カバの飼育員

時折、何でだろう、と思うことがある。これは病気だ。5月病やインフルエンザなんかではない、もっと巧妙で聡明な、プールが一面コンクリートで埋め尽くされていたような、そんな怖さをいくらの食感みたいにプチプチと味あわせてくる、そういう病気だ。
つまりカバの歯を磨くのは、一苦労だということである。カバの歯を見ていると、田舎のお爺ちゃんを思い出す。きっとあの出来事が気がかりなのだ。
お爺ちゃんはにんじん農家を営んでいるのだけど、私がこうしてカバの飼育員になるために家を出る前日、八百屋でにんじんを買っていたのである。
「お爺ちゃん、なんで八百屋でにんじんを買ったの?」と私が尋ねると、お爺ちゃんは、何も言わなかった。
私は、少しまずいことを聞いてしまったなぁ、と染み染み思い思い、口を閉じた。
そしてお茶でも淹れようとおもって立ち上がったとき、お爺ちゃんは、一瞬何か考えるような顔をして、スケッチブックを本棚から取り出した。恐らく私は、ここで止めるべきだったのだ。お爺ちゃんは、クレヨンでそのページをオレンジ色に塗り始めた。
「お爺ちゃん!」
私は、口を閉じられるはずもなかった。「何してるの!」
お爺ちゃんは、寡黙に、まるで僧にでもなったように、塗ることをやめなかった。
そしてそのページをオレンジ色に塗り潰した瞬間、「拝めええええええ!!!!!」と何度も繰り返し言って、そのスケッチブックを破っては、宙へと投げ続けた。
私は、お爺ちゃんが八百屋でにんじんを買った理由がわかる気がした。
わかるというのは、所詮こんなものだ。
私は、いつの間にか、カバの歯を磨いていた。
「カバ子、死んでくれないか?」
私は、いくら磨いても臭い臭い歯に向かってそう言っていた。

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