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小さな死生学講座第3回

はじめに

前回は、カトリックのシスターであった渡辺和子さんが「小さな死」ということをどのような意味で使ったかを見てみました。そこでは「小さな死」の意味を「小さな死①」、「小さな死②」、「小さな死③」の3つに分けて述べました。今回は、それを受けて「小さな死」から、「自分の死」である「大きな死」にどのように至るのかを考えてみます。そのためには、まず、「小さな死」を経験する「私」はそもそもどのように考えたらよいのかについて述べて、その後に、「小さな死」から「大きな死」に至る道筋を考えてみます。


1)「小さな死」と「私」

第2回で述べた「小さな死①」と「小さな死②」を考えるには、まず「小さな死①」における、「大きな死」のリハーサルができる「私」と、「小さな死②」における、「わがまま」を抑える「私」は、どのような「私」なのかということを考えてみたいと思います。


ここで、ヒントとなる「私」は以下のような「私」です。ウィトゲンシュタインの研究者として有名な黒崎宏さんが、ライプニッツを論じている論文の中で、次のように「私」を示しています。

 私が存在している、という事は、私が
  the man who …
 として記述されている、という事である(注1)。

ここでは、ライプニッツとの関係において、このような「私」がどのように論じられているのかについては、小生には述べることはできませんが、このような「私」のとらえ方は、「小さな死①」と「小さな死②」を考える上で大きなヒントを与えてくれるように思われます。つまり、「私」は「こういうことができる」、そして「こういうことを考えている」、また「こういうことを願っている」、そのように記述される「私」が、存在している「私」ということと考えてみたいと思います(注2)。

そのように考えるならば、「私」について記述されていることの一つ一つを「失う」、「がまん」することが「小さな②」における経験であり、それが「大きな死」のリハーサルである「小さな死①」として、繰り返されて経験され、その経験の積み重ねたその先に、やがて「大きな死」に至るということではないでしょうか。「小さな死」が「大きな死」のリハーサルであるということは、「小さな死」を積み重ねて、やがてくる「大きな死」を受容することができるようになると考えるのです。その過程は、「小さな死①」と「小さな死②」を可能とさせる、「失うもの」や「がまんするもの」から成り立つ「私」において、「私」を構成している、さまざまなものが「小さな死」によって、一つづつが失われ、減少していき、ついには「私」を記述することが無くなって、「私」は消滅してしまい、それが「大きな死」ということになると考えるのです。
このことを分かりやすく示すと次のようになるかもしれません。

「私」=the man who …=f(x)=f(a,b,c,d,e,f,…………)

「私」を比喩的に「関数」のように表示してみました。ここにおける、a,b,c…は「変数」で、それぞれは「私」を記述する具体的事柄を指すものです。例えば、aは「100メートルを歩くことができる」とする、すなわち、a=100で、10メートルしか歩くことができなくなれば、a=10となります。しかし、ある時、「私」は歩くことができなくなれば、a=0になります。つまり、「歩くことはできない」ということです。また、例えば、bは「親が元気に生活している」ということであるとすると、両親が元気でいる時は、b=2ですが、父親が亡くなれば、b=1ということになり、そして、母親も亡くなればb=0とされます。つまり、a=0となり、「小さな死」を経験し、b=0となり、また「小さな死」を経験していくのです。ここでは、誤解のないように断っておきますが、aやbを100とか2とかとすることは、「私」を数量化して表そうとしているのではありません。
「私」をこのように示すことができるとすれば、「私」を存在させる、個々のaなりbなりを失ったり、がまんすることが「小さな死」を経験した「私」となります。すなわち、「私」は次のように「小さな死」を重ねていくと考えます。

 「私」=f(a,b,c,d,e,f,…………)
    ↓「小さな死」
 「私」=f(0,b,c,d,e,f,…………) 
    ↓「小さな死」
 「私」=f(0,0,c,d,e,f,…………)
    ↓
    ?

すると最終的に「私」はどのようになるのでしょうか。
つまり、「私」は次のようになります。

 「私」=f(0,0,0,0,0,0,……)=0

すなわち、「私」は無になり、これが「大きな死」としての「私の死」です。

このように考えると経験的に、もちろん、最終の「大きな死」にいたる最後の「小さな死」はこのように連続に捉えられるものであるのかはにわかに分かりませんが、「小さな死」から「大きな死」への過程は連続的に理解できるようでもあります。最終的には、無になることはイメージしやすいようにも思われます。

しかし、渡辺和子さんの「小さな死③」の意味はこのような理解では受け止められないように思います。なぜなら、「新しいいのち」を生むとされる「小さな死③」をこの関数では理解しにくいようです。では、どのように考えればよいでしょうか。次にそのことを考えてみましょう。

2)「小さな死」と<新しい「私」>

先ほどの「私」が「小さな死」を経て、「新たないのち」である「新しい私」が生まれると考えてみてはどうでしょうか。a,b,cを失うのではなく、それらが他のものに変わっていくと考えるのです。aがAに、bがBに、cがCにと、すなわち、次のように示してみます。
  
「私」=f(x)=f(a,b,c,d,e,f,…………)
    ↓「小さな死」

新しい「私」=f(A,b,c,d,e,f…………) 
    ↓「小さな死」
新しい「私」=f(A,B,c,d,e,f,…………)
    ↓
    ↓
「全く新しい私」=f(A,B,C,D,E,F………):大きな死
 
