跳ねる前のやつ

「ピザカッターで指切れちゃったの」
生き物なのに言葉を話すから、いつも会話をしている時、「生き物なのに言葉を喋っている、大変珍しい、こんなに珍しい生き物がいるなんて、ああこの体がそうか、私と話している生き物も似たようなことをしている、この体で何かを体験している、面白いな、感謝とはこういう気持ちなのだろうか」と飽きるまでこのフィールドを反芻して花壇に水をやる時みたいに色んな感情を並べて笑っている。そのとき、声に出していないから聞こえる訳がないという物理的な思い込みで、スペースのある居場所を持っているという根のような感覚を備えた。
「え?」
黙っていると、怪訝な表情が教室の壁に擦り切れそうなくらい大きくなっていて、驚いた。
「ピザカッターで指切れちゃったの!」と私は何か言葉にしないと、と焦りその驚きをエネルギー保存して、おうむ返しに転換した。その声に、私はまたくすりときた。また生き物なのに喋っていると思って面白かった。
「そうなんだよ。やばいよな」
包帯を解いて見せてくれた。人差し指が第二関節までしかなかった。爪が見えなかった。私は驚いた。声が出なかった。
床に座り込んでみた。椅子はなく、床はあった。そのただ指の断面を見せてきた楽観的な人は、私の前を素通りしながら、また別の誰かに断面を見せようと、包帯を巻き直していた。
「やっばー」
「それ生えたりすんの?」
「生えないにきまってんじゃん!」
この教室は明るかった。
私は学校をやめた。学校をやめてから笑う癖は日に日に悪化していった。おしっこが水面に落ちる音が螺旋状に続いてトリップしそうな時や、粗食しきった食べ物を極自然に飲み込んだ一瞬の隙や、喘ぎ声に意識を住ませて射精しないように性感帯を和めているセックスの途中、私はいつも喋っていて、その筋肉の動きや鼓膜の震えを笑っている。そんなレベルだった。
人の目を気にして、何か際立ったものを欲しがった。弱点に目を向けられないくらい派手なものが必要だった。河原で石を拾って、名前をつけた。これは恥かしがってしまうもうあやされることのない童心。下北沢、目黒、八王子、と行ったところのない土地の名前を石につけた、空を見ながら考えた。地球にはいて、空は繋がっている、この地面もつながっている、空気も共有している、ただ別れた名前、相対性の中にしか存在を確かめられない発想力の無さに私はとてもくつろいだ。背中を草むらにつけて河川敷の絵に描いたような斜めで、手を後頭部に置いて横になるのは、随分わかりやすく、敵みたいだった。私は今、相対性を解いて存在を消そうとしているのだと、それも無意識に。単調な思想みたいな草が生い茂って、私をくすぐってきているようだった。むしった。口に入れて噛んだ。感じたことのない味だった。新しい自分を作れたような気が、シナモンの香りみたいに仄かだけでも濃く残り、顔に張り付いていたような空が私から電車みたいな勢いで離れていった。電車の音、女子高生の笑い声、自転車のタイヤとコンクリートが擦れる音、雲が流れるスピード、立ち並ぶビルの高さ、橋がかかっている人類性、意味のない川、まだ当分朽ちることのない体。恐竜を思い浮かべた。初めは街に乗せて、社会を意識して申し訳ないと思い、社会を内包するくらい大きくして、雲の背丈を超えて、どこから恐竜かわからないくらい感覚器官を覆った。その匂いが覆われた感覚が、私のなりたい姿のようでとても心地が良い目蓋の裏だった。
肌寒さからカラスの声。この一瞬、ふと気を抜いた一瞬、草むらの奥の土の蠕動に沈み込み、地球の奥まで入っていった。土の匂い、背中を燃やすガスコンロのイメージ。気づけば、布団の中にいて朝になっていた。地続きにカラスの声。布団の柄、プーさん。

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