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19の頃、心が不安定な状態で書きました。未完成ですが、完成させる気はありません。中編です。

本文

 今、駅前に佇んでいる高校の制服を着た女の身体の中にいる貴方は、目の前の人混みの中で慌てふためく同じ高校の制服を着た女の身体の中にいる誰かと見つめ合い、誰かの身体に名前を呼ばれることを予見し喜んでいる。
 夏の暴力的な陽が射し込み、現実とは考え難い程の猛暑が駅を賑わせている。アスファルトの熱気が目に見えることなど表現が拙ない具合に、人々の表情が物語っている。蝉の歌が聞こえ、夏という情報で閉塞されているような圧迫感が尚暑さを掻き立てる。貴方の身体は汗をびっしょりかきながら、五感をゆらめかせ、たしかに生きている。
 地面に向かって斜めに吹く風が弁当屋から湧き出る匂いを駅前に漂わせ、人々の口内で唾液が溢れ出るのがわかるほどに貴方の身体の感覚と意識は研ぎ澄まされている。本屋の店頭で物色している制服姿の男女が振り返ると貴方の目と彼等の目が合い、貴方はどきりとする。視線が微かに泳ぐと、若い女が空を仰いで飲んでいるペットボトルの中の水が眩しい程煌めいて見え目が止まる。貴方の身体が喉の渇きに気づき水を欲しがり始めた瞬間、甲高い笑い声が何処かで始まる。
 貴方の身体は唾を飲み込み、貴方の喜びを今までの経験と今知覚している情報の有りっ丈を使い表現しようとイメージし始める。

水は体育座りで膝から顔を半分出し、私がほうれん草のおひたしを食べる姿を入念に見つめている。私は咀嚼しながらその愛らしい視線を感じ、水が私を見ているとき私も水を見ているのだ、と啓示するべく見つめ返している。
 水の一重瞼の三白眼は一切の毒気が無く、濁りが無く、虚飾が無く、善悪も何も、思いつく限り兎に角何も無いのだが、見つめ合った私の中にはただぽつりと喜びのような仄かな温度があり、ずうっと眺めていたいと思わされる。私は暫く見つめ合いうっとりした後、視界を広げ、心の中で会釈をして水の身体の全貌を拝む。
 水の顔は中性的で、波打際、狭間、黄昏時、境界というような曖昧な言葉が良く似合い、黒い髪も肩に着くくらい長いので、女に間違えられることもしばしばある。私の感じる世間の美醜の観点から見れば美人の類では無いが、水の美貌は到底思想や文化で象れる安易なものでは無いので、全く世間は分かっていないと可愛らしく憤怒することを私は趣味にしている。私の目から見た水の顔は余りにも健康的で、私が思う健康な人間特有の面の皮の薄さがあり、私が思う人間の嫌な匂いみたいなものが一切無く、私が思う中にしっかりと収められているのだ。
 夏の猛暑の必然的貸切状態の校舎の屋上で私たちは昼休みを過ごしている。水はカッターシャツを袖を捲り上げること無く着こなし、汗を一滴もかかず涼しげな顔で、きらきらとした瑞々しい眼差しで私を見つめているが、私はびっしょりと汗をかき、子宮からこの姿のまま出てきたかと疑ってしまうほどにぬめりとした姿で、手で身体に張り付いたブラウスをぺたぺたと剥がしたりしている。
 ぶううううんと奇怪な音がして、何かが私の耳を掠めたかと思うと、水の左の耳に蝉が止まり、その蝉は私に勝利を見せつけるみたいに熱唱し始める。水はきょとんとした顔で瞬きもせず、生物失格と思えるほど反応を見せないが、私は勝手に浮気された気分になり僅かに苛立つ。涼しい風が吹き、木々が靡き、屋上に張り巡らされた鉄格子が音を立て、私はお弁当を丁寧に地面に置き素早く立ち上がる。
「やめなさい!」
 私は仁王立ちで胸を張りアスファルトに汗を飛び散らせ、宇宙の代弁をする。蝉は嫌な笑い方をして水の元から離れて行く。「水といるといっつもこうだよ! 何で生き物が寄ってくるわけ!」
 水の彼女を気取った私が嬉しそうにそう言い元の位置に座ると、水が花を咲かせるように体育座りからあぐらに姿勢を変え、空を仰いで首を天に伸ばし人体構造では出せないような音を出して笑い始める。私の身体はその幾重にもなったような混沌とした音を耳にするや否や素早く身を乗り出し、耳を近づけるように首を伸ばし、鼓膜に意識を集中する。水の笑い声はその時場所で違い、感情を表す音を宇宙の全てから選んでいるような自由自在なもので、知性や反骨心のような匂いが一切無く、言葉や楽譜で表現することなど到底能わず、不思議なまま私の耳に届く。理解できない感動だけが私を包み込む。
 この笑い声が終わるのに十二分程かかるのを見越した私は、耳を澄ませて懐かしい心地に浸りながらお弁当を食べようと思い、お弁当を手に持つ。箸でほうれん草のおひたしを摘もうとした時、ぼそぼそとした聞き慣れた声が鼓膜に触れ、箸が止まる。
「梅雨明け。雲から覗く太陽。新芽。春。赤ちゃん。朝日。豆電球。ぬいぐるみ。空洞」
 私の身体が呟いているのだと気づきはっとする。私は水の不思議な笑い声に似ていると思うものを声に出し、不思議なものを言葉で丸め込み納得しようとしているのだ。決して表せないと知りながら未練がましく、水を私の理解の中に置こうとしている。一体どこまで私は人間なのかと自らが恐ろしくなるが、私の身体は止まってくれない。お弁当箱を置き、魂の抜けたように遠くの鉄塔を眺めながら、水の笑い声に耳を澄ませて機械のように呟いている。「遠い空。タンポポ。鳥の飛んでる姿。星が死ぬ所。風の交わり。雪解け水。旋回するサメ。キス。時間。深淵。人参。健康的な暮らし。山彦。紫陽花。耳の穴。大きなもの。電線の上のカラス。夜明け前。生きていけるだけのお金。好意。裸電球」
 数分後水が欠伸をして笑い声が止まり、私ははっと正気になり、頭が取れそうなほど首を振り、雑念を振り払う。首を振りながら見える焦点の定まらない視界で、腕と背筋を空に引っ張られるように伸ばし身体を捻り欠伸をしている安楽を纏った水の姿を捉え、訳もわからず胸の底が煮え、頭に血が昇り、首が痛くなり始める。私の髪が空気と楽しそうに戯れながら私の顔に当たるのを鬱陶しく感じて、感じている世界が感情を昇華する道具になって行くのを感じる。愛らしい水の笑い声で不本意に生まれたこの感情を怒りとは決して表現したくないが、既に私の身体はこの感情を昇華する建設的な会話とし、「水は今日も何も食べないの?」と責め立てるように尋ねている。
「水はお腹空く感覚がわかんないから」
 私は既に知っている。水は昼食を食べず、いつも私の食事姿を呑気に眺めている奇妙な生態を持っていることを知っている。隔絶された環境で独自の進化を遂げた生物のようだと知っている。私は知っているのに尋ねたのだ。水の阿保みたいな空っぽな声を聞き、あの沈殿物のような汚い感情が胸に浮かび上がって来る。無意識に過去を振り返り目的を果たす根拠を探し始め、情報が揃う。水が昼食を食べないことも、高一の春水と初めて会った時何故か懐かしい感覚を感じたことも、水と出会うのは運命だと思ったことも、水が私が見知った人間とは違うことも、水が私の想像の外にいることも、水の不思議な笑い声でさえ言葉にしようとする私の人間らしさも、喜びも悲しみも嫉妬も侮蔑も恐怖も憧れも何もかも全部引っ括めてこの違和感の集合体を無理矢理一つの言葉に押さえ込み、「水は可笑しいなあ」と言い多少爽快な気分になる。私はこうして幸せを零すのかもしれない。
 風や虫の声がぴたっと止まり宇宙がしんとして冷たくなる。水は無反応で表情を虫のように変えず、私の目の奥を見ている。やがて私が居心地の悪さから気を紛らわすようにお弁当に手を付けると、水が身を乗り出し片膝をついた姿勢で私のお弁箱を覗き込み「冴火は何でジャガイモをいつも最後に食べるの?」と私に尋ねる。
 私は何か仕返しされるのかもしれないと一瞬どきりとした後、水はそんな気など起こさないだろうと安全な場所から水を見つめ始める。水は最近やけに質問が多いなあ、と懐疑しながらも水のリズムに溶け込む感覚の心地良さに舞い上がり、私の今持っている情報を最適に練り上げて、期待に沿える返答が出来るようにと躍起になる。
「私は一番好きなものは一番最後に食べる主義なんだよ」
 主義という言葉を不意に使い、切なくなる。
「水は好きって感覚がわからないんだけど、一番好きなものなら最初に食べた方が良いでしょ? お腹一杯になったら食べられないし、食べ物はお腹空いてる時の方が美味しいんでしょ? 前に誰かが言ってました!」
 水がスキージャンプのように早口の後声を張り上げてそう言い、私は当惑する。水は普段長い文章を喋ることも声を張り上げることもなく、何時も何かに集中してのほほんとしているのだ。
「違うの。お弁当には物語があるの」
 動揺した私は、震えた声でよくわからないことを言い始めている。「見てて。このほうれん草は、まだ主人公が安住の地にいる時を表しているの。この箸が主人公ね」
 私は箸をほうれん草の群れに押し当てた後少し揺らしながら、水が真剣に私のお弁当箱を見つめている姿を確認し狼狽えながらも、墓穴を掘るように話し続けている。
「この卵焼きが主人公の転機よ。主人公が安定した生活を捨てて、新しい世界に飛び込むの。それから人参、プチトマト、ブロッコリーと順調に進んで行く。しかしここでひじきに差し掛かる!」
 箸は卵焼きでカーブし、人参、プチトマト、ブロッコリーを跳ねながら進み、ひじきにふさっと落ちる。
「ひじきは闇を表してるの。主人公がひじきに飲まれた時、そこに一筋の光のようにグリーンピースが顔を出す。ほうれん草の緑が伏線だったの」
 私はひじきを掻き分けて一粒のグリーンピースを見つけ出し箸で掴んで持ち上げ、口を大きく開け豪快にグリーンピースを食べる。私は一体何をしているのだろう。
「あとはこのグリーンピースの力を証明して、ジャガイモを食べるの」
 私は箸をお弁当の半分を占めるジャガイモの一欠片に突き刺し、箸を持ち上げてジャガイモを食べ、「どう? こう考えると私は辛い時も頑張れるし、お弁当は美味しくなるし一石二鳥なの。物語には乗り越えられる試練しか無い的なね!」とジャガイモを口一杯に頬張りながら楽しそうに言う。何が楽しいのだろう。
 また恐ろしい静寂が訪れ、水は何も言わず私の目の奥を見ている。まるで時間の経過が身体に纏わり付いていくように感じる。
 私の身体が何かを予見し「あ」と小さな叫び声を漏らした時、水が「どうって」と投げやりに言い後ろに倒れ、「難しいよおおおおおおおおおおおお!」と叫びながらころころと遠くへ転がって行く。私はその様を呆然と眺めながら自己満足に喋り散らしてしまったことを後悔し、持論を持ち出し純粋無垢な水を薄汚い私に染め上げようとした私を嫌悪し、自ら進んで雑念の渦に入る。どうして私は持論なんて持って、私の中にだけ収めて置けば良いものを他人に話すのだろう。
 水はまだ転がっている。身体が鉛のように重くなり、視界がストローの穴を覗いた時みたいに狭く薄暗くなって行くのを感じながら私は咄嗟に立ち上がる。膝に置いてあったお弁当は引っ繰り返るが、それを気にかける余裕も無いくらい一心不乱に、水の元へと歩いている。私の足取りが普段より随分遅いことに気が付いた時、水はぱたっと空を仰いだ状態で止まり、「ねえ何で空があるのかなあ。雲があるのかなあ。太陽があるのかなあ。風があるのかなあ」と淡々と何か実体のないものを殴るように宙に疑問を投げ掛ける。
 水の変貌した姿に自己嫌悪ばかりが募る。私は寝転んだ水を歪んだ視界で捉え、心の底から「私が嫌い」と念じながら一歩一歩水に向かって歩いているが、一向に辿り着かない。そして声、声なら今近づけると思い、水は私に質問をしている訳では無いとわかりながらも、「わからない」と擦れた声を出すと、水が「何でわからないの? 何故水はいるの?」と即座に透き通った声で畳み掛けてくる。
「お母さんが産んだからだよ」
「違う。最初のお母さんが何故いるのかを教えて」
「答えられない。わからない方が面白いでしょ?」
 水の期待に答えられない。私は存在の謎を面白いなんて感じたことなど無く、ただ闇雲に恐ろしいと感じているが、人間には生き易い解釈をすることしか残されていないから嘘をつく。
「わかってるんでしょ? 教えて」
 水は空を見たまま言う。寂しそうに聞こえるのは幻想だろう。
「わからないのは水だけじゃない。みんな何でここにいるのかわからないの。きっと人間の環世界ではわからないんだよ」
「環世界って何?」
「種特有の世界だよ。きっと種によって感じてる世界が違うの」
 口の感覚も思考をする意識も把握出来ないままに喋っている私がいる。陽射しを身体中に浴びて、汗をだらだらと流しながらふらふらと歩いている私がいる。私が存在を改めて確認していると、水がぐるんと首を捻り顔をこちらに向けて「じゃあ人間の水は何故か生まれてきて何故か死ぬんだね?」と嬉しさと悲しさを共存させたような狂気的な表情で言う。
 私は水の恐ろしい顔に怯え「そうだよ」と震えた声を出すと、水はまた空を見上げて、「あはははははははははははは!」と笑い始める。甲高く気色の悪い声が宇宙に響き渡る。水にはこの宇宙が窮屈なのかもしれない。水は膜を越えたいのかもしれない。水には思考なんてして欲しくない。考えなんて持って欲しくない。言葉なんて危険なもの触らせたくない。言葉で出来たこんな世界に来て欲しく無い。水はずっと水でいて欲しい。歩いている感覚ももう無くなっている。
「はははは! 冴火の言う通りだよ! わからない方が面白いよ!」
 私は水の元へやっと辿り着けそうな所で足を絡ませ、水とは逆方向に足を向けるようにして倒れてしまう。首を捻ると真横に水の綺麗な横顔が見える。この顔が言葉で汚れてしまうことを危惧する。
 水がこちらを向き満面の笑みを浮かべ、「私って可笑しいの?」と私に質問をする。
「私ぃ!」
 と私は思わず甲高い声を上げ、水の一人称が私に変わっている違和感に身体を痙攣させる。私が水を私に変えてしまったのかもしれない。全部私のせいかもしれない。私が嫌い。