最終的に「大きな死」によって「全く新しい私」が生まれるということです。しかし、このような「全く新しい私」になること自体を、「小さな死」を経験していく「私」には経験できるのでしょうか。このようにして「大きな死」によって生まれた「全く新しい私」は、「小さな死」を経験してきた「私」とは異なる「全く新しい私」と考えられますから、経験することはできないのではないでしょうか。この意味では、「小さな死」を経験してきた「私」と、「全く新しい私」の間には経験を超える飛躍があるように考えられます。そう考えると、「全く新しい私」というものは、経験的に知ることではなく、経験を超えて「信じる」という意味で、宗教的な意味において理解することになるように思います。ここに、キリスト者ではない小生にとっては、渡辺和子さんの「小さな死③」を捉えることにおいては限界があるかもしれません。

3)最後に―「小さな死」の可能性―

ここでは、渡辺和子氏による「小さな死」から、どのような示唆を得ることができるかを考えました。そこで得られた「小さな死①」と「小さな死②」の意味は、キリスト教の信仰を持たない者にも十分に「大きな死」に向かう「私」をイメージでき、受け止められたように考えます。しかし、「小さな死③」の意味にある、「自己中心的な自分との絶え間ない戦い」において存在し、新たないのちを生む「私」がなせることとしての「小さな死③」を理解するのには限界があるように思われます。渡辺和子さんの最も核心にあるのは実は「小さな死③」であるのではないかと思います。
しかしながらは、前述した「無となる私」と「新しいいのちになる私」を小生の立場から折り合いをつけるとすればどのように考えたらよいでしょうか。

その一つのヒントを示せば次のようなことになるかもしれません。清貧の乞食僧であった良寛の辞世の歌といわれているものがあります。すなわち、

形見とて何か残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉(注3)

この良寛の歌に見る死の有り様からは次のように学ぶことができるのではないでしょうか。「大きな死」における「全く新しい私」への「変容」というものは、自己が自然の中に立ち返り、自然の中に同化する「私の変容」であると考えるのです。そう考えれば、自己の「無」化と、「全く新しい私」への変容は、「大きな死」によって両立するのかもしれないと考えましたが、どうでしょうか。

まとめ

・「小さな死」を経験する「私」は、記述される「私」と考えます。

・「私」は「小さな死」の経験を日常的に積み重ねて、やがて「自分の死」である「大きな死」に至ります。

・「私」は「小さな死」により「新しい私」になり、「小さな死」を積み重ねて「大きな死」にいたり、「全く新しい私」になります。

次回は、小生を「小さな死」に向かわせたもう一人のジョルジュ・バタイユの「小さな死」について述べたいと思います。そして、渡辺和子さんの「小さな死」と、バタイユの「小さな死」を比較して共通点を考えてみたいと思います。

(1)黒崎 宏「ライプニッツ試論-原子論(アトミズム)から単子論(モナドロジー)へ- 」、成城大学大学院文学研究科『ヨーロッパ文化研究』(第34集、2015年)、33頁

(2)(少し長い注ですが、本文に入れられないので、枝葉の部分としてお読みください。)このような「私」の捉え方を、ある学会のシンポジウムで「小さな死」について話した折に述べたのですが、ある参加者から「そのような人間の見方はかなり特殊ではないのか」というような意見が小生に向けられました。「私が存在している」ということは「私」が記述されていることということは、一見わかりにくいようにも思いますが、いろいろと経験する「私」の他に「本当の私がいるのだ」という囚われから解放されることが、「小さな死」における「私」を理解するには必要ではないかというのが、このような「私」を考える理由でもあります。参考になる議論はあります。
例えば、日本の独自の哲学を展開したとされる西田幾多郎は、次のように言っています。

「個人あって経験があるにあらず、経験あって個人あるのである」    (西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、1950年)、4頁。)

ここでの西田の「経験」や「個人」については、西田哲学の専門家による解説がいろいろとありますが、小生には、「経験」とは別にまず「個人」、すなわち「私」があるのではないということを考えると、「小さな死」を経験し、日々「新しい私」になることをイメージしやすいと思いました。よく、「自分探しの旅に出かける」などと言いますが、これは「今いる私は私ではなく、本当の私はどこかにいる」という発想に通じていると思います。しかし、上記の西田の引用の「個人」を「私」と考えてみれば、「自分探しの旅に出かけている私」以外に「私」などいないということにならないでしょうか。「自分探しの旅に出る」ような、悩んでいる「私」以外に「本当の私」などはいないのです。それなら、今生きて悩んでいる私の問題を解決する方が先決だと気がつくのではないでしょうか。でも、それができないから旅などに出てしまうのですが。今悩んでいる「私」以外に「私」はいないと考えれば、その「私」の問題を解決しなければならないのです。こう考えると、渡辺和子さんの『置かれた場所で咲なさい』にも通じるように思います。
もう一つ参考になる議論を紹介しておきましょう。それは、有名な精神科医でもある木村敏さんの次のような議論です。

「Aは、Aと非Aの境界あるいは区別である」(木村敏『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫、2015年)、42頁。)

これは、何かおかしな文章のようにも思いますが、ここでの「A」を「私」に置き換えてみると次のように言えるかもしれません。

私は、私と環境との境界あるいは区別である。

木村敏さんも「環境」という言葉を使っている(前掲書、42頁)のですが、つまり、「私」は、「私」と、「私」を取り巻く「環境」との境界にあるということになります。要するに、「私」とは、「私」と「環境」との境界、すなわち関係性において存在しているということになります。「私」は「環境」と関係していることとして存在しているので、その「環境」とは無関係に独立して「本当の私」がいるのではないということです。

以上の議論を参考にすると、記述される「私」が存在している「私」であるということの理解の助けになるようにも思うのですが、また改めて考えてみたいと思います。

(3)中野東禅『100分de名著 良寛詩歌集』(NHK出版、2015年)、99頁。この歌には、似たかたちの2首が伝えられているが、ここではその内の一首を引用している。

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