ヤンキー

ここは生命環境であった。生命を維持するための時空であった。
私が純白のタイルと汚物のグラデーションを織りなした地面を足を滑らさないように踏みしめて歩いているとき遠くの幾何学に光る箱の前に座り込んでいる人影が見えた。影は何か怒鳴り声をあげ、影のそばの小さな煙は軽く空にあがり、頭部から伸びた黒い影は地平線まで続いているのがわかる、私は歩いているとその長い影に頬をかすめた。掠め取られた頬からは血が流れ、白と茶のタイルに赤が加わった。紅白が揃った今、明らかに茶が迫害を受けそうだと私は目線を下に向けて思った。
「おい!」
今度ははっきりと鋭い怒鳴り声が聞こえた。「何見てんだよ!あ!?」
私は声の方を向いて、そのときその長い影がリーゼントであることを察した。地面につかないように髪が固められた時間、その風貌をなすために髪を伸ばしてきた時間、その地道な時間の果てに彼の横柄な態度があるのだと思うと、やはり怒鳴り声は威圧ではなく努力に聞こえ、私は頬を緩めた。
「なあ!こっちこいよ!」
私は言われた通り近づいていった。小さな煙はだんだんと大きくなりそれが煙草であることがわかり、幾何学的な光を帯びた箱はコンビニであることがわかった。光と煙を帯びた根本のリーゼントは艶があり脱皮したての蛇のように見えた。
「なあお前、生命環境についてどう思う?」
「どう思うって、そういう話をする態度ではないでしょう?」
「ここが本当に生命環境だと思うか?」
「だからあなたは生命環境を議論するような人間ではないでしょう?」
「生命環境はみんなで作るものでその問題はみんなで共有するものだろ?作ってる奴らの環境がほんとの生命環境だろうよ。ここは作られてんだ。まじで死にたいよな」
「生命環境にそった発言してくださいよ。生命環境にあなたがいる以上あなたは生命環境にいて良い人間なんだからあなたは生命環境を語る資格なんてないんですよ。それにあなたヤンキーでしょ!?」
私はつつがなく怒っていた。
「あ!?」
私はヤンキーらしい声に足をすくませる。しかしヤンキーは地面に落とした煙草を踏みながら片耳を片手で抑え、誰かと会話しているだけに見えた。ヤンキーらしい声は怒りを向けた私に向けたものでなく、見えない何からしかった。
「お前がこっちに来いよ!あ!?なんで俺が行かないといけないんだよ!」
彼は苛立ちその苛立ちと並行して耳を抑えていない方の手でポケットを弄っていた。煙草を探しているように見えた。ポケットから煙草を見つけてもまだ何か探しているようだった。
「火!火がない!どうなってんだこのポケットは!この生命環境は用意されたものじゃねえのかよ!おい!お前火持ってんのか!?持ってんのかよ!行くよ!じゃあ行くよ!」
彼は立ち上がり「火持ってないよね!?」と私に言い、「ないです」と私が言うと「ついてきて」と優しい声で言って歩いていった。やがて私は気づいた。彼はリーゼントの方角に向かって歩きながら、そのリーゼントと一切対立することなく髪を頭の内部に取り込んでいるのだ。地平線まで伸びたリーゼントはどこかで固定されているように思えた。
海を超え、山を超え、砂漠を超えたとき、彼の口に咥えられた煙草はあそこを当てると感じられそうなくらい震えていて私は妙に興奮し、それまでも興奮していたことに気づいた。あそこの熱い感覚から溢れ出た体液を地面に落としていたゆえに私の後ろには線が見えていた。白と赤と茶を滲ませた線は、私を辿り、私に辿り着いてほしいという私のありのままの願いに見えた。彼の苛立ちは想像を絶しており、空を低くしていた。紛れもなく生命環境を歪めていた。
遠くでまた幾何学的な光の箱と小さな煙と座り込んだ人影を見つけた。そしてその人影から伸びる影は明らかに彼のリーゼントと繋がっている。彼のリーゼントは地平線の果てに誰かのリーゼントと繋がっていた。私は既視感ゆえに過去に遡ったように感じ、このリーゼントが時間そのものであるかのように錯覚した。
