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2019/11/03 風をよむ「~緒方さんが遺したもの・・・~」

・日本人初の国連難民高等弁務官、緒方貞子さんが死去

・人生の大半を捧げた”難民支援”

・世界に訴えた”人間の安全保障”

2006年、アフリカのルワンダ。現地を久しぶりに訪問した緒方貞子さんに花束を渡す少年がいました。緒方貞子さんに花束を渡す少年がいました。彼の名前は― 「オガタサダコ」です。

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緒方貞子さん「難民の中に同じ名前の人がいるなんて、本当に驚いた。あなたは、私がキャンプに行った日に産まれたのよ」

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ルワンダには、オガタサダコと名付けられた子どもたちが大勢いるといいます。

日本人初の国連難民高等弁務官として難民支援に奔走し、JICA=国際協力機構の理事長も務めた緒方貞子さんが、10月22日亡くなりました。92歳でした。

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彼女の死を悼む声は、世界に広がります。イギリスのBBCは「並外れた交渉力と敵対する勢力に立ち向かう能力は、 国連職員や各国首脳から尊敬され、身長150センチの巨人と称された」と報じ、

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国連のグテーレス事務総長は、「サダコ・オガタは人道主義の手本だった。彼女の仕事のおかげで何百万人もの難民が、よりよい生活と機会に恵まれた」と、その功績を称えたのです。

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日本が軍国主義に向かっていく1927年。緒方さんは、祖父は元外務大臣、父は外交官という家庭に生まれました。そして4歳の時、曾祖父である犬養毅元総理が、海軍の将校らが起こした 5.15事件で暗殺されたのです…。

そうした生い立ちから、「日本はなぜ戦争を始めたのか」を探りたいと、研究者の道を志し、アメリカに留学して、国際政治を専攻。

国連公使、大学教授などを経て、63歳になった1991年、日本人として 初めて、国連難民高等弁務官事務所のトップに就いたのです。

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就任間もない1991年4月、湾岸戦争の停戦直後で混乱するイラク国内では、行き場を失った180万のクルド人が隣国のイランやトルコとの国境に殺到していました。

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クルド避難民「各国は決議ばかりで、何もしてくれない」

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この時、国連が保護の対象としたのは「国外に逃れた難民」のみ。イラク国内で避難していたクルド人は難民として認定されず、支援の対象となっていませんでした。

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しかし、現地のキャンプを訪れた緒方さんは、クルド人たちの窮状を見て、決断を下します。これまでの方針を転換し、彼らへの支援を決めたのです。

“既存のルールや理屈”にとらわれることなく、現場で苦しむ人々の目線で考え続けた緒方さん。

緒方貞子さん「事態はコントロールできるようになってきたと言っているが、私はそうは思わない。だから自分の目で見るために戻ってきた」

当時は、冷戦終結後の激動の時代。世界各地で紛争が相次ぎ、難民や避難民が急速に増加していました。

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防弾チョッキを着て現場に足を運び、人々に寄り添いながら、その苦しみを代弁しました。

緒方貞子さん「行き場を失い命を脅かされている人々が、この倍以上いるはず。決して許されない!」

こうした経験から緒方さんは、弱い人々を排斥する世界に向けて、ある理念を訴えたのです―。

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先日亡くなった緒方貞子さん。自分たちの正当性ばかり掲げ、弱い人々を排斥する世界の現状に警鐘を鳴らしていました。

緒方貞子さん「『正義』だけ追求すれば、全部そこで相争った民族の間で共存できるかと言ったら、そうはいかなくて、やはり何らかの形での“許し”、“和解”、“理解”が必要。そういうものと正義のバランスが『平和』というものを考える時に必要じゃないか」

そして、従来の「国家主体の軍事力による安全保障」ではなく、紛争や貧困など、あらゆる脅威から人々の安全や尊厳を守る「人間の安全保障」という理念を掲げ、世界に訴えたのです。

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その結果、2012年の国連総会では、「人間の安全保障」を重視する決議が、全会一致で採択されました。

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生前、緒方さんは、こう語っています。

「大事なのは“人々”です。“人間”です。人々というものを中心に据えて、安全においても繁栄についても考えていかなきゃならない。人々というものを頭に置かないで、威張って国を運営できる時代ではないのですー」  

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