 私は冴火の驚きぶりに思い当たりが無く、私の声が聞き取れなかったのかと思い、はっきりとした口調でもう一度、「私って可笑しいの?」と尋ねてみるが返事がない。冴火は恐らく熱中症なのだろう。人形のような力の無い倒れ方をして、今こうして顔を火照らせて涙ぐんでいるのだから、きっとそうだ。汗は凄まじい量で、耳の下あたりで切り揃えられた髪達は膨らみを無くし、額にこびり付いた粒々は日光を溜め込みきらきらと輝き、灰色のアスファルトに湖のような染みを作っている。まるで屋上から飛び降り地面に叩きつけられた人間の残骸のようだ。
 熱中症になったものは仕方がないので、私は好機だと考え冴火の顔をまじまじと見つめている。冴火は可愛いと評判だが、私は誰も同じ「人間」という種族にしか見えず、冴火にさえ可愛いという印象を持てたことが無い。冴火の顔を見るに、二重瞼の潤んだ大きなうっとりとした瞳、扇のようなまつ毛、筋の通った鼻、薄くぷるりとした唇、贅肉のない顔付き、小さな頭、艶のある髪、この辺りの部位の特徴やその均衡を見て冴火を可愛いと言っているのだろう。横たわった華奢な身体をじっくりと眺めてみても一体何処が冴火なのかわからないが、私は可笑しいからこの可愛いと評判の冴火の身体を記憶し寄せて行く必要があるだろう。意識で冴火の顔を直接見ると、鮮やかな色彩の奥に可愛いとは言い難い青黒い痣のような色のものが潜んでいるのがわかるが、あの色が私に出せるだろうか。
「何で水じゃなくて、私に、したの? 水のままで、いいよ」
 私が赤い絵の具をポケットから取り出しアスファルトの冴火の汗染みに垂らそうとしていた時、冴火が今にも死にそうなか細い声を汗を口に入れながら溺れたように出し、手を止める。冴火が死ぬのは生物のシステムとして本意ではないのか、私の身体は絵の具をポケットに収め、冴火をお姫様抱っこをして白璧の校舎の中へ戻り、階段を降りている。
「なん、で、水のま、まで、いい、よ」
 冴火は私の腕の中で、私の階段を降りる動きに合わせて上下に揺れながら、弱った姿で死にそうな声を出している。
「冴火だって冴火のこと私って呼ぶでしょ? 水も私って呼んでみるよ」
 私は端的に理由を述べ、加えて「それより私の何処か可笑しいのか教えてよ」と情報を搔き集めようとする。しかし冴火は鯉のように口をぱくぱくさせて涙ぐんだ目で黙っており、全く何を考えているのかわからない。
 私が二階につくと一匹の名前の知らない同学年の女に「冴火大丈夫?」と声を掛けられる。冴火はやはり人気があるのだ。この女は、私が倒れていたところで手を口元に持ってきて顔に皺を作り、心配そうな顔をしてはくれないだろう。私は先程冴火が言っていた「物語には乗り越えられる試練しか無い的なね!」を冴火の声を出来る限り真似て言い、唖然とした女の顔を不思議に思いそれを眺めながら階段を降りて行く。たんと軽やかな音を立てて一階に着くと前を向き、こっちかなあと、彷徨うように保健室へと歩いて行き、保健室の扉の前に立つ。扉を開けたいが、冴火の身体を持っているゆえに手が塞がっているから開けられないと、あたふたしている間に私の身体は私の頭をがしがしと扉に当てて、頭と首の力で開けようとしている。
「何! どうしたの!」
 一匹の白衣を着た女が慌てて扉を開けて不満そうな声を出した後、私の腕の中の残骸を見て驚く。「大変! 熱中症じゃない! 何でもっと早く連れて来ないの! ベッドの上に置いてくれる!」
 白衣を着た女性は途轍もなく焦っているようで、私はこの緊迫した空気を察し、「はい!」と野球部員の声を真似、集合をかけられた時みたいに小走りで動き、冴火をベッドの上に寝かす。
 冴火は横になると私の右手を両手で掴んで、「水。どうして」と言っているが、私は何がどうしてなのか全く見当がつかない。涙と汗でぐっしょり濡れた冴火の顔を見下ろしていると白衣を着た女が突然私を外に追いやり「入って来ちゃ駄目よ!」と言いカーテンを閉める。20秒程して私の身体はぴしゃっとカーテンを開ける。何故開けてはいけないか説明されていないからだろう。冴火がブラウスを脱がされている光景が目に入る。冴火の助けを求めているような眼差しに答えるべく、白衣を着た一匹の女と冴火の間に手を広げて割り込み、「何! どうしたの!」と白衣を着た女の台詞をそのまま言う。白衣を着た女が驚いて「何! どうしたの!」と叫び返す。絶妙な時間を置いて、ぷふふふふふふふふという冴火の笑い声が聞こえる。私は何が面白いのかわからないが、この笑いが起きるまでの時間は参考にしよう。
「ふざけないで! 氷のう当てるから服を脱がせてるの! 貴方がこの子の何か知らないけど裸は見ないから安心して! ほら早く出てって!」
 白衣を着た女は怒ったようにそう言うと、私の頬に氷のうを押し当てながら、またカーテンの外に私を追いやる。冷たさを感じても表情を変えることができない。私はカーテンがピンクであることに漸く気がつく。

 首の両脇、脇の下、太ももの付け根に氷のうを当てられ、時折水が興奮するかもしれないと思い、戯けて「ひゃ!」といやらしい声を上げてみたりしているが、私は水が性的なことに興味がないことを知っている。水はカーテンの向こうで真顔か、もう既に教室に戻っているかのどちらかだろう。真っ白な天井を眺めながら水の変貌ぶりを思い出し、身体の局所に響く冷たさに意識を向けて、深い溜息をつく。この熱中症は水を私に変えた戒めだろうか。水は水に戻ってくれるだろうか。
「水よ。口開けて」
 と保健室の先生に言われ、口を開けるとペットボトルで水をゆっくり流し込まれる。私は、水の勢いに追い越されないように必死に喉を開けては閉じを繰り返す。水と喉が擦れる音が身体の熱を放出させているように感じる。全身に安堵が広がりさっきまでの不安が妄想だったかのように感じる。
「それじゃあ私担任の先生に伝えとくから、何年何組なの?」
 私が全部飲み終わると、保健室の先生は空のペットボトルを持ってカーテンの側まで行き、私に尋ねる。
「二年一組です」
 私は二重顎にならないように気にして首を横に捻り、保健室の先生の顔を見て答える。
「あの男か女かわからない子も?」
「はい」
「おっけー」
「安静にしてるんだよ。すぐ戻ってくるからね」
 と保健室の先生は優しい声で言い、カーテンをぴしゃりと閉めて出て行く。
「心配なのはわかるけどまだ開けちゃ駄目だからね」
「はい!」
 水と保健室の先生の会話がカーテンの向こうから聞こえる。私は水がまだこのカーテンの向こうにいることを察して嬉しくなる。扉が開いて閉まる音がする。保健室の先生が出て行ったのだろう。
「冴火大丈夫?」
「大丈夫っ!」
 私はカーテン越しの水の声に感極まり、カーテンに見える水の身体の陰に向かって語尾を跳ね上げそう言う。
「良かった。でさ、私は何処が可笑しいのかな? まだ答え聞いてなかったから教えて欲しいんだけど」
 水は私の返答を聞くと即座に質問を被せて来る。水の私への心配の言葉は形式で、ただ聞きたいことを聞く流れを作る建設的なものだと理解し弄ばれたように思うが、今の水は浅はかな知識が混ざりかなり危険な生物に思えて心配の方が上回る。火は小さい内に消さないといけない。まして、この火は私が起こした火だ。カーテンの向こうの水の身体の影の中に小さな火の幻覚が見える。私は最適な返答をここでしなければならない。
「水は可笑しいけど、水は水のままでいいんだよ」
「そっか」
 水のあっけらかんとした声質から納得したのだと思い私は安心する。水の身体の影の中にある火が息絶えるように消える。
「冴火はどういう死に方がしたい?」
 質問の意図が私を殺そうとしている以外掴めず、「なんで?」と私は震えた声で聞き返す。
「冴火の言ってた物語の話だけど、人生を物語にしたらじゃがいもは死ぬことなんでしょ? 死ぬのが一番楽しみってことだよね? 理想の死に方くらいあるんでしょ?」
「ああなるほどねえ。私も持ってるよ。ずっと暖めてきた死に方」
 私は安心したのか狂ったのか、天井を見つめて他人のことを話す感覚で話している。
「教えて」
「ブラックホールに吸い込まれるの」
 私がそう言うと、宇宙がしんとしてまたあの圧迫感のある静寂が訪れる。
「あはははははははははははは!」
 数秒後、水が笑い始める。反骨心に満ち満ちた声が保健室に広がる。
 ベッドが揺れ軋む音がセックスをしている時の音みたいで耳障りで、脳に男性器を挿入されているような錯覚がして昔の記憶の気配を感じる。窓ガラスが割れる音がして破片がカーテンを貫いて飛んで来て私の顔の横に突き刺さると、私の身体は飛び起きて体育座りで小さくなる。小さくなっていると、隠れられているようで心地良い。水の胸の中の火がカーテンに燃え移りカーテンが落ちると、水が燃え盛る火の中膝立ちして空を仰いで笑っている姿が目に入る。私は意識的に耳を手で蓋して、ごおおおおという何かが蠢くような音を聞きながら、その光景を私の自己嫌悪の糧として入念に眺めている。

