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9/19〜24

平穏から来る無価値と芸術についての考えが、今アートスピリットを読み始めたので熱い。まだ10ページくらいしか読んでないけれど、大体わかる。言って欲しい言葉を言ってくれる。先人が経験した道をなぞるだけでなく、自分の道を、自分の体験を宇宙に刻んでいくこと、その姿勢が問われる。生きるだけでは空虚で、好奇心のままにふらっと時間も忘れて、愛するものを好きなだけ取り入れて、会話をして、記録をして、自分らしい生活を築いていく、死や秩序への抵抗を自然の理の中で行う、不完全が完全的な美しさがある、これが芸術家。そこに宇宙からの試練がある、生活苦にあえぐ、不平等な現実に晒される、人を依存させてぐるぐるさせるものが沢山人生に入り込んでくる、芸術家になれないものにとっての世界を突きつけられる、その中に精神力、作家の心が現れる。死や秩序への抵抗としての楽観的な自分らしさの表現が、その試練に汚されて失われるのか、愛が屈折してしまっていいのか、純粋な流れの中に使命や価値を見つけないのか。愛、楽観的な心、試練を捉える姿勢が宿ってる作品は伝わる。試練を際立たせるほど、楽観的な心や自分らしさは強く表さなくてはいけない。試練を味わうものほど、試練の際立った作品を好む。大衆化されるほどに、試練を淡くして楽観的な心を誇張する、社会の秩序に内包されていけば自分らしさは薄まる、嘘が次第に濃くなる。逆に試練を濃くしても、その人の楽観的な心が勝利していなかったら、ただの共感と慰めになる、純文学はそれが多い、そういう作品で沢山泣いてきたけど、本質的な意味で救われたことはない。昔と今とでは、試練の種類が違う、生死をかける世界観ではないから野生的でなく、理性を高めてるようで理性をいじくられて支配されている、喉を圧迫されて呼吸を止められていくような苦しさがある。死によって支配する世界から、生を与えることによって支配する世界に変わった、ことが大きい。私は楽観的な心や自分らしさの維持ができなかったので、ヨガを学んだ。ヨガは芸術の一つの表現であって、ヨガの姿勢は、楽観的な心を、プラーナの次元にまで作り、作品や記録などの物質的な形ではなく、存在や意識によってサットヴァなバイブレーションを空間に満たすことで、自分の楽観性を維持した、宇宙や人生の流れの中で、そういう役目だと許容して進んだ。どの芸術の道を辿っても次第にここに辿り着くと思う、ただここには、自分らしさ、や好奇心が語られていない。ヨガのサマーディを目指して修行に入ること自体は、ヨガの道に入る運命的な選択だけど、ヨガを極めようとすると、自分なりの道、語られてることを真似るのではなく、それをヒントに、自分を進める姿勢を問われる感じがする。自分を知り、自分らしい形で、修行をするということ、そして人間や物質としての普遍的な基盤はヨガの教えにあるよ、と教えてくれているような気がする。平穏になってからが戦い。悟った後は体験するのみ、と教えがある。ヨガによって平穏・空虚になり、芸術家となり、試練の許容量を高めるということ、人生は修行で、どう進むべきか考える、そういう腹の座り方、地への足のつけ方、脱力。激しい道は、不安感や緊張から、反応的にぐるぐるしたものに入り、次第に苦しさを高め、何か大きな試練の機会を経て劇的に成長し、そこの点で平穏な道に入る。平穏な道は、始めは激しい道の記憶に抵抗することで苦しく、段々と楽になっていき徐々に成長していくが、宇宙から掃除の役目を受けて、累進的に試練のレベルや量は上がっていくので、始めは苦しいけど段々と楽になる道を複数同時並行で進む形になり、ずっと苦しいし嬉しい状態で、休ませて、となる。だから、どちらも自然で、意思でどちらかに行こうとするのではなくて、宇宙の流れに一瞬一瞬身を寄せる能力を高める。心を常に見張り、火は小さいうちに消す。最近の流れは、落ち着いた暮らし平穏な道をしている時、宇宙から試練が降りかかる、そこにも許容とバランスを見出していて安定していた、しかしこれが一生続くのか?となり淀みが少しありそれを取り除く方法がわからなかった、つまり気付かされた、だからより理解するために、激しい道に入った、という感じ。あの時、その流れを汲めてたら、同じ結果が用意されていたとしても、もっと平穏な道で進めたかもしれない、何か古い価値観を壊し学びを求めて激しい波に入る必要がある時、その波をコンパクトに、英気を養うように行えたかもしれない。平穏と楽観的な変化の付け方、激しい波の予防の仕方、そこが、芸術の意識と感じる。前回の早漏についての考察は、少し間違いもあった。勃起はリラックス、副交感神経、タマスで、射精は緊張、交感神経、ラジャス。