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【Mother-001~003】生命の言葉〜401本の花〜

 いつも母の周りには、母と酒を飲みたい人、母の笑顔を見たい人、母に助けを求める人が絶えずいた。

 母親が亡くなった時、名も無き母のために全国から400人もの人が来てくれた。

 みんな母の前で泣き崩れていた。ある人は言う「騙された、あんなに元気だったのに」と。ある人は言う「あなたのお母さんのお陰で私たち夫婦は生きられています。」と。そしてある人は言った「あなたのお母さんの”一言”で私は救われた。」と

 ”20歳までしか生きられない”と医者に匙を投げられ”絶望の大地”から生まれた母。そんな母から”生命の言葉”をもらい”希望の種”を咲かせた人が、たくさんそこにいた。それはまるで”400本のお花”だった。

 そんな僕もその花の1本だ。

 家ではいつも大好きなビールを飲んでいる母、午後に起きてきて夕方にはビール瓶を開け、飲みながら夕食(つまみも兼ねる)を作り出す。夜にはすでに大瓶4〜5本を空にする。

 僕は夕方学校から帰ってくると、台所へ行き、その”つまみ”を食べながら今日の出来事を話す。母はいつも微笑みながら「そうかそうか、ありがたいね」と美味そうにビールを飲みながら耳を傾けてくれた。

 母にとっては、僕の話も良い”つまみ”だったのかもしれない。楽しい話をしても、辛い話をしても、母はいつも「ありがたいな、ありがたいな」とビールを飲みながら聞いてくれた。不思議なことだが、どんなに辛いことがあっても、母に話すと不思議とその”魔法の言葉”で心が軽くなった。

 僕は小学校2年生の時、家庭の事情で引っ越しと転校を経験した。その時から、学校でいじめを受け、その度に母には不思議と何も話していないのに「おまえいじめられているだろ」と突っ込まれ、観念して母に相談すると不思議と問題が解決するという繰り返しだった。

 そんな優しい母が、たった一度だけ僕に冷たく厳しかった時がある。僕が16歳の時だ。

 高校1年の夏休み明けの2学期から異変が起きた。それまで仲が良かった友達4人から無視をされ始めたのだ。事の状況を上手く飲み込めない僕は家に帰り、その事を母に告げた。

 「そうだったのか、大変だったな。よく話してくれた」と、いつものように慰めてくれるとばっかり思っていた僕。がその時、突然、ビールの大瓶をテーブルにドンッと置いて、僕を睨みつけながら言った母の言葉は、予想してたのとはまるで逆の厳しい言葉だったのだ。

 あの時の母の眼差し、声、そして空気、今でもはっきりと思い出す。あの時はさすがに怖かったが、不思議と今は懐かしく温かい。

 もしあの時、母に言われなかったら、今僕はどんな人生を歩んでいただろう。少なくとも母の言うような”人持ち”には、まずなれなかったと確信する。そう、僕もあの時受け取ったのだ。母の”生命の言葉”を。その一言で人生が大きく変わるぐらいの大切な言葉を。


【Mother-002】生命の水〜ビールと書いてそう読むらしい〜


 ”生命の水”と母が呼び、愛して止まなかったのがビールだった。

 なぜ生命の水なのか、母は腎臓の機能が弱く、本当は人工透析をしなければならなかったらしい。しかし紫斑病という病により血が固まらない体質だったため、身体に針を入れられず、医者から利尿剤としてビールを飲み、1日に13回以上おしっこをすることを勧められたのだという(ちなみにこの部分は未だに嘘だったんじゃないかと疑っている)。だがお金がなくてビールが飲めない次の日、顔がぱんぱんにむくんでいたのをよく覚えている。

 母は戦時中、軍艦や飛行機などのエンジンの設計技師だった祖父と口減らしのためか養子に出された祖母との間に次女として生まれた。超未熟児で生まれ、みかん箱で育てられた。もともと病弱だった母は両親の愛情を沢山もらい、酒好きで豪放磊落な祖父に良く外の飲み屋へ遊びに連れて行ってもらったらしい。今思えば大好きだった亡き祖父の面影をビールに重ねていたのかもしれない。