 煙草を咥えたスーツ姿の男が灯したライターの火を見て貴方が蠢いている。
 貴方の身体は、貴方の喜びを表現するために物語をイメージし始めたが、貴方を隠そうとしてきた意識の禍根や貴方を遮る欲望や鬱憤の記憶が炙り出て、貴方は悲惨なイメージに描かれている。物語の構想も主人公の成長も見えず、ただ暗闇に手を伸ばし見えない連関を手探りで繋げようとしている貴方の身体は未来を恐怖する。
 イメージに描かれた哀れな意識が世界の虚しさを探し始め、太陽が死んだように景色が薄暗く感じる。色も匂いも音も薄くなって行く。右の奥に見えるトンネルで髪も髭も自然のままに伸び切った浮浪者がダンボールの上で寝ている姿を笑い通る人間を見る。泣いている子供を大袈裟に叱っている親の奥に、スーパーの前で親に頭を撫でられている子供を見る。
 カフェの窓際の席でノートパソコンと向き合っている貴方の身体とよく似た女の瞳には貴方の身体は映っていない。貴方の身体は誰にも観測されていないが、身体はたしかに存在し刻一刻と渇きを増して行っている。

 六畳一間のアパートの一室で、母と二人で円形の食卓を囲んで床に座り夕食を摂っている私がいる。食卓には母が最寄りのスーパーで買って来た、唐揚げ、コロッケ、餃子がでかでかとしたプラスチックの容器に入れられたまま所狭しと並べられ、欠けた茶碗によそわれた白ご飯が湯気を立てて堂々と佇んでいる。以前まではこれらを無作為に一品ずつ完食していたのだが、冴火になるべく味の組み合わせや食べる順番を人間らしく拘り、ご飯とおかずの配分を考えて私なりに物語を描いてみている。人間の空間に似合わない涼しい夜の隙間風が鈴虫の声をこの部屋に運び、大きな窓から見える満月がこの部屋を覗き見ているように感じて生まれる妙な緊張感を掻き消している。
 私はコロッケを箸でつつきながら、母の顔を意識で見つめて観察している。数多の感情が単調な筋肉によって屈折して顔に刻み込まれ、その単調さを補うように肉の溝に色が差されて生まれる油絵のような母の顔は鮮やかで美しい。日々の色の移ろいから益々母の顔は美しくなり、その流れを傍観することで母の癖が見えてくるので飽きる事がない。母は冴火の顔の奥にある色に似た暗い青を挿すのが趣味らしく、多彩な色で覆われると即座に暗い青で被せて隠そうとする。冴火に惹かれているのは、この青に釣られ母と間違えているからかもしれない。
「水、お昼ちゃんと買って食べてる? お母さんお弁当作ってあげられる余裕が無いから気になるの」
 母は申し訳無さそうな顔をして言い、顔に暗い青色の線が入る。
「食べてるよ」
 私は母の顔に緑色を足せると思い、嘘をついてみる。
「良かった」
 母は安心したように笑顔を見せて黄色い線を入れ、鼻の下の青色と重なったところで微かに緑色が生まれる。人間は言葉を通して世界を見ている分、言葉でしか人間を見れなくなっているのかもしれない。青と黄色は何処か懐かしく、緑は最果てにあるように感じる。
 母が食べ終わると箸を置き手を合わせ「ご馳走様」と言うので、私も慌ててコロッケと残りのご飯を口に入れ咀嚼し飲み込み、同じように手を合わせ「ご馳走様」と言う。
 私が立ち上がり食器を片付けようとすると、「ねえ水、ごめんけどちょっと肩揉んでくれる?」と母が溜息混じりの声で言う。その姿を意識で見ると、青い色をした煙が母の口から立ち込めているのがわかる。
「おっけー」
 私は白衣の女の言い方でそう言い、母の後ろに回り母の背中をまじまじと見る。母の細く、弱々しく、世間の不幸を全部抱えているような、猫背なんて可愛らしい名前では表し切れない重たくどんよりとした背中は、人間の些細な知性が生み出した衣服などでは隠すことが出来ない。暫く意識が朧げになり、母の背中を見て無意識に考えていると、違和感が脳天を掠める。私はこの身体の中の子宮で栄養を貰って過ごし母が痛い思いをして産んだのだと、現実を虚構にして母の子宮の中で過ごした感覚を思い起こそうとしているのだ。母の子宮の中で過ごした濃厚な何億年を忘れてしまっている。私はこの儚さに何も感じることが出来ないが、人間らしく感情を昂らせ、腹癒せのように目先の仕事に焦点を当てて母の肩の筋肉に親指を立てる。全く指が入らない。一体何がそんなに詰まっているのだろう。肉体疲労だけではこうならないだろう。
「今日上司にお前の代わりなんていくらでもいるんだよって言われちゃったよ」
 やっと少し指が入り始めると母がまた同じ煙を出しながらそう言う。筋肉が綻べば、母が吐露する仕組みなのかもしれない。この肩には言葉が詰まっているのかもしれない。
「私のお母さんはお母さんだけだよ」
 と私が言う。
「もう模範解答みたいなこと言うのねー」
 と母は明るい声で言う。言葉から肩の筋肉が綻ぶのが手の感覚でわかる。人間は欲しい言葉を与えられることで、老廃物のような言葉を抜くことが出来るのかもしれない。
「水は産まれてきたとき泣かずに笑ってたのよ。助産師さんも私もお父さんも大爆笑だったわ」
 母がまた吐露する。私は母の肩に眠る言葉が生物のように意思を持ち、うずうずと外に出たがっているのを察してピアノを弾くように肩を揉む。母を喜ばせる言葉も選び抜き、母の吐露を加速させるように「私は生まれた時笑ってたんだ」とおうむ返しする。
「そう。水を初めて抱っこしたときは緊張したなあ。私は結局私のために水を産んで母になったからねえ。幸せにしてないとって使命感が芽生えてね。腕の中にいる水は暖かくてずっしり重くて涙が出たよ。水はそういえば見つめ合ってても遠くを見てたよ。あれが可笑しくてね。ほんと可愛かったのよ」
 母は川が氾濫したように次々と言葉を吐き出す。私はみるみると母の肩が柔らかくなっていくのを感じ、ここは言葉の洪水の流れを塞き止めないように相槌程度に抑えるべきだと思い「そうなんだねえ」と言う。
「そうなの、でも、私が離婚したせいで、水はお父さんとも会えなくなるし、貧乏だし、水には寂しい思いをさせていたよね。ほんとごめんねえ」
 母の肩が硬くなって行き、私は今日階段の前で驚き立ち竦んでいた同級生の女の顔で愕然としてみる。私はたしかに母の吐露を促し順調に老廃物を排出させていた筈なのに、どうして母は不必要に肩に溜め込む言葉を使うのだろう。これは、私の感情を汲み取り私の不快感を昇華させることを目的とした行動かもしれないが、私は寂しい思いというものが全くわからない。母は世間を気遣っているだけだ。または自分が産んだ子供に同情を誘うという一風変わった行動かもしれないが、これはきっと世間に助けを求めないと生きていけないことで生まれた惰性で、世間に媚びているだけだ。世間から自業自得だとか、可哀想だとかいう視線や発言に晒されて可笑しくなったのだろう。私は母の子供として、怒りを感じるべきだと思う。人間はこういう時怒るのだろう。
 母の肩が恐ろしい速度で硬く冷たくなり振り出しに戻って行くのを私は両手で感じながら、対処法がわからないと自らの無力を嘆くことしかできない。血迷ってみた果てに最後の抵抗として「あはははははははは!」と今日発見したあの笑い方で笑う。この状況を変えることが出来ないのなら、この状況を自らが選んだ面白いものだと思うしかないだろう。
「何その笑い声。水らしく無いわ」
 母はばっと振り返り私の肩を掴み、怪訝そうな顔でそう言う。
「水らしいってなんなのですか?」
 私は情報収集だ、と思い尋ねる。
「それは水が意識しなくても水から自然と滲み出ているものよ」
「私はそれがどうも可笑しいらしいのです」
「私ぃ!」
 母が甲高い声を上げる。私はさっきから私と使っていたが、母は母を慰めていて気付かなかったのだろう。何故こんなにも一人称を私に変えるだけで冴火も母も驚くのだろう。「どうして! なんで一人称が! 水が私に変わってるの!」
「私は私だから」
「意味わかんないよ!」
 母が声帯を裏返したような声で叫ぶ。
「それより私はやっぱり可笑しいのかな? 変わっていかなくてはいけない?」
 私は首を傾げる。
「それはあ」
 母は目に涙を貯め始め、声を切なそうなものに変える。「水は可笑しいけど、それでも母はそのままの水が好きなんだけど、水ももう高校二年生だから、もしかしたら少しだけ普通になれたら将来楽かもしれないね」
 生物のシステムとして母の苦しむ姿を見るのは本意では無いのか、私の身体は「おっけー」と言い無意識に母の頭を撫でるが、母は私の腕を掻き分けるように退けて私の身体に添わせると、「母はね。水に無理ばかりさせているかもしれないけど、水にもこの世界の美しさを感じて欲しかったから、産んだのよ。水という名前もね。意味なんて無いの。響きが良いから付けたのよ。母の言うことなんて無視して自由に生きたら良いの」と母という言葉を纏ったような強気な声でそう言う。
 母の顔が熱中症の冴火と殆ど同じものになっている。母の涙の正体が何なのか、泣いたことが無い私にはわからない。私は今、母を泣かせているようだし、頭を撫でることも母の自尊心を逆撫でするようだし、どうしたら良いのだろうか。母が言った自由という言葉が私を縛り付けるのを感じる。一体自由とは何なのだろう。
 母の涙が畳に一粒落ちるのを見て、私は改めて冴火になろうと決心する。皆のように人間らしく生きてみようと思う。特にそれ以上の指針がないのだ。
「ね! 今日は母が食器とか片付けとくから、先お風呂入って寝ていいよ」
 母がまだ涙が止まらないうちに、笑顔でそう言い私の頭を撫でながら鼻をすすり立ち上がる。母の肩は硬いままで、私はその硬さを思い知っただけで何も出来ず、子供という言葉を纏い、戯けたように大袈裟な首肯をして洗面所へと歩いている。

