想起の失敗

都会に無数に蔓延るダンゴムシと、その夜を共有している木、静かに佇むゴリラの群れ。時間割はゆうに自我を持つ頃だった。
チクタクチクタク
時計が鳴り止まないとき、たかしくんはキレた。
「読書!!!!!」
たかしくんは読書をしていて、読書をしているくらいだから理性はデブのワイシャツのボタンのようなもので、それゆえに時計に人間の言語を話しても通じないから理解を求める必要はなくてただ感情を吐露したら良いのだと思い、そう叫んだのだった。
チクタクチクタク
静寂に包まれたたかしくんの耳には、時計がイチャイチャしているように聞こえた。二つの針は男女といって良い、二分法的思考も何もかも、2つだ!たかしくんは吐きようのない性欲をずっと大事に抱えながら、吐口のようなものを女性と見立てることに妙に怖さを感じており、二つという概念にキレていた。当然、長い針を男とした場合、フェミニストに怒られると思い、どちらが男か女か規定はしなかった。小説から字が蠢いて錯綜して飛び出してたかしくんは文盲に悶々として、元凶である時計の針を見てみてその2つの針の重なりを性欲を吐くようにエロく見立てたイメージをしようとしたが、どちらが男か女かわからない点で、よくわからない生殖を目的としないような性欲が満たされるだけであった。たかしくんはオナニーをしたことがないのだった。時計の針は進んでいる。この時計はたかしくんが生まれたときこの部屋にかけられ時を刻み始めたらしい。この時計はオナニーを知らないのである。
部屋は閑散としてはいない。貧乏人が想像する一般的に裕福な家の住まいである。二階に自分の部屋があり、勉強机になんか光るやつと地球儀が乗ってて横にベッドと本棚があるタイプである。たかしくんは貧乏人を想像して、「死ねば良い」と言った。自らと、そう想像させる貧乏人の惨めな姿と、それを作り出した人間たち、いやもっと深いところの全体に対してそう思ったのだった。
突如ゴリラが飛び出してきた。窓から忍びのように音を立てず、たかしくんの部屋に入り、時計の前に立ちはだかるとドラミングを始めた。
チクタクチクタク
時計は鳴り止まない。一切動揺を見せず、与えられた仕事を素直に疑いもせずにこなしている。こなすことを幸せだと胸を張っているように。
「たかしくん!」
たかしくんはふと、自分の名前を叫んだ。自らの名前である。気が気じゃない。自分の名前を叫ぶことはそうない。それに君付けである。童心の出来心だとしても引く。今はそういう時代である。
ウホッウホッウホッウホッ
ゴリラはたかしくん以外のご家族を気遣い、たかしくんの耳元で囁くようにそう言った。たかしくんの右耳に口を寄せるとき、たかしくんに当たらないように左のドラミングを小さめにする些細な優しさのこもった所作はたかしくんの心を射止めるばかりか、時計でさえ秒とは呼べないほど刹那的な時間であるが動揺ゆえに止まった。あまりにも綺麗だったのだ。
たかしくんはしおらしくなった。糸が切れたような転換機であったから、時計の針が一本増えた。時計の粋な計らいである。
「んねえ、たかしくんさあ、性欲がすごいんなあ。わかる?わかってくれるう?」
ゴリラは何も言わず、一回胸を叩いた。
「一回はYESってことやんなあ。たかしくんさあ、どうしたらこれ無くせるか知りたいんなあ。なあゴリラぁ🦍。知ってる?」
ゴリラは何も言わず、一回胸を叩いた。
「知ってんの!ええええええ!!!!やったああああああ!やった!やったよ!やったあああ!やった!やった!やったあ!やった!!!!!やったたたたたたたたやったたたたやった!うええええええええええええい!ふぉおおおおおおおおおおおお!」