純粋な興奮とリラックスを持つことが大事で、勃起を維持し続ける方向性で筋トレをしなくてはいけなかった。ヨガを極めてる男の人の筋肉が太く、そこから優しく肉付きの良い感じは、男性意識に素直な上で、女性意識に周波数を合わせれてる感じがする。中身は男でエネルギーが出てて外見は女という感じで男が飛び越えてる感じ。これを目指したい。ミラーニューロンとテレパシーと全体感。今日は催眠がそこから始まる考えになったが、あってるのか?万物には、表面的には見えずとも、同調して、ミラーニューロンを繋げて、宇宙のリズムや流れをしっかり感じると、コミュニケーションが見えて、無意識的な制限、課題やゴールがあるのがわかる。だからそれを一緒になって内側の力を引き出して、イメージして体験して覚える、そこの場所に回帰していく、純粋から物質へと、魔法を目に見えるものにしていく。他人や人生で出会えるもの全て、自分の無意識的な制限、深い深い記憶の何か。本は世界に山ほどあり、人生のうちで読めるものはごくわずか。人智の及ばないくらい芸術的なものが、レベルを下げて表面的で物質的なものになってる。それでも、あの空の美しさ、木の美しさ、摂理の美しさ、深すぎる。だから一点に潜る。広くて仕方がないから。言葉や意思で許容するのではなくて、内的な力で一点から見える視界で、パーっと行く、今までが嘘みたいに軽々と超える。方法を知るだけで、簡単に感じられる。そしたら、今まで拒絶してた価値観との出会いや、進んでほしくない方向の世界が人生に現れなくなる。インターネットがあり、普遍的な情報が溢れてるのに、身体や意識の動きでうまく避けていく。インターネットや電子機器、電気信号の中に運命が混ざってるのがエモい。それは、ある意味パラレルワールドで、世界線の仮説を証明できてる。ヨガでも客観的な世界は存在せず、見るものが複数あることによって、心や見られるものがあると言ってる。大きな道は決められてるが、その中の細い道は選択できるという運命の話がある。その大きな道のスケールはむちゃむちゃ大きくて、細い道はちょう自由なのかもしれない。高木正勝は村へ行き、入れたくない情報を遮断して幸せライフを送ってる。世界を旅して、宇宙のバランスやそれぞれの世界の幸福を知ったのだろうし、宇宙にとって対等な立場として、ただの野生動物として自分を幸せにすることに集中したのだと思う。それが結果的に、生きていく流れの中で社会との接点を持ち音楽家としてサットヴァなバイブレーションを社会にも広げていってる。闇雲に真似るのではなく、自分の形でそれを実現していくでしょう。一つ上、既に自分の幸せを選ぶ道は見えてる。それでも不安に負けて我慢に入る。最大限自分を幸せな方向に進ませる。弱さからではなく、強さで。シンプルにそれをすれば良かった。極論、生きているだけで幸せなのに。どうして俺は求めた、という驚き。本能的な欲望とリラックス。理性で支配された欲望、脳の学習、思考や意思の領域からくる制限や抑圧や支配、思考的な不安や恐怖、そして敗北、抵抗や誤魔化し、反復。この方向性のラジャスやタマスは、リラックスで解放される。感覚が溶けるような、皮膚から湯気が出るような感じで、存在が淡くなる気持ちよさ。本能的な欲望は、純粋。純粋な生存本能は、自然や他人に恐怖を感じ、戦闘や回避の意識に入るその純粋さが既に勝利。仲間を見つければ、なりふり構わず飛び上がるように喜び、守り合う。眠る時は純粋な安心感を感じ、眠る。危機感とリラックスで観察のレベルが上がる、ますます宇宙の純粋な目的とシンクロしていく。この本能的な欲望の方向性から理性的な欲望を引き出して再学習していく。植え付けられた学習、純粋な本能を邪魔する学習を掃除し、塗り替えていく。洗練された理性的な欲望だけが残っていく。好奇心や生存のための積極的な知恵である。人類社会で植え付けられた学習から来る価値ではなく、自分らしさや人生の流れの中での経験から自分の価値や生きがいを見出す。計画性は、より本能的欲望を重視したものに変わる。記録をし続ける、一つ上のステップだけを見つめるようになる。リラックスが深まり、本能的な欲望が高まるほどに思考は円滑になる。スムーズになり、スムーズな思考を学習していく。理性的な欲望からくる不安、リスクを細かく理解し許容しリラックスした上で、本能的欲望との調和のアイデアを考える。その願いは観察のレベルの高まりにより、一枚づつパラレルワールドへ行き、神に通ずる。本能的な欲望を中心として、多様な芸術が展開する。どんなに人と違っても、どんなに自分らしさが社会と結びつかなくても、リラックスと本能的な欲望を極めれば無敵。

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