてきました。だから人間にとって、罪を犯す(=社会を裏切る)ということは、すなわち先祖代々受け継がれてきた人間としての心を失うことと心得ましょう。そして罰は「他者との心の繋がりを取り戻し、自身の心を救済する」という深い意味がある。

②故郷(1921)

 魯迅による中国文学。地元に残っていた幼馴染みと久しぶりに再開するが、話が合わなくなってしまったことに気付き嘆く。

(幼馴染みは)相変わらずの偶像崇拝(≒アイドルオタク)だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに笑ったものだが、今私の言う希望(=民主的な国家を築くこと)も、やはり手製の偶像(=アイドルのような憧れの対象を自分で設定しただけ)にすぎぬのではないか。ただ、彼の望むもの(≒アイドルグッズ)はすぐ手に入り、私の望むもの(民主的な国家)は手に入りにくいだけだ。(中略)もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

 私たちは「難しいものほど重要である」という相関関係を感じがちであるが、それは生存者バイアスでしかなく、そんなことでマウンティングしている場合ではない。取り組むことの優劣は、その難しさによってではなく、どれだけ未来をより良く変えられるかで判断されるべきです。そこにたまたま難しさがあるのなら、人生をかけてでも皆で取り掛かればよい

③山月記(1942)

 中島敦による日本文学。エリート官僚が人生崩壊し、歪んだ自意識が虎に化けて、人間としての体を乗っ取られる。

(人生が崩壊した理由は、)我が臆病な自尊心(=失敗して自尊心が傷付くのを恐れるあまり、チャレンジする機会から逃げ続け、成長できなかったこと)と、尊大な羞恥心(=自分を特別視するあまり、身の丈にあった仕事に戻ることができず困窮していったこと)とのせいである。

 ある程度のプライドは自己同一性確保のため必要であるが、身の丈以上のプライドを育て始めると、いつかバブルのように暴落します。だから、つらくても「幻想の幸福」よりも「真実の不幸」に向き合うべきなのです。少し背伸びする程度の挑戦を重ね、試行錯誤と成功を繰り返すことで、暴落しにくい自己肯定感と本当の強さを育てましょう。

④春にして君を離れ(1944)

 原題Absent in the Spring、アガサクリスティによるイギリス文学。独善的な妻を指摘せず、そのまま気持ちいい勘違いの中に飼い殺す、誰も死なないのに残酷なミステリー小説。

(過去の自分の失敗をすべて自分の都合にいいよう無意識に解釈し反省しない妻に向かって)「君は(家族の皆から疎まれて)一人ぼっちだ。これからもおそらく。しかしああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように。」

 共同体内の結び付きは、公平な助け合いにより維持されます。とはいえ、本人は精一杯生きているのに、自覚なく周りに負担(≒介護)を強いる人というのは存在します。故意でなく、能力不足に起因するので、甘え(≒搾取)と括ってしまうのも可哀想なのである。

 能力不足によるフリーライダーがいた場合、共感し介護するだけでなく、その人にとってより得意な分野を見つけ出し分担させて自立を促す理性が必要です。

⑤ライ麦畑でつかまえて(1951)

 原題The Catcher in the Rye、J.D.サリンジャーによるアメリカ文学。「世間に押し付けられる正しさ」に精神を病み家出した少年が、妹の「純粋な正しさ」に救われる。

(妹がアスペルガー症候群の主人公に向かって)「あなたは世界中で起こる何もかもが、インチキに見えてるんでしょうね。」

 アスペルガー症候群は客観的な正しさ(=真実・本質・効率)を優先するが、定型発達症候群はその属する個別の社会において正しいとされること(=普通・常識・伝統)を優先する。人間の社会構造としてニーズが高く、かつ生殖本能も強い定型発達症候群のDNAが、自然淘汰により多数派となるのは必然的である。よって、定型発達症候群の考え方が多数決により世間の「正しい」とされやすい。

 所属する集団にとっての正しさも普遍的な正しさも、どちらも生存戦略として重要だからこそ、自然淘汰されず残っているわけです。だから、これからも互いの正しさを理解しあい、協調していくことが大切です。

