射精

ピアノな横断歩道を私と似た形をした動物が行き交い、斑点状の月月を目にして見下ろしてくる塔の群れ群れに囲まれたこの空間を切実な靴音で満たしている。電車が私を置いて過ぎ去る、規則正しい音が背後から帯状に広がる。信号を待っている車のエンジン音が物と物の間を縫い進み、糸みたいに絡まり徒労と受精する。通り過ぎる会話から意味が儚くなりいずれ音になる。私の感覚の奥で幾つも渦巻いたり波打ったりしている不安が重なり合った姿が表層に現れているような光景、私がいるからこの光景があるのか、それともこの光景があるから私がいるのか、そう考えることもまたこの光景の一部だった。光、青よりも先に赤が目に入る。私は青よりも赤を選ぶらしい。明日になりそうな夜のくすみに色んな光がお祭りみたいに浮かれている。滲み重なり交わり合う光たち、その光源が私みたいなもので、自他の区別などこの程度のものなのだろうと、顎に生まれたばかりのニキビを触りながら思った。錯綜して複雑でありながら、滑らかな風が鼻の下を通過する。死ぬ予感みたいな匂いがした。私の耳に糸を張っているクモに気づく。もう巣と呼ぶにふさわしいほど完成に近づいていたことにも気づいた。いつからそこにいたのだろう。静かな暗闇と煩い光の宴を背景にしてクモの足音が鮮明に聞こえ、耳が糸にひかれ揺れる。狂ってしまいそうだった。自分を確認したくてたまらなかった。ニキビを潰して顎を上げる。淡い焦点を合わしながら目をうろうろ動かしカーブミラーを見つける。ガードレールに腰掛けたこの体は私の破裂しそうな内面を外に滲ませることはない。空っぽ、何一つ非合理的な不如意を強いられないまま他人と生の重圧を補いあってきたような表情をしている。清々しく、全てを知った上で生まれてきたみたいな幼さがある。肩まで伸びきった髪の毛が何かの始まりを告げているみたいだ。これは光ではない、コントラストに唖然とする。言葉がこの世界とは切り離され独立したものとして踊っている。息が詰まり呼吸が深くなる。右手の親指を口に咥え、塩辛さを舐めながら何もかも忘れてゆく。フィルターのない太陽の日差しを抱きしめるように反射しながら嬉しそうに空に帰ってゆく水溜りのようだった。私は赤ちゃんの頃、指を全部口に入れて落ち着いていた、と母から聞いたのを思い出し、残りの4本の指を口に入れる。私を写している鏡と見つめ合いながら、指で舌を摘み舌が抑圧を振り切るように逃げる所作を張り合いを大切にしながら繰り返した。心臓のリズムに合わせて細胞一つ一つが跳ね上がる感覚と腐敗した魂が剥がれ昇ってゆくような寒気が背中を中心にして全身に澄み渡り、甘えただれて自立した気分になった。私はこの居心地が欲しかったのだろう。
車のクラクションが鳴っている。なぜこんなに煩いんだろう。鏡に過ぎ去る人が映る。人の多さが命を閉塞しているような矛盾した感覚がする。血の味がする、きっとニキビを潰したときのものだろう。
私の右手はいつの間にか、私の股間に弄り届いていて硬くなった性器を握り締めている。髪はツインテールに結われている。顔は私の一貫したものだけど、異様な空気感がもやみたいで余り深く輪郭を掴むことはできない。首を上に上げて何かをせがんでいる女の子に見えた。可愛かった。
手首を小気味よく動かす度に視界が晴れてゆくようだった。脳を触ってるみたいな、心臓を揉んでいるみたいな、体内との交流だった。見つめ合っていても、やはり他人という感じしかしない。手首を野性みたいに動かして気持ち良くなってるなんてわからない。よがったりすれば良いのに、と思いながら手首を動かし続けている。股間の奥で次第に形を帯びてゆく感覚がぬるい膜をすぐに越えようとする。視界の光度が上がるにつれ意識の奥へと潜れる。私はふと立ち上がり、カーブミラーの柱を左手で支えにしてガードレールの上に立ち自分でないような可愛いものとキスをする。冷たく同情のない唇に病みつきになる。見つめ合いながら、届かないと知りながら舌を入れようとする。舌の根本の筋肉が喜んでいる。ますます手首は焦り、可愛いものの手首欲しさにぎこちなさを演出しようとする。学習を超え私の中に女の子を宿すことに躍起になる。女の子の胸を揉むために私は女の子に胸を揉まれ、カーブミラーの柱を持っている手の中指は性器の中にたしかに入り壁をノックし、金属音が鯨になる。自律神経がおかしくなってると早漏になるという話をインターネットで見かけたことを思い出して、気づいたように射精した。手のひらで受け止めた後、手をズボンから取り出すと性器の先から糸を引きそれが尿道を擦り通り、何か私の本心のようなものを引っ張られている感覚を前立腺で感じる。手の平には生暖かい池が広がり、三原色的な光に照らされながら白い光を発していた。この中で泳いでいる無数の精子は私の手のひらの上で誰にも気づかれず死んでゆく。この子たちはこの街で、この街にいる一匹の手のひらの上にいるとはきっとわからない。何も、この環境の外のことなんてわからない。私も同じだったから、足元にあったグレーチングへ手を斜めにして流すように丁寧に逃した。
街に溜息を野放しにされている。耳を覆うネットが揺れる。今このクモが地球のメンテナンスのため調和を求めてここに来たのなら、私に不和があったのだろう。私は不意にクモを掴み口に入れる。言葉のない自然さがあった。舌で位置を整え一度じっくりと噛む。乾いた音と共に舌に体液が広がる。海老のような味がする鶏肉だった。何度か噛まれ離れ離れになっても動き続ける虫の生命力を感じて私は吐き出す。雑多に噛み切られた体が次々と唾液と体液に包まれて糸を垂らしながら外に出てくる。アスファルトの上、白い気泡の集合体の奥でそれぞれが何かを待つかのようにびくついている。口内の感覚を頼りに想像していたものよりずっとグロテスクだった。今一体何の回路で虫は動いているのだろう。いずれ虫の体は何かに変わってゆく。一体何が虫を形作っていたのだろう。この虫は取って代わる存在だったのだろうか。私の働きかけなしに動いている。虫の動きが静まってゆく。私はこの体がこんな風に無残な姿になれば消えるのだろうか。射精した後は項垂れる。頭頂部にある精子まで出たような全開感があった。こんな感覚が他のものにもあるのだろうか。衣服で覆われたその体に、あるのだろうか。無数の感覚が歩いている、感覚の上を感覚に挟まれて感覚の中を生きている。死んでも生きているような気がする。何が起きてるのかわからない。

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