「冴火待ちなさい!」
 私が男と寝てお金を貰った後、古く寂れたアパートの一室に帰宅し、六畳の母の部屋を通り抜け三畳の私の部屋に行こうとした時、母の声に反応し私の身体が振り向くと、手を叩いたような音がして、左の頬の痛みが意識に昇ってきて、私の左手はそのひりひりする頰に添えられ、私は母に叩かれたのだとわかる。叩かれた勢いで捻れた首をそのままにして私はしばらく窓から満月を見ている。耳鳴りがして外の音は聞こえない。時間が止まっている錯覚がする。叩かれるのは久しぶりだったからか、懐かしさと妙な喜びを感じている。
 月を見ていると、私の視線が月に反射して全てを見ている気持ちになり、聡明な思考をすることができる。私は今、私に痛みを与えた対象として母に怒りや憎悪を持っているが、この痛みを母のせいにして何度も喧嘩をした上で均衡が生まれないことを考慮すると、早急に受け流しこの緊迫した状況を緩和することだけに集中することが合理的判断だろう。この痛みは母の数々の苦痛が形を変えて私に降りかかったもので、今誰かの過剰な欲求や愚痴や雑念によって生まれた苦悩が何処かで無慈悲に吐き出されドミノのように連鎖して私に伝わって来ているのだ。これは世間の吹き出物で母のせいではない。私はそう解釈し、私を納得させる。心の落ち着きを感じ、首を元の位置に戻す。母の怒りの形相が目に入り、また心が乱れる。見る度に記憶が印象を色濃くし、身体が益々母を拒否しているのがわかる。背中に汗が流れるのを感じ、身体が代謝を高め臨戦態勢に入り私を守ろうとしているのがわかる。身体が可愛らしく、秩序が愛おしくなるばかりだ。頭皮が痒くなり始めたのを察して、私は強い息を吐く。吐くことを意識した方が効率的に落ち着くのを知っているのだ。さてと、という軽やかな調子で、「どうしたの? 何があったの?」と首を傾げて娘らしく戯けて声を掛けようとすると、私は今の私の有様が妙に面白くなってしまい耐え切れず吹き出してしまう。私は一体どうしてこんなにも解釈が上手くなったのだろう。今日屋上で物語について熱弁していた時と同じように、意識が解離していくのを感じる。
「笑うな!」
 母が戸惑いを隠すように声を張り上げて言い、私はその姿とアルコールの匂いを感じて、また吹き出しそうになる。母は一体何をそんなに怒っているのだろうか。私が援助交際をしていることだろうか、それはない。母はこの家は貧乏過ぎるから援助交際をした方が良いと言っている。では、パソコンを買ったことだろうか。きっとパソコンを買ったことを怒っているのだ。
「ごめんごめん。今日ちょっと水が人間みたいに笑い始めて余裕無いのかもしれない。あのね、聞いて」
 私の声には抑えきれない鬱憤の影がある。
「冴火! パソコ! ンン!」
 何かを言おうとして私の声に遮られた母は、私に見せつけるための深い溜息をして、頭を振りながら母の部屋に殺風景に置いてあるパイプ椅子に座り、煙草を吸い始め、寂しそうな顔を奥に忍ばせて私を睨みつけている。私は解離した意識で私の口が無意識に喋り続けているのを、俯瞰している。私は一体なぜ話しているのだろう。耳鳴りが消えていく。
「水には人間なんて狭くてさ、水が人間の笑い方に寄せたりでもしたら、吐き出せなかった感情が溜まって世界を壊してしまいそうな感じなんだよ。それに水の身体は優しくてさ、こんな風に人を殴ったりしないんだ。あのね、私は漸く分かったの。元々一つで調和の取れていた自然に、線を引いて良い悪いって勝手に苦しんでいるのが人間。自然を軽蔑しながら従って、偶に自然を美しいだなんて掌返して言う矛盾だらけなのが人間。いつも凄いのは世界だけなのに何か発見して創造した気になっているのが人間。お母さんが私を創造した訳じゃないんだよ。私は世界に元々存在していて、それをお母さんが発見しただけだ。私たち人間は死ぬまで言葉で出来た傷を言葉で舐め合うんだよ。自然に帰れるときは死ぬときだ。どうせ生まれて死ぬだけなんだから生きている間はみんなが幸せな世界を築けば良いだけなのにどうして出来ないんだろうね! 水をさ、こんな所に来させたく無かったよ。水がこちら側に来たのは私のせいなの? 違うよね。私たちのせいでしょ? 世界にこんな営みがあるからでしょ? 私たちの生きる世界がこんなにも汚いからでしょ? 私はどうすれば良かったの? お母さん。教えてよ」
 私はいつからか涙を流しているが、これは悲哀では無く、弱さを誇示するかつての癖が余韻のように立ち現われているだけだ。頭に血が昇り胸の奥が煮えるような怒りの感覚は無く、鈴虫の音が聴こえるくらいには冷静だ。思った通りに身体がまだ動いてくれないようだ。言葉が心の奥にまで浸透するには時間がかかるらしい。
 母がおもむろに立ち上がり、「水って誰だひょぉう!」とヒステリックな叫び声をあげて私が握り締めているスクールバッグを獣のように奪い取る。母はスクールバッグを床に置き、身を屈めてチャックを開け財布を取り出し、一万円を抜き取りポケットに入れ、財布をぽとっとスクールバッグの上に落とすと「あんたなんか産まなきゃ良かったわ」と背中で捨て台詞を吐いて玄関へと歩いて行く。私はこの光景を他人の悲劇として眺めながらも、何度も聞いてきたこの受け売りのような台詞にわざわざ傷付いている。母の背中の重さがまるで私を責めたてているようで見ていると胸を締め付けられる。私は母が身勝手に産んだ命で、こうして選択の余地もないまま世間に痛めつけられているが、私は紛れもなく母のお腹の中にいてかつて母を愛していたのだ。妙に爽快になった後気持ち悪くなる。きっとこうして自然を放棄して人間は汚れて行くのだ。鉄製のドアの閉まる音が気が狂いそうなほど煩く聞こえる。
 私は敷きっぱなしにした布団と椅子があるだけの異質な母の部屋で煙草の匂いを纏って立ち竦み、戯けた風にきょろきょろと辺りを見渡しながら、身体の震えが収まっていくのを意識して、この胸の淀んだような感覚を掻き出すことに集中する。壁の至る所に開いているいつかの暴力の弾みで生まれた穴は、私の無数の諦めが形になっているようで、私を慰めているように見える。
 5分ほど棒立ちした私の身体は不意に「わああああああああ」と奇声を上げながら素早く襖を開け閉めして三畳の私の部屋に入り、押入れから布団を出して大袈裟に音を立てて引き、小児のように楽しそうに布団に飛び込んで手足を伸ばして仰向けになる。
 腐りかけの畳と柱、落ちかけて色が疎らな壁、中の骨が露出している襖、寂しそうな真っ赤なランドセル、片隅に机と私が援助交際で稼いだ金で買ったノートパソコン、絡まった電気ケーブルと引き裂かれたイヤホン、カーテンのかかってない大きな窓の側には小さな鏡と化粧道具や文房具を入れたポーチの入った段ボール、この部屋は何処を取っても愛おしい。無機質な空間だが、花を一本挿す隙間さえ無い程完成されたサナトリウムだ。この空間だけは、可愛い私が吐いた可愛い息を可愛い私が吸い込み私の可愛い空気だけを充満させて思い思いの一人暮らしをして行きたい。私は天井にある紐が垂れ下がった電灯を眺めながら、胸とお腹が痛く、焦点が定まらなくなるほど息を吸う。そして息を吐き切った時、身体が地面に吸い取られ上から膜をかけられたような寂しい気持ちになる。涙が重力のままにこめかみを通り耳に入り、こぽぽと身体が腐敗する音がする。隔たりが欲しいのか、隔たりが欲しくないのか、わからない。
「この身体もいつか消えちゃうんだもんな」
 私が届く筈のない紐に手を伸ばして、貧弱な腕を見ながら気取った独り言を言うと、私がくすくす笑い始める。解離した意識が私の人生を覗いていて、私はその解離した意識を楽しませるために台本を読んで演技しているように感じる。何かに描かれているのかもしれないと思うと、訳も分からず声をあげて泣き出してしまい、意識は益々解離して行く。目が足りないくらい涙が溢れ出て、視界は水中にいるように朧げになり、微かに見える天井の波紋のような木目が、私の今の身体を表しているように見える。溺れたような私の泣き声を聞きながら、私はつまらないと思う。描かれた物語が酷く退屈だと思う。こんな物語を描くなんて才能がないと思う。すると無性に何かを漠然と描きたくなり、私の身体は素早く起き上がり、机に向き合いノートパソコンを開き、涙をぽろぽろ落とし鼻水をだらだらと垂らしながら、鋭い眼光で液晶を穴が開きそうなほど見つめ、病的に「水」という小説を書き綴り始める。
 私は今更愚痴を言える程鈍感でもない。他人と比べた所でありのままを受け入れる軽やかさを私は持っている。明らかに何か精神に不健康なものが生まれているが、これから治癒していくだけだ。何度も自殺しようとした挙句出来なかった私は、人間よりも生物であるという聡明な自覚を持っているので、個性や凡ゆる格差を有耶無耶にされて世間に同じ基準で比べられた所で、愚痴などせず、生活を良くすることに焦点を当てて生物に素直に生きるだけだ。
 私は理解している。理解しているから幸せになる筈なのに、私の胸の内には重いものが蠢いていて苦しく、涙はずっと止まらない。きっと世間が可笑しい筈なのに、過去の私の思考や行動が可笑しいという結論に納得することができないのだ。幼い私は環境に適応するだけで、その果てに私を痛めつける思考や行動をしてきただけで、基準を持たずに素直に生きただけなのだ。絶対に誰にも揶揄なんて出来ない。皆に慰められるべき生命体だ。なのに、自らを生物と自覚し、自己の保存と複製という目的に沿って生き易い思考と行動をすることを素直だと定め、恐怖や嫉妬や後悔や同情などの素直を遮る全てを愚痴と定めた時、過去の私が今の私にとって敵に見えてしまう。私はこの不如意を押し殺せない。過去の私が今の私を形作るまでの感情や感覚や想いの過程は私しかわかってあげられないのに、私は過去の私を蓋して、私だけ幸せになって良いのだろうか。今流れている涙は惰性ではなく、過去の私の寂寥だ。
 私が描かれているものではなく私が描いているものなら、この人生が物語で私が主人公なら、今までの苦悩が無闇に不利益なものではなくなり、過去の私を救えるような瞬間が訪れる気がする。全てがこの瞬間のためにあったと実感し、水のように美しくなれる光明を手に入れることが出来る気がする。何故物語の主人公は困難に直面し苦しまないといけないのか、わかる日が来る気がする。私はこの胸の内で蠢いているものを鎮めるために、死ぬ気で「水」を探すしかないのだ。
 パソコンの充電が切れたのか、画面が突然暗くなり、ぐっしょりと形容したくなるような私の顔が映る。私は液晶に映る私と無意識に会話し始める。その会話はなぜか耳には届かない。
 私は流した涙の分だけ喉が渇いているのを感じ、慌てて充電器をパソコンに繋げると、電源ボタンを気が狂ったみたいに連打してパソコンを立ち上げ、また書き始める。酷く疲れて眠たいのにどう足掻いても寝られない心持ちだから、書くしかないのだ。
 水は今頃どうしているのだろう。

