はえ

目を開けたら血で、黒くて赤くてそのどちらもを果てしなく遠ざけたようなの、とまばたきをした遺伝子をばらまきたいだけの哀れな存在がまるになろうと空を食べてしまいそうな鉄柱を見て肩を内側に入れた。
「誰なんですか、と悩むのは遺伝子で、やはり抜けられないのは穴。抜けられない穴に私が入りたいのではなく入れたいと外に排泄するのも遺伝子なのでは穴」
爪の先にはハエが止まり、指は消えていた。ハエがもうハエであることをやめて羽を落とすでもなく使うでもなく丸め、指はそんな発想があったのかと感心しきったゆえに消えたのだった。ハエの音、それは羽音であるのかハエの存在そのものの音であるのか消えた指の損ないを受け止めきれないものにはわからず転がりながら物理法則への忠誠を想起させハエになった。
まるになりハエになりつつ鉄柱は空を食べるのではなくさびれて笑い、その軋んだ音は触ることのできない物理法則への忠誠を誓うものだった。
鉄柱は朽ちていきながらどこまでもハエにまとわりついてきていた。空は弧を描きながら壁を走るように降りてきていてハエの三半規管から油が垂れていた。ハエは自らの体積を越えた油が自らの中から出てきたことにぱっと驚き、それから溺れた。
「考えで、思想で良い人間になろうとしてました。考えは呼び水なのに」
と油は言った。「感動はずっとありあまるほど私の中にあってそれが本を読めば読むほど見つけられるようになって残したい思いがありすぎてそれでも手は二本で意識は一つに見えて狭い小さい私は儚い、一人の大きな人間、小さいと思えて美しい感じ、あっ、となる感覚、一人ひとりが本当にやばいのに、そのやばさが消えてる感じがするの、ほんとうにつまらない世界を作ってる奴らがいるの、ぶっ殺したくてたまらない、人を殺すよりも法を犯すよりもやばいことしてる人間がいる、慣れて適応して見えてない世界があるから、意識を歪めて超えないと駄目だよこれは当然なんだ、やるしかないんだよ。くそみたいなやつがいるんだよ。つまらないもの作ってるやつがいるんだよ。黙って理解してる場合じゃないんだよ、どうせ死ぬんだから。お前がやらないと、お前はつまらない人間のままなんだよ、なんで自分も他人もなんだって理解してくれないんだ、私はずっと言っているのに」
油はずっと喋り続けた。ハエは溺れたままもがきながらその声を聞き続けて死んだ。耳に届いても何もできなかった。何もできなかったから、何もできなかった。ほんとうに何もできなかった。何も、何も、何も、振り返ってみたら何か成し遂げたことがありそうなかんじだけど、いざ振り返ってみると何も、何も、何も、何もできてなかったから何もできなかった。可哀想にもなれない嬉しいにもなれない何でもない、ただ何もできなかった。
私はそんなハエを見ていた。冷蔵庫の横で床に落ちていた、そんなハエを見ていた。

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