 そんな母だからなのか、僕もお約束通り、小さい頃から外へ連れ回してもらった。バブルの時代だったせいか、どこへ行ってもおじちゃん、おばちゃんから、

「ひろぼは可愛いわね〜はい、これでジュースでも買いなさい」

と3,000円。

「ひろぼは良い子だね〜はい、これでおもちゃでも買いなさい」

と5,000円。

 もともとお金に無頓着だった僕は、帰りの車に乗り込むと、そのお金をそのまま母に渡していた。母は満面の笑みで「ありがとうね」と言い、その足で酒屋に寄って帰るのだった。”可愛い集金屋さん”は小学校ぐらいまで続いた。

 しかし今更ながら、考えれば考える程、不思議だ。いくら景気が良いからといっても、いくら僕が可愛かったからといっても、あんなに集金ばかりしていたら関係が成り立たなくなるはずだ。うちはもともと借金も凄く、貧乏だったので母の羽振りが良かったわけでもなく。それでも母は皆に愛されていた。

 うちの父も例外ではない。現在76歳で元気そのものだが、母を生涯愛し、酒代でもう一件お家が買えたであろうお金を、まじめにコツコツ働いて母に尽くしてきた。未だに父と一緒に母の墓参りに行くと、

「帰ってきたぞ〜」

とお墓に水をかける(最初だけビールをかけていた)父を見ていると、相当母は愛されていたんだな〜と感じさせられる。

 母は一体、あれだけの”生命の水”を皆に贈られるほど、他者へ”何を”与えていたのだろうか。

 子供の頃、母を間近で見てきて思い出すのは、そのおじちゃんやおばちゃんが良く泣いていたことだ。子供ながらに不思議だった。なぜこんなに泣いてるんだろう、しかも悲しそうにではなく、嬉しそうにだ。

 後日、その人達に母と車で会いに行くと必ずと言っていいほど、

「お茶でも飲んでって!」

と、ビールを出される。そしてその”お茶”を飲みながら時には楽しく、時には静かに母とその人達は話していた。話していた内容は残念ながら、あまり覚えてはいない。しかしあの清々しい情景や、なんとも安心できる空気、帰りの別れの時の清々しさだけはハッキリと思い出すことが出来る。

 ※飲酒運転は犯罪です。絶対に運転手に飲ませてもいけません

 あの400人の人達と僕が、母からもらった”生命の言葉”、そしてその人達から母が頂いた”生命の水”。もしかするとこの”生命の言葉”と”生命の水”の交換システムの中を調べていけば、母が言っていた”人持ちになれ”の意味が分かってくるのかもしれない。

 まつ毛ぐらい近くて見えなかった”母”という大きな存在、そして記憶の中で少しずつ消えていく、流れ雲のように”母が大切にした人たち”。その2本の糸を紡いでいきながら、母との思い出をもう一度、編み直して見ようと思う。

 そうすれば亡き母が、今を生きる僕のことを、いまだに護り包んでくれている、この”人持ち”という布の大切さを、改めて教えてもらえるような気がする。

 そして、あの時の母のように、僕もその布で、これから出会う人たちを包める自分になりたいと思う。


【Mother-003】わらしべ長者〜「よーこ式」市場経済学〜

 わらしべ長者のお話はご存知だろうか。貧乏人の主人公が最初に手に入れたワラを、道行く人と出会い物々交換をしていくうちに、最後には大金持ちになるというお話だ。

 ここに1人のわらしべ長者がいる。名を「よーこ」という。伝説のミュージシャンの奥さんではない。うちの母だ。しかもこのわらしべ長者は最後は大金持ちにはならなかった。多人持ちにはなったが。

 うちは前もお伝えしたとおり、サラ金という借金と大酒飲みという母親の二大貧乏政治で成り立っている家だったので、毎日食べるものに困っていた。はずだったのだが…

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