刺繍
豚が縫われていた。いつも食べられてばかりの豚が丁寧に矢継ぎ早に並べられ縫われ縫われ音は無かった。暗闇だったか、人は私だけで、円環の内に立ち止まり、首を人でなしに回していた。この首の動きからして、私は文化的に認知されている動物としての人ではないことは明らかだが、感覚としての人、遠心力で垣間見える姿は余りにも人ではない、感覚だけはそっと寄り添っていた。ぐつぐつして纏まりに欠けるアスファルトが肺胞に似てゆきながら広がっていた。
私は人の感覚が薄れてゆくのを、得体の知れない物体のうちで感じていた。時空が点々と流れているから、その流れに追いつけていないような、点を掴んだ時、既に他の点が価値を抱いていて、腐った点だけがいつも私の手の中にあるような。寂しい気持ちだった。彼女と別れた時と酷似していて、時空を掴めないと、人は寂しくなるのだと思った。私はもう人ではない。人というのも、浅はかな同一化である。何も、同じような形機能を持っているからといって、まとめられるものでもない。生殖できることだけがやっぱり不思議だ。無性生殖の花はお手本だ。思ったのが先か、花を見て連想していたのか、アスファルトに無数の花が生えていて音は無かった。不和、その花一つ一つに私が経験したことのある感覚を感じた。想起させられたといっても良い。私が何か芽生えさせた時の記憶、人であった頃の夜道を照らす街灯だった。
誰かの体の中で、にわかに私は豚骨ラーメンを食べた。感覚のことではあったが、この人の感覚が薄れてゆく中で死を予感して、最後の晩餐をしていた。体が欲しているのがわかった。この体つきからして、口はどこにあるのか、豚骨ラーメンを知るはずもないそんな体、食べ物という概念が通じるようにも思えない、目、目はどこについてる、私は明らかに豚の縫い合わせを見た、位置は高い、この体を私は動かせていない、確認もできない。涎をすする音だけが響き、暗闇のこの空間は密室だろうと思った。
生きている豚が二匹いた。背中を死んだ豚に引っ張られながら身を寄せ合い、二匹で何かを守っていた。腹と腹の隙間から漏れた光を、この体は逃さなかった。重機が動くような音がして、一気に反響してこの空間は落ち着きとは無縁になった。動揺した二匹の豚は手足を掻き動かして、球体を腹の外に出した。その球体が地球であることは見た目からも郷愁からも明らかで、それに噛み付いて離さないこの体は何なのか、豚のその泣き顔は何なのか、私はこうなる前の私を覚えているが、こうなるきっかけが不明である。突然この体が撃たれたとき、私も何かに追われている気配を感じた。この体が悶えて小気味良く歩いているとき、周囲から引っ張りを感じた。この体に私が重なってゆき、些細に縫われていることを感じた。豚からも、花からも、地球からも、素粒子にさえ、引っ張られていた。この体は動きをやめて静かに沈み込んでゆく。刺繍が重たいのが私にも伝わる。この体の動機が残りわずかな人の感覚でわかった。寂しいらしかった。二匹の豚も撃たれた音がした。密室ではなかったのか、懐かしい気配が背後にあった。人の足音が近づいてきて、徐々に懐かしさは薄れてゆく。かつての私が後ろにいる。この体はもう死んでいる。忌々しいとか恵まれているとか、言葉から生まれる出来合いの感覚ではなくて、空気が圧縮され穴を開けて吐き出されたような音になった。覗き込まれる。この体ではなく、私を。覗き込まれてしまう。私は立ち上がり走った。死体を纏っているのに妙に軽かった。豚も花も地球も引き連れている。根が千切れる音、豚がアスファルトに引きずられる音、地球が転がる音、皆が思い思いに望んだ姿だ。暗闇を背後から照らされて何も見えない。私は重さを軽さにして走っている。今も、たぶん訳など探さずにずっとである。
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