 お風呂に入ろうと衣服を脱ぎながら洗面所を通りがかる時、誰かが上裸で私の隣を歩いているのを横目に捉える。私は驚き反射的にそちらを見ると相手もこちらを見て驚いた顔をしている。私が下半身を覆う衣服も脱ぎ全裸になると、相手も同じように全裸になっている。
「私」
 と私の身体が口走り、声の波紋が誰かに当たり反射して私の身体に当たった時、この身体が私なのだとわかる。この景色から浮き出たように見える歪な肉塊は、全裸だと露骨に動物に見え、仁王立ちや毛の少なさが他の動物と比べて異質だ。そして私の身体は冴火の身体と不思議と全然違う。一重瞼の切れ長の目、冴火より高い鼻、冴火より薄い唇、冴火より長い髪、冴火より太い首、冴火ほど華奢で無い身体、冴火ほど膨らみが無い胸、冴火よりかなり高い身長、冴火はどんな努力をしてあの可愛いと評判の身体になったのだろう。意識で見てみても顔に微塵も色がついていないし、この薄身に内臓が敷き詰められているとも思え無い。皆が私を可笑しいと言うのも納得だ。
「よく出来てるなあ」
 と感心しながら鏡を見ながら丁寧に身体中を触っていると、動いている腕のことを私は不思議に思う。念じても動かず、念じなくとも動かせる。言葉は関与していないのだろうか。意識的に動かしている筈だが、動くと無意識に動いているような感じがする。私の行動は私が決定している訳ではないのだろうか。何か思考している筈の鏡の中の私は不思議なままで何を考えているのか分からない。鏡の中の私は他人みたいだ。私とは何なのだろう。一体なぜ存在しているんだろう。
 私はこの身体を冴火に変える上で、意識がどこまで身体を制御出来るのかを知る必要がある。まずは最も難しそうな心臓の停止を試みようと考える。心臓は血液を循環させるポンプの役割を果たす器官らしく、止まると呼吸と代謝が出来ず死んでしまうらしいので、これが果たせれば殆どのことが可能だろう。
 私は集中させた意識を胸の表面から体内に浸透させ、肋骨と肺を掻き分け中心辺りにある一際大きな音を立てている器官を手のように丁寧に包み込み、ぎゅっと握る。
 五感が一瞬で閉じる。万物が共鳴しているような感覚を感じる。閉じられた五感の余韻として既視感、既臭感、既食感、既聴感が一斉に襲ってくる。私は大量の懐かしさに包まれながら、海に沈んでいるような錯覚に陥る。形を作る全身の感覚の余韻が風が吹くように消えて行っている。
 死。肉体の感覚器官が無い世界。死の世界を何かの感覚器官でわかる。光の覆われた空間に青黒い私の身体が見える。その視覚は多角的で、目が二つの視覚では無く、凡ゆる視点から次元の制限無く混沌としたまま自由に私の身体を見渡せる。見ているうちに、じわじわと潮が満ちていくように、私の身体を見ている光こそが真の私だと疑いようの無い事実として突きつけられていく。
「違う!」
 と私はその真の私を拒絶する。吸い込まれているのか、吸い込んでいるのかわからない感覚のまま青黒い私の身体に入る。じわじわと身体の感覚が戻り始める。
 はあはあと呼吸を荒らげ、胸を抑え、水を総身に浴びたような汗をかき、全裸のまま座り込んでいるのが感覚でわかる。呼吸の音と心臓が遅れを取り戻すかのように忙しく鳴る音に混じり、微かに「水」と声がする。私の目はまだ閉じられ、暗闇の中私から感染するように何かが広がるのを感じる。細胞の一つ一つが、素粒子の一つ一つが、「水」と言っている。その大合唱に耐えきれず私は耳を塞ぐが、聴覚では無い感覚器官で聞いているらしく、「水」は鳴り止まない。
 私はやっとの思いで重い瞼を持ち上げる。私の身体は感覚からイメージしていたものよりかなり小さい。洗濯機の角の一点を見つめながら、宇宙にぽつりと取り残されているような心地になり、初めて僅かに寂しいと感じる。状況を汲取れぬまま「何なんだあ」と言い、全裸で仰向けになる。まだ「水」という声が頭の中で鳴り続けている。私を何かが呼んでいるのだろうか。

 貴方と見つめ合っている誰かの身体は貴方の身体の粗雑なイメージのせいで雑踏に飲まれ溺れている。貴方の喜びを描こうとした物語のイメージは、引き続き忌々しい記憶の断片が滲み出るように想起されたものとなり、夢のように無秩序な世界に貴方を迷い込ませ、かえって貴方を脅かしている。
 描かれた意識は美しい自然の景観や人々の優しい所作を見落とし、貴方を忘れさせる材料を追うことに集中している。
 犬を叱って叩いている年配の女性の後ろで、赤いランドセルを背負った少女が指を咥えてピザ屋を泣きながら見ている。小学生の男子が「大人が嘘つくわけないじゃん!」と言い走り去り、その後ろで泣きながらランドセルを五個持ち歩いているキリンが描かれたシャツを着た小学生の男子がいる。駅の壁に貼られた映画のポスターの前を白杖を持ったお爺さんが黄色いブロックの上を歩き通り過ぎようとしている。目が見えない世界はどんなだろう。障がいを持っているだろう男の子の手を引く母親の疲れ切った表情がある。彼はどんな世界に生きているのだろう。ロータリーにある屋根の下のベンチで座ってバスを待っている大勢の老人を見る。病院では今も、自然に逆らい生かせられた寝たきりの患者が、本人も辛く周りも金と労力を大量にかけなくてはならないという最悪な死に方を行なっているだろう。喪服を着た男性の寂しそうな背中を見て、共感ができない。様々な服で自らの役割や自らが何者かを魅せようと躍起になっている大勢の人間が巨大な毛虫の蠕動運動に見えて気持ちが悪い。建ち並ぶビルも電柱も地面に敷き詰められたコンクリートも人工的なものの全てが、自然を虐げた人間の薄汚い欲望の具象に見える。この名前のある街の上には地球をすっぽり覆う空がある。見えていないだけで今も苦しんでいる人がいるだろうと、貴方の身体は貴方の身体の中にある苦痛の情報を引き出し想像する。何故今も貴方の身体と同じ種が死んだり生まれたりしているのだろう。何故こんな暗い世界で人類が繁栄するのだろう。皆が狂気的に見える。
 貴方の身体はふと意識を奪い取られる。「かなえ。今日は夜何が食べたい?」「結衣が作ったものなら何でもいいよ」と名前で呼び合う親子の会話の音の痕跡を拾い、その親子の微笑ましい背中を見て微かに貴方は綻ぶ。子供の親と繋いでいない方の手にはいちごミルクの紙パックがある。
 貴方の身体が微かに冷え、汗がこめかみを伝う感覚が鮮明に蘇る。細く鋭い日差しが貴方と見つめ合っている誰かの身体に射し込んでいる。光の粒子が辺りを飛び交っている。

 昨日心臓を止めようとしてから「水」が鳴り止まない。普段通りぐっすりと寝れたが、寝ている時も「水」という声が聞こえていた。私は真の私だった時の感覚の懐かしさに耽り、今の私を肉体の制限に囚われている存在のように思いながら、登校している。陽射しの匂いは薄くなり、埃のような匂いを鼻が拾い始め、街路樹や空に目が行かない。大通りに出ると、一瞬で車や人々の声の喧騒が昨日より煩い。人々の声が音では無く言葉として聞こえ、意味を追っている耳がある。全身の感覚は雲がかったように朧げになり、凡ゆるものから向けられている視線だけを鮮明に感じ取る。
 馴染みのスーパーを通り過ぎようとしていると、「水!」と一際大きな声が聞こえ振り向くと、黒い電灯に首輪を繋がれた一匹の犬を見つける。その犬が何処か私の今の有様に似通っていると思い見つめながら足を進めていると、解いて欲しいという意思を私は私の知らない感覚器官で鮮明に感じる。私の身体は慌てて駆け寄り、電灯に固く結ばれた紐を懸命に解き始める。犬は犬の表情筋では出せないような笑顔を見せて、水水と呼吸をし、尻尾を千切れそうなほど振って興奮している。
「ほら解けたよ。世界の果てまでお行きなさい」
 と私は言い、紐を束ね地面に置き後退りする。犬は颯爽と私が元来た道を走って行き、犬のお尻はみるみる小さくなりやがて見えなくなる。私もあんな風になりたいと思ってみるが、欲望と呼べるような身体の反応は立ち現れない。「普通になれたら将来楽かもしれないね」という母の言葉が頭に過ぎる。私は皆のように欲望を持つことができるだろうか。
 ペパロニを見送り、進むべき道を少し歩いた辺りで背後から「ペパロニ! 誰かペパロニを知りませんか!」と中年男性の声がする。私は振り返り、おじさんが紐を握り締めて必死に周囲をきょろきょろと確認している光景を見て、あの犬が飼い犬だったのだと理解するが、驚くことも罪悪感を湧かせることも出来ない。未来など知らない筈なのに、何か起きた後は全部知っていたような感覚になるこれは何なのだろう。どこかあの真の私であった時の懐かしい感覚と似ている。「ペパロニ、可愛い名前」と呟いてみて、振り返り「普通になれたら」と念じながら学校へと歩き続ける。
 教室に入ると、人間の奇妙な鳴き声に鼓膜が覆われ、咲き乱れる求愛のフェロモンと陰湿な生殖競争などの生物のシステムと不可逆的な意思による腐敗臭に鼻腔が疼く。言葉を拾う分教室は煩く感じるが、音に篭った色と波を眺めることで意味は次第に薄くなって行く。すると一際煌めく色と波を立てる会話に気づき、目の前の窓際の教室の後ろで、冴火が冴火の友達二人と、私と話している時よりも楽しそうに話しているのが目に入る。冴火が私に気づくと手を振ってくれるので私も手を振り返す。初めて誰かと見つめ合った気がする。
 私は冴火以外に学校で話す人が居ないし、冴火も休憩時間は何故か話しかけてくれないので、いつも通り絵を描こうと思い、後ろの廊下側の指定された席に座ると、冴火の集団から一際明るい笑い声がする。そのしゃぼん玉のような笑い声は言葉と言葉の間を縫うように広がり、それぞれの会話の内容を明るくさせる。教室にいる人間達の意識の動きで冴火が笑わせているのだとわかり、冴火の人気を痛感し冴火を普通のモデルに選んだことを得意になる。そして冴火が私と仲良くしてくれていることを変に思う。私が冴火に対して無関心だったからだろうか。
「死は憂いだよねえ」
 と冴火が冗談ぽく何かの会話の流れからそう言うのが聞こえ、冴火の友達二人が笑う。死は憂いだよねえで笑わせる会話はどんなものなのだろう。冴火になるには途方も無い歳月がかかるかのように思われる。
 私は無駄なことは気に掛けず絵を描こうと思い、机一杯に画用紙を広げ、クレヨンを画用紙につけるとすぐに違和感に気づいてしまう。一瞬にうちに、何を描こうかと考え、描く理由や描く対象物や表現方法を探し、誰かに見せた時の反応や描いている私を想像してしまっているのだ。凡ゆる思考を錯乱させながらそれを押し殺そうと骨を折り、震えた手でクレヨンを握りしめ、絵を描き始める。

