方丈記

「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」
お婆ちゃんの相槌は長く、いつも方丈記の冒頭部分で、意味ばかりあり、文化を語る滑稽な人間と等しく、聞くたびに侘びしい気持ちになる。何を言おうにも、返ってくるのは方丈記の冒頭部分で、諸行無常を伝えているのはわかるが、聞いている文章というのは、時場所、お婆ちゃんの喉の調子は違えど、全く同じように聞こえ、もとの水にあらずとは、心の底からは思えない、つまり矛盾、お婆ちゃんの相槌は、白と黒ほど安易に壁を認識出来るほど明確な矛盾を孕んでいる。
「お婆ちゃん。いい加減その相槌やめなよ。怖いからそろそろ」
「へえへえ」
お婆ちゃんはしぼしぼな口でイソギンチャクが靡くように言う。私は、方丈記の冒頭部分ではない相槌をお婆ちゃんから初めて聞いて、途端に、どっと恐怖を水を総身に浴びたように感じ、死ぬ、と思う。お婆ちゃんの死期が、近くに、足音が聞こえるほどに迫っているのだと、生物の潜在的な機能として感じられる。
「お婆ちゃん!やばいよ!もしかしたら方丈記じゃないと駄目なのかもしれない!方丈記でお願い!」
「へえへえ」
「お婆ちゃん!お願い!行く川の流れは絶えずしてって!お願い!」
「お婆ちゃんね。鴨長明さんと一回セックスしたことがあってね。鴨長明さん、早漏だったなぁ」
お婆ちゃんは、顔を上げて窓の外の遠くを見て、すっきりとした顔で陽の光を受けながら言う。その様は朝顔にも似通い、儚く、方丈記の冒頭部分のようだ。
「お婆ちゃん!鴨長明と時代重なってないでしょ!しっかりして!」
「鴨長明さんのイキ顔なんかは無常そのもので、方丈記を読まずとも、彼自身が無常を体現しているものだから、除夜の鐘のようにお婆ちゃんもしっかりと無常らしく喘いでね。かこーん、かこーんって鳴いたものだよ。ああ早漏なのも、なんだか無常だねえ」
「お婆ちゃん!孫はお婆ちゃんのセックスの話なんか聞きたくないよ!しっかりして!」
「お婆ちゃんはね、認知症なんだよ」
「認知症の人は認知症なんだよって言わないよ!」
「でもさあ認知症の人間の感じてる世界なんて貴方にはわからないでしょう?この世界がさ、認知症の人間が空想して作った世界だったらどうする?全然あり得る訳だよ。ねえキスして?」
お婆ちゃんは目をつぶり、口を窄めてこちらを向く。96歳のキス顔は、貫禄があり、畳を何枚も隔ててキスしても唇の感触を感じてしまいそうな貫通力がある。私はこの女と同じ血が入っており、そして私も年老いたらこうなるのだと思うと、酷く虚しくなり、孫にキスせがまないで、と思いながらもああどうでもいいと思いキスする。今までの男としてきたものよりも、遥かに濃厚なエロいキスをする。お婆ちゃんも昔を思い出したのか、いやそういうエロではなく、感じるというより楽しそうに、スポーツやボードゲームを嗜むようにキスをする。それは途轍も無く気持ち悪いキスで、嘔吐感が込み上げて来るが、それが妙に面白くなり、数分キスをする。
「お婆ちゃんさ。孫とキスするなんて、ほんと吐きそうだったわ。気持ちわりい。行く川の流れは絶えずしてえへへへへへへへへへへへへへへへ」
とお婆ちゃんは言いながら横に倒れていき、そのまま息を引き取ったが、死んでからもへへへという笑い声は止まらず、火葬したところでやっと収まった。そして遺骨を見たら、方丈記って遺骨で書かれてて、きめえと思って、「方」の上のちょんとした所の骨を食べてみたら、ずっと脳内で無常無常無常無常って囁かれるものだから、凄い後悔して、明日死んで無常を証明しようと思ったが、
「まじできめえこと起きたら人間死ぬっしょ」
と私は口走ってて、ニューヨークの嶋佐さんがやるヤンキーのモノマネみたいな口調になっちゃってて、おもしれえと思い、敢えて生きてみることにする。この物語を英語で翻訳するとMondayだそうです。

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