たかしくんは家族への気遣いなく、部屋を跳ね回り、出来るだけ声を遠くに届けるようにこの喜びをカルチャーにするように叫んだ。読んでいた本は散り散りに敗れ散って、時計の針は100本をゆうに越していて、パンパンに詰まって苦しそうだった。ゴリラは小刻みに二回胸を叩き続けていた。自らの気遣いをむげにされてNOと何度も訴えていたのである。たかしくんがふわあああ、と言い元いた椅子に腰掛けるとき、ゴリラの胸はリンゴを無数につけているのかと見間違うほどに赤く細やかに腫れ込んでいた。
「どしたんそれ、さっきまでなかったやん。ファッション?何短時間で色気付いとんねん!」
たかしくんはゴリラの胸を見てそう言いながらゴリラの胸を叩いた。急に態度を変えてうざがられるかなという気負いはあった、ありながら喜びのあまり喜びを与えてくれたゴリラを所有したいと気持ちが表に出てしまったのだった。また欲しい。もっと欲しい。その喜びをもっと欲しい。水面を叩いたような音がした。
ジグーーーーー
二千本近い針を溜め込んだ時計が鳴った。部屋が弾け飛ぶような音だった。こんな音が眠っている可能性にしばしば感動した私は川にいた。川で水面を見ていたのである。右手が濡れており、それをゴリラの汗のように思った私は川で洗った。すると今度はその川がゴリラの汗に思えてきて、川の始まりで大量のゴリラがドラミングしている光景が鮮明にイメージできて、石に手を擦りつけた。石にはまだ何も思い入れがないから安全なのだ。
「たかしくん、、、、」
私はたかしくんではないのである。私はそう呟いてそう反芻した。
「あんなあ、私はねえ、たかしくんではないねんなあ」
しばらく自分を巡らせて無意識に喋ったとき、たかしくんのあのうち解けた、性欲が溜まりに溜まって、甘えみたいな声が出てるような、あの、え、と距離を取りたくなるような、口調が私に感染していることに気づいた。横に彼氏がいた。いや、私が一方的に彼氏と呼んでいるだけで、相手はたぶんその気がなく、ただ私の好きな人、片思いの人、いやセックスはした、だからたぶんセフレ、セフレがいた。どうしたの?という顔をしている。鼓膜はあの時計の音で妙に塞がっていて、好きな人は口を魚みたいにぱくぱくしてるけど何も聞こえない。私の声は聞こえるのにおかしい。おかしいよ。おかしい。
「おかしいよ!おかしい!おかしい!」
私は喋っていた。
「おかしい!おかしいよ!」
そうだ、そうだと、私を応援するみたいに、支持するみたいに喋っていた。いや、叫んでるに近いのかもしれない。でも私の知れるところじゃない。今私は時計の中にいるんだ。私しかわかってあげられない。
「おかしいよ!なんで!なんでこんななの!なんでうまくいかないの!なんで私はいつもうまくいかないの!んなあ、たかしくんなあ、うまくいかへんの。なんでかなあ、性欲が溜まりに溜まってるのに、吐き出されへんくて、吐き出す方法もわからないねん。たかしくん未来でなあ、セックスっていうやつ?したんなあ、したんやけどなあ、吐き出してる気がせえへんなあ、怖くて怖くてたまらないなあもお、どう思う?あると思う?まだ生きてたらさ、そういう吐き出せてる瞬間てさあると思う?試してばかりでさあ、吐き出せたと感じるとすぐに可能性が顔を出してきてさあ、止まるのは諦めたことみたいになんねんなあ、これ終わらんの?死んだ方がええねんかなあ、ねえ、どう思う?」
私は問うていた。口調が変わると不思議と吐露できている感覚があった。誰に問うているのか、定かではなかった。みんなそうであるという自覚があって、ここは単なる自覚の集まりだった。問いだけがずっと流れている。ゴリラの汗を問いのように思った。隣にいる男とはもう関わらないだろう。森は燦々としている。木々はとにかく自覚してからの開き直りが早いみたいに見える。早過ぎる連中の中に、私は取り残されているみたいだ。私が手を拭いた石はもう乾いていた。私だけ。私が決めるんだな。この問いは誰でもなく、取り残された私が。
私は手で器を作って川の水をすくって飲んだ。味はしなかった。

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