 朝の元気な太陽がこの病弱な私の身体を照らし、教室の白いタイルに光の線を描いている。私は水の崇高なお絵描きを邪魔しないように、水と話したい物々しい欲望を感じながらもそれを諦観し、騒々しい人間達の迷子と排除の奇声を意識しないように結衣とかなえという二人の女子と掃除道具を入れたロッカーの前で談笑を意識している。結衣は艶のある長い黒髪を開けられた窓から吹く風に靡かせながら細長い身体をロッカーに凭れさせ端整な顔で話している。かなえはふわふわと小さい身体と茶のボブヘアを揺らしながら机に腰掛け、目が線になるような朗らかな笑顔を浮かべ、口を動かしている。自然と意識しないままに私には勿体無いくらい可愛い二人と仲良くなることができ、今では結衣を母や姉に仕立てて甘え、かなえを妹に仕立てて可愛がり、虚構の家族に浸ってうっとりしたりしている。
「動物が喋る動画見た?」
 と結衣が気の強く優しい理想的な母や姉のような声で言う。
「見てなあい」
 とかなえが理想的な妹の猫撫で声で目を擦り欠伸をしながら言う。
 結衣がこれこれー、と携帯の液晶を差し出し、かなえが身を乗り出し覗き込むので私もそうして一緒に見る。ハシビロコウが仁王立ちで「水水」とリズミカルに鳴いている映像が映っている。私は何だかひょうきんな友達という感じのそれを見ていると、笑うというより健やかな笑みが溢れる。
「えへへハシビロコウむっちゃ喋るね」
 とかなえが笑いながら言う。
「なんか他の動物もみんな『水水』って鳴くらしいよ」
「全く世界は謎だね」
「なんかこのクラスにも水って男子いたよね。ずっと可笑しな絵ばっか描いてる子」
「あそこにいる。可愛い。水は冴火としか話さないよね」
 とかなえが水の机を見て言う。私は何度も水を自らの世界の中にいるものとして露骨に見て揶揄する自我の態度を目の当たりにして、他人が語る水のことには神経質になっていたのだが、彼女達の発言には何も感じない。
「ねえ冴火水と付き合ってんじゃないの?」
 結衣が興味津々な目で、楽しそうに私の秘密を暴こうとしている。私はその私の秘密に踏み入る行為に緊張し、嫌悪と喜びを混ぜたような感情になる。
「冴火は水といつも一緒に屋上でお昼を食べていました。外は馬鹿みたいに暑いのに。わざと人目を避けてそうしていました」
 とかなえが下を向いて背中を丸め、両手を太腿に挟み、ぼそぼそと被害者のような声質で言う。
 結衣がかなえの姿を見ると突然表情を残念そうなものに変え、私の左肩を何かを惜しむように強い力で握ると、項垂れて深刻そうな声で「冴火。白状しなさい」と言う。私は私から二人を見ていたのだと見方を改める。二人も私を見ていて、その中でこの愛おしい空間を共有しているのだ。存在を認められているような感覚とどんよりとしていながら明るい妙な空気感を感じて、私は吹き出して身体を二つに折るように俯向くと、笑いながら少し泣いてしまう。「冴火どうしたの!」「冴火いかれちゃったの?」という二人の心配の声がまるで脇を擽られているような感覚で意識に昇ってきてさらに笑ってしまう。一頻り笑い終えると目尻を人差し指でなぞりながら、はあーと言って顔を上げ、「私の片思いだよ」と呟く。私は私の声を聞き、こんなに明るい声を出せるのかと思い驚く。
「ほええええええええええええええええ」
 とかなえが阿呆みたいな声で驚く。
「冴火も物好きだねえ」
 と結衣が遠い目をして水を見ながら言う。
「水、幼少期どんなだったんだろうね」
 かなえが結衣の隣に移動しながら言う。
「今も幼児みたいなのに、そのまま高二まで来たんだから奇跡だね」
「結衣も昔は可愛かったのにね」
「今も可愛いでしょ。好きな人には一緒に死んで欲しいって思ってるし」
「かなえは小さい頃どうだった?」
「かなえはずっと可愛いよ。毎秒可愛くなってってるから死ぬときは多分人間じゃないね。かなえには人間の可愛さの限界を超えて貰わないといけない」
「大義ですね。頗る可愛くなります」
 二人が水を見つめながら声の調子を一切変えず、淡々と会話している。二人は幼馴染でいつも仲が良い。いつも私の想像を超えた表現しようのない明るい力がここに存在している。私は恐怖のあまり何度も二人の輝かしい家庭環境や人生を想像し嫌いになろうとしてきたが、どうしても良かったという思いや安堵しか生まれない。むしろ、二人なら私と同じ家庭環境を味わい、私と同じ人生を歩んだとしてもずっと明るく過ごせたのではないかと思い、少し疎外感を感じる。不幸は客観的なものではなく主観的なものなのだと思い知らされているようで、また生物に素直でなかった過去の私を嫌悪してしまう。
「冴火はどんなだったの? 幼少期とか小学校とか中学校とか」
 恍惚な私は、突然結衣に質問を振られどきりとする。そして案の定私が最も苦手な質問だとわかり嫌な汗をかく。私は水と出会う前の記憶が情景の無い感情の起伏と文字として覚えている悲惨な出来事くらいしか無いから答えることができないのだ。無意識が私の身体を守るために嫌な記憶を思い出させないようにして忘れさせようとしているのかもしれない。過去の私を嫌悪しながら、過去の私がどんなだったのか殆ど覚えていない私は一体何を引き摺っているのだろうか。頭は真っ白だが、私を表す悲惨な出来事を話し場を白けさせることが最も間違いだということは明白にわかる。困ったら笑わせておけば良いと、咄嗟に思いついた言葉で悲惨な出来事を極限まで濁し、「普通だよ。蟹とボクシングしてただけだから」と言う。
 私は永遠と思えるほど長い時間をかけて、途轍もないほどの感情や感覚の荒波を超えて今ここにいるように感じるが、言葉にしてみると「蟹とボクシングしてただけ」であり、酷く虚しくなる。こうして私の不幸はただの過程となり、意味などなく、ただ闇雲に苦しいものになる。
「そっかあ蟹とボクシングしてただけかあ」
 結衣の気の無い声に私は滑ったのだとわかり、私は愕然とする。「冴火。かなえのつまんないことをテンポ良く言う癖感染ってない? かなえお手本見せてあげて」
 結衣が私の目を見つめた後、首を捻ってかなえに合図を出す。かなえはゆっくりと歩き出し、机に腰掛けると窓から街並みと空の境を見ながら、「ヒトは小さいクジラ。セミは友達。階段の昇り降り」と物憂げに淡々と言葉を吐いている。私はその絶妙な面白さに感服し、にやけてしまう。
「ね? 冴火はもっと知的なユーモアをして行くべきだよ」
 結衣が私の両肩を持ち、何か私に壮大なことを託すかのような真剣な眼差しで見つめてくる。私は「うん!」と小児の娘のような声を出し大袈裟に首肯する。私たちは調子に乗っているのだ。外からこの光景を見た無関係な人間の心は冷めるかもしれないが、私たちは楽しんでいる。
「よしよし偉いね頑張ったねえ」
 私は目を瞑り結衣に頭を撫でられながら頭皮に意識を集中させ、結衣の手の温もりを血液が脈打つ微細な動きまで感じ取る。この手は私の奥深くにある闇には届かないが、滑ってしまったという恥じらいを昇華し、二人を手慣らすことが出来ないと実感するには充分だ。私は保守的に笑わせようとした時滑ってしまうのだ。水といる時と似たような感覚がする。思い通りになると面白くないのかもしれない。
「もう恋してみたいー」
 私が夢中で撫でられていると、突然かなえが阿保みたいなことを言い私はさっと目を開ける。かなえが身を乗り出し、結衣の私を撫でている手を掴んで強引に掃除道具を入れたロッカーに一緒に入り込み蓋をする。「結衣は好きな人とかいないのー?」というかなえの篭った声がロッカーから聞こえる。「冴火開けて!」と結衣の叫び声が篭って聞こえる。「早く答えてー」とかなえが連呼し、ロッカーが微かに開いて閉じてを繰り返している。結衣が開けようとし、かなえがそれを阻んでいるのだろう。私は近づき、瞬くように見えるロッカーの中身を覗く。蓋をされた二人は暗闇でどこか外に出たそうにしながらも楽しく笑っている。徐々に息の根を止められるように蓋が開かなくなっていき、やがて開かなくなり数秒すると結衣が諦めたような声で「山田くん」と答える。「へぇえええ! 結衣は山田くんが好きなんだぁあああ!」とかなえが声を上げながらロッカーをがんがん叩き始め、「うるさいいいい!」と結衣が喚き始める。私はロッカーの中の二人に思いを馳せながら、繰り返されるロッカーが叩かれる音と結衣の悲鳴を聞き、性欲が湧き出てくるのを感じる。あそこが濡れているのがわかる。私は我慢しようのない何かの衝動に駆られ、蓋を少し開けると隙間からロッカーの中に尖らせた口を入れ、「あのね、聞いて」と言う。二人の動きが止まり、教室にいる生徒の話声と何かが脈打つ音が鼓膜を覆う。「山田くんサッカーしてる時お花踏んでたからやめた方が良いよ」
 二人の笑い声が篭って聞こえる。「もーそれくらい良いよー」と結衣が笑い、「サッカーコートにお花咲いてる方がダメだもん」とかなえが笑う。私は僅かに泣いている。恐怖の対象の排除や自己保身という目的以外に、奉仕的に笑わせたいという感情が残っていることに喜びを感じる。これはきっと家庭で植えつけられた緊迫した空気を解きたいという欲望がたち現れたのではない。面白いとつまらないという基準で世界を見れなくなった時死んでしまいそうな気がしている私のための行動だ。
 予鈴が鳴り、私は何も言わず振り返り、私の席へと歩き始める。二人はまだロッカーから出ることなく笑っている。山田くんと目が合い、目線を下へ逸らす。男子と目を合わせると、すぐに告白をされ、水といる時間が減ってしまうかもしれないからだ。私が可愛いせいか、結衣と冴火以外の女子とは親しくしていないせいか、女子は私に嫉妬や嫌悪や憧れを混ぜた視線を向けている。皆は私が昨日泣いたことも、私の家庭が無茶苦茶なことも何も知らないのだろう。表面で世界は動き、その表面の住人は阿保で滑稽に見える。私は彼らを見下すために秘密を持っているのか、純粋に彼らの世界を傷つけたくないために秘密を持っているのか、わからなくて下腹が僅かに痛くなる。私がわからないを恐れて他人をわかる所に納めて感じる時、私の考えや感覚にしか興味がなくなり、些細なわからないに敏感に反応して過剰に恐怖してしまう。
 水は姿勢良く椅子に座り髪を耳にかけ、拳を作るようにして黄色いクレヨンを握り締め何かを描いている。私の席は幸運にも水の席の隣だから、私はいつも通り座る前に水の腕と頭の隙間から絵を覗いてみる。大きなキリンが水を飲んでいる姿を印象派のような感じで描かれている。私はその絵を見た途端、私の無意識下で行われた数多の予想は凌駕され、私の稚拙な感性を恥じる。感嘆の溜息を漏らした後少しにやけて、目を瞑り頭を垂れ眉間を摘み、頭を左右にゆっくりと振り服従を表す。いつもは形のない抽象的な絵ばかり描いているのだが、今回は唐突にキリンだ。笑わずにはいられない。水は自然体で面白い上にその自覚がないので敵わない。何かと拘りを持ち不自然な私とは大違いだ。私も水みたいになりたいと思わされてしまい、蓋をしていた執着が溢れ出てしまう。
 私が水に耽っていると、水が爬虫類のような首の振り方で、愛らしい顔をこちらに向ける。私の身体は覗き見していたので何か咎められているような気がして、不意に「なんでキリンなの?」と質問を投げかけている。
 水の絵に理由は無く、水の内部の情報が不思議な形で私が感じられる所に出てきたものだ。私はそうわかっていながら、わかりやすい形に収めようとするまた人間らしい態度を披露してしまった。私を後悔が侵食していくのを感じる。水が口を開き、何か流暢に話始め、私は息が出来なくなる。
「きっと人間も他の生物達も何故存在しているのかわからないけど、きっと世界で一番キリンがわかってないと思うんだよね。だってあんなに身体は大きくて首が長いんだよ? 可笑し過ぎない? キリンは存在の謎の象徴だよ。私もしキリンになれたら毎秒自分の身体見て何これって思えちゃうと思うんだよね。そんな思いをこの絵に込めましたっ!」
「やめてええええええええええええええええ!」
 私の身体は耳を抑えながら教室に響き渡る程大きな甲高い声で叫んでいる。母のヒステリーを起こした時の声に似ている。全身が麻痺し、身体が浮き上がるように意識が解離するのを感じる。教室中の視線が一斉に私に集まるのを感じ背中に痛みを感じると、膝から崩れ落ち水の絵に左耳をつけた姿勢に倒れる。私はこんな状況でも、水の絵を私の頬で汚してしまい兼ねないと思っていると、私の顎の先から忍び込むように水の愛らしい顔が昇ってきて、私の動揺など全く気にかけない様子で「私! 今日お昼ご飯食べてみるよ!」と距離の計算が出来ないのだと明白にわかる声量で言う。
 声に物理的に押され、顔が机からずり落ち無気力に床に倒れ込んだ私は、「ああ、ああ、ああ、ああ」と言いながら這い上るように私の席に座り、「ああああああああああああ」と長い溜息を漏らしながら机に突っ伏す。身体の表面は寒気が走り、内部は熱を帯びて、汗が至る所からどばどば出ているのを感じる。昨日の出来事を無意識に蓋をして忘れていたのか、新鮮な形で水が人間になっているのだと痛感する。私は紛れもなく水を私に変えてしまったのだ。
「冴火ー大丈夫ー?」
 ロッカーが開く音がして、結衣が私に優しさを投げ掛けている。この優しさは過去の私の寂寥の涙に似ている。積み上げていたものが一瞬のうちに崩れ去ったような気がする。背中の痛みが痒みに変わっていくのを感じる。机の異質な匂いを嗅ぎ、目を開ける。木目があるのに全く木という感じがしない気色の悪い机があり、私は迷わず何度も唾を吐く。この身体が身勝手に成長していくのと同じ感覚で、私が教室で異物になっていってるのを感じる。唾の味が変わっていく。ざわざわと教室で私の話をしているのが感じ取れる。他人は私を助けてはくれないので、どんな声にも耳を傾ける必要はない。四時間不貞寝する。