遠くの影が立ち上がり手招きをすると、彼は犬みたいに走り出してその遠くの影に飛び込んだ。「よしよしよしよし、よく頑張ったねえ」と懐かしいような聞き慣れたような声がつんざくように私の耳に届いた。煙が2つになっていた。彼はあやされながら、煙草を吸っていた。ベビースモーカーであり、その言葉の色や音はふしぎなくらい自然に私の耳にこびりついた。
そして私はなぜか、初めて彼のヤンキーらしい声を聞いたときよりも足を竦ませていた。おそるおそる、好奇心が限りない均衡を経て僅かに勝る感じで近づいた。彼が抱きついているのは紛れもなく私で、私と同じ体をしていて、その私はリーゼントをして彼のリーゼントと繋がっていた。彼が動くたびにリーゼントはバネみたいに伸縮を繰り返し、リーゼントの私は喜んでいた。私はリーゼントにしたこともなければ煙草を吸ったこともないゆえにこれは過去ではない。もしこれが未来だとするならば過去の私が後悔しなければならないが、私はリーゼントで火を持ち共に煙草を吸っている私を羨ましいと思った。
私はコンビニで火と煙草を買い、私の体液を辿った。私は待つことをやめて迎えに行き、線を伸ばすことをやめて線を重ね濃くしていった。ここまで無意識であった。何も考えず、ふと、ふと、ふと、ふと、ふと、あらゆる選択で、ふとが重なって生まれた行動だった。歩くにつれて空が高まっていった、空間が驚くほどに開けていった。振り返ったとき、私の線は太陽の光を受けて眩しいほど煌めき、地平線では巨大な虹がかかっていた。私は振り返る。振り返る前からもうわかっていた。目の前に誰かがいることを、運命の人が、私の線を辿って歩いていた人が、私が迎えに行っていた人が、いる、いるのだとわかっていた。捻れた首がもとに戻り始める。景色が流され線に近くなる。その流されてゆく景色は生命環境だと思えた。捻れた首がもとに戻る。それに追いつくように顔と髪が元に戻る。反動で前にいった髪はリーゼントのように見えるに違いない。パンテーンのCMのように私は振り返った。誰もいなかった。ただ私の線が見えた。驚くほどに泥々で、私の欲望が汚らしいもののように見えた。そんな私に同情さえした。可哀想だと思った。
私は咳をした。咳の音が広がり溶け込んでいった。咳をしても一人であった。そういう諺みたいなものがあることを思い出して、私は笑いだした。
「質感はいくらでもよくしていいのよ」
誰かの声が巻き消えて、私は一人でしたら面白いことを探した。私が一人でにして誰にも見てもらってなんてないのに頑張ったり拘ったりして私がその狂気や寂しさに笑っちゃうもの。私は踊り、笑えるものを探した。
「質感はいくらでもよくしていいのよ」
質感はいくらでもしていいのだと思えた。質感がなんであるか、なんて些細なことだった。考えられていることなんて些細で取るに足らないことなんだと思った。ふわっ。
線の上で踊る私はまさに内と外の隔たりを水蒸気のように柔らかく軽やかに超えることができて、うさぎみたいに生きるのが楽しそうに見えて、空が近くなっているのに気づいた。私が空に近づいているのだった。上空から見下ろすと一本の線に大量の人間が連なってこちらを見て立っていた。恐ろしかった。死ぬかもしれない、自殺してしまうかもしれない、私と同じように死ぬことが予め決定された誰かがいないと、私に親しい誰かがいないと、私は死んでしまうかもしれない、でも死んでいい、死んでしまえばいい、誰かが悲しくたって死んでしまえばいい、そんな支え合いなんて気持ち悪い、死んでしまえばいい、やっとそうだと思ってそうでなかった、慢心して超えて、その繰り返しだった。感情は止まらない、奥行きも広がりもある、一点なんてものはない。ああ、止まれない。横に歩けないと上に飛ぶらしい。私は笑っていた。

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