⑥金閣寺(1956)

 三島由紀夫による日本文学。金閣寺の美しさに理性を狂わされた少年が、金閣寺に放火してしまう。

あの山門の楼上から、遠い神秘な白い一点に見えたもの(=手が届かない遠くに見えた美しい乳房)は、このような一定の質量を持った肉(=目の前に手に入れてしまった乳房)ではなかった。

 美とは、疎外された距離である。美に狂いそうなとき、それはどんな疎外感を起因とするのかを見つめ直して下さい。虚構や、自分以外の誰かが決めた価値基準を起因とした疎外感なら、覚悟をもって諦めましょう。
 
ブランドものが美しく見えるのは大人になれないからだし、タワマンが美しく見えるのは田舎者だからだし、だいたいそんなもんです。

⑦ソフィーの世界(1991)

 ヨースタイン・ゴルデルによるノルウェーのファンタジー小説。「この世界は決定論に支配されている」ということに気付いた少女が、その支配から逃げ出そうとする。

サルトルは、人間には拠り所となるような、そんな永遠の本質(=絶対的な規範や価値観)なんかない、と考えたんだ。別の言い方をすれば、ぼくたちは生を即興に演じなければならないという、ハードな運命にあるのだ。どうするかは、ぼくたち自身が決めなくてはならない。

 この世に絶対的に存在するのは、物理法則に従う「現実の存在」だけであり、皆が本質だと思い込んでいる規範や価値観が幻(≒後付け)である。この「実存は本質に先立つ」ということを真に理解し、それでもなお自身の今を肯定し続けられることが、揺るぎない「生きる強さ」となるのです。

 そのためには、この世界が存在すること自体の神秘さに、気づき、驚き、畏れ、喜びを分かち合いましょう。それと比べたら、生きる意味なんて些細な話です。

⑧理由(1998)

 宮部みゆきによるタワマン文学の草分け。バブル崩壊による価値観の急変で社会のあちこちが歪み、明確な理由のない殺人事件が起きる。

あんな所(=タワマン)に住んだら、人間ダメになる。建物の恰好よさに調子を合わせようとして、人間がおかしくなっちゃう。

 地元を離れて都会に住む世帯が増えている。これで得したのは「地元の同調圧力(≒全体主義)が足手まといだった」という生まれつきの能力的強者である。一方で「地元では皆が助けてくれた」という能力的弱者が、勘違いして都会(≒資本主義)の華やかな魅力に吸い寄せられてしまうと、更に窮地に追い込まれ、このような殺人事件に発展する。この事件の真犯人は、能力的弱者まで都会に駆り立ててしまった、マスメディア、CM、それに便乗する社会(≒私たち)なのです。

 皆がそれぞれ持つ「正しさ」を他人に降りかざすことの加虐性に、私たちはもっと自覚しなければならない。

※最後の1つは有料記事にしてみました。内容は少ないのでお布施くらいの気持ちで読んでください。

⑨歌うクジラ(2010)

 村上龍によるディストピア小説。社会階級間の断絶が進んだ世界で、何も知らなかった主人公が、階級間を超えた旅を通して生きる意味を見つける。

「取り戻せない時間と、永遠には共存し合えない他者という、(最上層階級の私でさえ)支配も制御もできないものがこの世に少なくとも二つあることを、長い長い自分の人生で繰り返し確認しているだけなのだって、わたしは気づいたの。」(中略)「生きる上で意味を持つのは、(自分たちの中にある観念ではなく、自分たちの外に絶対的な目的があるのでもなく、)他人との出会いだけだ。」

 論点は本記事の冒頭に戻ります。ブロイラー(=心のおデブ)として養鶏所(=気持ちのいい虚構の領域)内で飼い馴らされているべきか。それとも、心に負荷がかかろうとも、様々な人と出会い、真実の世界(≒wonder)を知っていくべきか。どちらが幸せなのかは、人それぞれの能力や性格によって変わってくるでしょう。ただし、人生は一度きりですので、後悔のない生き方を選択したいものですね。

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