 四時限目の終わりと私の始まりを告げる鐘が鳴る。私はまだ鐘が鳴り終わらないうちに、意識で出せる最大限の笑顔を貼り付け、「焼きそばパン買って来るから教室で待ってて」と机に伏した冴火に言い、教室を飛び出している。
 階段を駆け下り、一階の廊下を走っていると、窓から校門の前で一匹の犬が倒れているのを見つける。私の身体は何かに操られたように渡り廊下の途中で右に曲がり、校門の前で倒れている一匹の犬の元へ駆け寄っている。
 犬の前で立ち竦み、倒れた犬を眺めてみるが、いつまで経っても悲哀の感情が涌き出て来ない。私は私に眠っている筈の憐れむ心を引き出すべく、この犬を助けるという目的で意識的に行動してみようと考える。しゃがみ込み鼻に手を当てると、息をしていないことがわかるが、それでも可哀想だと感じない。行動が足りないのだと思い、犬の舌を引っ張り、気道を確保し、人工呼吸を開始する。これが私の初めてのキスだが、何の気持ちの揺らぎも無い。何度も「可哀想」と念じながら息を吹き込んでも犬が息を吹き返すことはない。可哀想という気持ちは微塵も芽生えぬまま、救命活動を終える。必死に助けようとした犬の姿は、普段より静かな毛むくじゃらの肉塊にしか見えない。首輪には『ペパロニ』と書かれてある。私が今朝逃した犬だと、生きていたときのペパロニと重ね合わせると即座にわかるが、罪悪感を微塵も感じることが出来ず、この不甲斐無い私を恥じることも出来ず、ただそれを傍観している。「死は憂いだよねえ」と冴火の声が脳裏に過ぎる。

 警鐘が鳴り、水が教室を出てしばらく経っている。私は皆にどう思われているのかという自己同一性を気にかける余裕も無く、水の変貌に狼狽し、貧乏ゆすりをし、髪を掻き乱し、顔をぺたぺたと触り、終いにはこめかみに一粒のにきびを見つけ、それを今までの苦悩の集合体だとこじ付けて、人差し指でくりくりと痛めつけて快楽に浸りながら「ああああああああああああ」と白目で身悶えして水の帰りを待っている。その演技のような姿は解離した意識で俯瞰され、私は笑っている。教室にいる人々の目が露骨に私を敵視するものに変貌して行くのを感じる。
 突然私の真後ろに居た女子が「きゃああああああああ!」と悲鳴を上げ窓際に走っていく。生徒達がびくりと教室の後ろのドアを向き、椅子や机が床に擦れる音が聞こえる。どうやら私に向けられた悲鳴ではないと彼等の視線からわかり、私は指を止め振り返る。腰を抜かして座り込んでいた女が立ち上がり後退りするのを追うようにして、何か毛むくじゃらのぬいぐるみのようなものをお姫様抱っこしている水が現れる。その毛むくじゃらのものは明らかに焼きそばパンでは無いが、目を凝らしてもあまり実体が掴め無い。水は胸を張り闊歩している。私は水にお姫様抱っこしてもらった昨日の感覚を思い出し、その毛むくじゃらのものに嫉妬し、右手の五本指を口に咥えて、涎を床にぽとぽとと垂らしながら眺めている。唾液が溢れ出て、それを掻き出すように手と指を動かすと、喉が物凄い速度で渇いていく。
「犬の死体よ!」
 と女が甲高い声で言い、また悲鳴が上がり、私は水にとって犬の死体同然なのだとはっとする。唾液が止まり、一瞬で口の中が乾燥する。
 この水の行動の意図のわからなさは、私に恐怖だけを植え付ける。私は初めて水に恐怖した衝撃に耐えきれないのか、水の変貌の原因が私だと思い出したのか、涙を流している。罰として水の行く末を見送りながら、手探りで机の横にかけてあるスクールバッグからお弁当箱を取り出して食べ始める。順番など気にせずじゃがいもを先に口にする。口の中が乾燥しているためうまく食べられない。下腹に何かが込み上げてくるのを感じる。

 私がペパロニを抱っこして教室に入ると、軋んだような物音がして、皆は怯え、顔に青の線を入れながら、私からどんどん離れて行く。犬の死体がそんなに怖いのだろうか。私は皆がペパロニを可哀想だと涙を流して言い一緒にお墓を作るという予想が外れたが驚くことも出来ない。
「食事中にそんなもの持ってくるなよ!」
 一匹の短髪で長身の逞しい男が怒鳴る。ここで一歩引くと皆が私の意図を掴めず怯えたままなので、進むしかない。
「ペパロニが死んだんですよ! 悲しいでしょ! 何でそんなことが言えるんですか!」
 私は彼と同じ声量で怒鳴り、皆のように死を憂う心を持ち、命を大切だと捉えていることを誇示する。これで可笑しい人間という肩書きは消えるだろう。
「意味わかんねえよ! お前気持ち悪いんだよ!」
 同じ男が怒鳴り返してきて、また私の予想が外れる。私は可笑しいではなく気持ち悪いらしい。彼がなぜ気持ち悪く感じているのかという怪訝があるが、気持ち悪いのなら気持ち良いことをしたら良いのだと当然の結論に至る。私はその男に窓に押し込むように近付いて「近付いてくんなよ!」という彼の口を私の口で塞ぐ。人間がキスを気持ち良いものだと認識していること予習済みだ。口を離して見つめ合うと、彼が顔の穴という穴を全部広げて驚いた顔をしている。気持ち良かったのだろう。さらに良い雰囲気を助長するべく、「ごめん、つい」と呟き、血液を顔に集め赤面し、頰の筋肉を緊張させにやけ顔を作って下を向き、こめかみをぽりぽりと人指し指で掻いてみる。人間が唇と唇を合わせる行為を恥ずかしいと認識していることも学習済みだ。
「何すんだよ!」
 彼の野太い声と共に私は殴られる。あの声の性質と暴力から察するに彼は私に敵意を向けている。私のキスが不快で、その要因である私が痛い目に合うことを望んでいるのだろうか。私も人間になるために、この自己の保存と複製のシステムが複雑化した世界に身を投じる必要がある。この場合は、お互いに利益を生む結果にするべく彼の快楽を助長した上で周囲を味方に付け擁護してもらうべきだ。私は殴られた勢いを殺さないように地面を踏み込み机の足に背中から思いっきり飛び込み被害を露骨に演出し、彼に爽快感を与える。机は大袈裟な音を立てて動き、悲鳴も上がる。殴られながらもペパロニを腕の中に包み込み続けている優しさは、周囲の人間が私を支持する要素になり得るだろう。背中には重い感覚があり、この感覚を人間は恐怖し、痛みと呼び嫌がることを思い出す。念には念を入れ、「いたいいいいいいいい! いやだああああああああ!」と叫ぶ。完璧だ。
「うるさいよ! 自分で吹っ飛んだんじゃない!」
 一匹の髪の短い女が叫ぶ。上手く演技出来てなかったらしい。私はまた予想が外れ、進んで受けた痛みは嫌がるに値しないのかと学習して、「そっか」と言い、大事そうにペパロニを抱えて立ち上がると、皆が一斉に一歩後ろに下がる。私が一歩踏み出す毎に、教室の中のものは私を避けるように動き出し、私と一定の距離を置く。その距離は宇宙の法則かと思うほど均等で、私の身体は自然に教室の中心に立ち、皆は窓際の壁に立っている。
「その犬ペパロニって名前なのかよ!」
 一匹の小柄な男が叫ぶ。
「そうですよ!」
 私が即答すると、皆が一気に怯えた顔を笑顔に変え、「わはははははははははははは!」と笑い始める。この笑いの場合同調するべきだと思い、「あはははははははははははは!」と私も笑ってみる。
「水が笑わないで!」
 一匹の背の高い女が叫び、皆の笑い声が止まる。私はまた予想が外れたと思い、急いで無表情に戻るが、私の「あはは!」という声が静かな教室に寂しそうに響いて残る。さっきの笑いは私を排除するためのものだったが、私はペパロニと名付けた人間ではない。私が一体どういうものか余計わからなくなる。自由に想像し理由をつけて私を排除しようとしているのだろう。
「早くそれ外に戻してきなよ!」
「なんでそんなことが言えるの! ペパロニが可哀想でしょ!」
 私はこの基準で普通を取り戻しにきたのだ。凡ゆる基準で普通を取り戻すためにこれから何度もこの行事を行わなくてはならない。こんな所で躓いている場合ではない。
「可哀想だから戻して来いって言ってんの!」
 女が支離滅裂なことを言い、私に唐揚げを投げつける。私は床に落ちた唐揚げを摘み上げ、昨日の冴火のように空を仰いで食べる。砂が混じり、咀嚼する度にがりがりと音がするが、嫌な感じが全然しない。
「なぜ人間だけがそんなに偉いんですか! 人間が死んだら悲しむのは何なんですか! 犬は人間寄りではないのですか! 私はこんなに悲しんでいるのに!」
 私は口を開け、どろどろになった唐揚げを見せて、その口に向かって指を差す。「これ鳥さんが見たときのこと考えたことありますか! 野菜も切り刻まれてお弁当に閉じ込められて! 同じ命なのに!」
「命に差はあるんだから仕方ないでしょ! 地球上のものは人間に必要とされないと生きていけないの! 人間だって例外じゃない! 水だってこのままだとペパロニみたいになるわ! 水は可笑しいから! この先仕事をして生きていけるとは思えないからね!」
「うるさい! 私は生まれて来ただけだ! 不公平ですよ!」
「そんなの私のせいじゃないわよ! 精神科に行きなさいよ! もうここには戻ってこれないだろうけどね!」
「ああああああああああああ! 全人類に愛される方法を教えてくださいいいいいいいい! 教えてくれたら従いますので!」
 私は苦悶の表情を顔に貼り付けてしゃがみ込み、ペパロニを横にそっと置いて、大きな声を出しながら土下座し、床に頭を擦り付ける。誰も何も言わず、たまに笑い声を上げる。
 肩を優しく二回叩かれ顔を上げると体育座りをした冴火が異質なくらいの笑顔でこちらを見つめている。
「私は生まれただけなのに、何故存在しているのかもわからずに、どうして生きるのを工夫しないといけないんですか? 上手いとか下手とか、良いとか悪いとかあるんですか?」
 私も体育座りをして、情報収集のために、涙は出ないがしくしくしながら質問する。冴火がまたさらに笑顔になる。冴火はどこまで口角を意識的にあげられるんだ。
「水は生まれたてだからわかんないだろうけど、人間の世界は言葉がある分複雑で、素直に生きることが難しい世界でみんな頑張ってるの。水は愚痴なんて吐いちゃ駄目よ。素直に生きるの。言葉も意識も愚痴塗れの世界で素直に調和を持って生きるための道具なの。水にだって欲望はある筈よ。絵だって描いていたんだし、今こうして生きているんだし」
 冴火が頭から何者かにいちごミルクをかけられながら、それを全く気に掛けることなく淡々と私を諭すようにそう言う。いちごミルクは、冴火の頭頂から無数の滝のように顔を流れ、鼻で美しく分岐したり、まつ毛を湿らせたりしながら流れ、床にぽたぽたと落ちたり、冴火のブラウスの中へ入って行っている。私が芳醇な匂いに包まれながら、冴火にはいちごミルクが似合うなと思いそれを眺めていると、ブラウスから白い下着が浮き出て、冴火の私とは違う胸の姿を見て股間の辺りがむず痒くなる。私は生まれて初めての生殖を目的とした勃起をしている。「今こうして生きてるんだし」という冴火の言葉が頭で繰り返される。私は言葉に描かれ、生物になってきているのだろう。
「ああ違う。水のことなんて私が分かる筈ないのに! 何で私は水を人間みたいに話しているの! もう! 私のばかばかばかばかばか!」
 冴火が胡坐をかいて、いちごミルクをかけられながら頭を両手でぽかぽか叩き始める。いちごミルクが水飛沫みたいに床に散らばり、日光に照らされ煌めいて美しい。私は冴火の取り乱した姿を見ながらも勃起し、それに申し訳ないという思いさえ湧かない。
「ペパロニが死んで可哀想なんだけど」
 私は冴火なら私を多少冴火だと認めてくれるかと思って尋ねる。
「もう。ペパロニは死んでないわ。戻してきて」
 私は唖然とする。冴火の言っていることが全く理解できないのだ。ペパロニをもう一度見下ろして、手をペパロニの手に当てる。ペパロニに息はない。
「死んでるよ! だって息してないもん!」
 私はばっと顔を上げて嬉しそうにペパロニが無呼吸だということを伝えてしまうが、しまったという気持ちが湧かない。
「何で嬉しそうなのもう。ペパロニは死んでないわ。もう水はそんなこと考えなくて良いの。水は水のことを水って呼んでいたら良いのよ」
 冴火は一切笑わず、ただ尋常じゃない笑顔を貼り付けて私の頭を撫でている。益々口角が上がっているが、顔は真っ青だ。意識で見なくとも青いとわかる。
「何してんの!」
 冴火の友達の一匹が教室の帰ってきて怒鳴り、いちごミルクを垂らしていた女を突き飛ばし、いちごミルクの入った紙パックが床に落ちると、冴火は急に身体から何かを吐き出しそうな仕草をして口を抑え私の胸に飛び込んできて、すぐに私の肩を持って立ち上がり走って教室を出て行く。私は身体が接触した所で一切どきりとすることはなく、冴火の背中を見ながら、冴火の胸の感触の懐かしさを生々しく思い出しながら心地良さに耽っている。
「水。これ戻してきて」
 もう一匹の冴火の友達がペパロニを抱き抱えて渡してくれる。
「はい!」
 私は勃起したまま立ち上がりペパロニを受け取り、クラッチバックみたいに脇に抱えると、一瞬で教室中の視線が股間に集まる。くすくすとした話声が聞こえる。私の生物を笑っているのだろう。私もこの生物を笑わなければ人間にはなれないのだろうか、と私のズボンが盛り上がった股間を見下ろして思う。教室を出て行くと、一気に教室が騒がしくなる。私はどうやら彼らの感情を堰き止めていたらしい。
 ゆっくりと階段を降り、廊下を歩き、校門の前まで行くと、校門の脇にある花壇にペパロニをそっと置く。そしてこういう時人間はどうするのかと思い、深い溜息をついてペパロニが最後を迎えた姿勢になる。身体の左側を地面に付ける形で、校門の方を向いて、犬の四肢の付き方を真似て寝転がる。目の前に見える柵は人間に似ている。ペパロニはこの檻を見て死んでいったのか。雨が降ってきて、雨粒が地面に叩きつけられる音に包まれ、そのまま静かに目を閉じる。
 芝生が生い茂った公園を駆け回っているペパロニの楽しそうな姿を見る。感情も意識も感覚も何もかも私とは違うのが鮮明にわかる。私はペパロニを私と同じようだと誤解していたらしいが、やはり何も感じない。教室の中の誰にも何の感情も抱けず、終いには冴火のあの惨状を見ながら欲情して勃起しているらしい。人間らしさなど殆ど無く、ただの生物だ。「素直に生きるの」と冴火に言われたが、素直とは何なのだろう。生物として生きやすい環境に身を置き、生きやすい思考と意識の向け方をすることだろうか。だが、私はこの生きづらい環境に適応しなくては生きれないらしい。欲求と呼ぶべきものが胸の内に芽生えるのを感じる。私は冴火になれるのだろうかと初めて愚痴を吐く。ぺパロニの映像が薄れて行き、真っ黒い瞼の裏を見る。
 股間の奥の気配がむず痒くなり、脳がぱちぱちと弾けだすと身体が自然と仰向けになる。私の口が自然と開くと痙攣と共に甲高い音を上げて、天に向かって光が飛び出し、垂直に光の柱を立てる。勃起が収まって行くのを感じながら、光の壮絶な美しさに、初めて恐怖を感じている私は温度の無い雨に打たれている。
 空に消え混む光の儚さに、何かを漠然と繋ぎ止めたいと思う。

 貴方と見つめ合っている誰かの身体に日が射し込んでいる。
 貴方が誰かと見つめ合い、7秒が経っている。7秒間の陰湿の余韻で翳った景色はたしかにあるが、それでもやはり美しさを隠すことはできない。貴方の身体は凡ゆるものが物語の伏線を見え始めている。どんなに些細な情報でも、物語に大きな意味を持つことができるのだと情報を欲しがる。どれも、貴方を祝福する喜びに見え始めている。裏返しにされて見えないものが見え始める。括りが解けていく。
 トンネルの中で嘔吐しているスーツ姿の女性を見える。意識で背中を摩る。街路樹の前に子供の靴が二足ぽつりと置かれている。人知れず誰かが木になったのかも知れない。意識で木を摩る。ベビーカーの中の赤子が泣いている。貴方から宇宙の果てまでの全ての時空から愛されている心地になる。太陽が輝いている。太陽は地球上の生物にとって一つで、皆が同じものを見ている。当たり前に思えることが、実は最も美しい気がする。人間がこんなにも沢山いることがとても美しいと感じる。愛し合い生まれた結晶がたしかに生きているのだ。思いや感情が合わさり心になり、形になって生きているのだ。皆が我武者羅に生きて辿り着いた果ての今がここに集合している。皆それぞれの今を見ている。この途轍もなく美しい今を、どんな些細なことまで溢すことなく集中して感じていたい。
 貴方の喜びを表すための知覚情報が消え、未来を待ち侘び始める。貴方がどこまでいけるのか、貴方の動きに誰かがどう返してくるのか楽しみで仕方がない。無常の喜びに触れる。

 私は便器を抱えて内臓から心まで全て出す勢いで嘔吐している。人間らしく原因を探し始め、状況を整理する。
 私の住む世界と同じ苦痛を味合っている迫害される水を見て、気が晴れるかのように思えたのだが、私の心は不意に純粋で、悲哀に満ちた表情でいながら奥で歴とした自然が潜んでいる水の顔を見る限り、貪り食われているのは、水ではなく私であった。結局水を擁護したからか、教室で叫んだからか、いちごミルクをかけられた。いちごミルクが似合わない女になってしまった。彼らは、人間の中にしっかりと生物を持ち合わせている。生殖競争や生存競争に素直なのか、それとも愚痴の果てに鬱憤が溜まり吐き出たものなのかわからない。とにかく人間らしく秘密を持ち生物を見下した所で、あの時私は生物としてただの淘汰される者で、見下されているのは私だった。水に凭れかかった時、お腹に硬い生物が当たった。お腹が痛いのは生理が始まったからだ。私は人間らしく思想を持ったところで生物なのだ。言葉を吐き出したのかもしれない。
 私は一頻り吐いた後、吐瀉物を見ないようにレバーを引き、その音にも耳を貸さず、個室を出て、白い洗面台で鏡を見ずに手と口だけを洗い教室に戻る。
 私が教室に戻った途端教室の窓から、豪雨の中一筋の光が天に向かって走っているのが見える。私は身震いがして全身の毛が逆立ち、声の出し方も忘れて、ハンカチで手を拭きながら呆然とそれを眺めている。
 光が消え去った瞬間、一斉に皆が持っている携帯が警報を鳴り響かせ、校内がざわつき始め、黒板消しが落ちかたりと音がする。
「何か揺れてない?」
 と私のそばにいたかなえが皆が分かりきったことを言い、私の腕を掴む。
 かたかたと机や椅子が動き出し、生徒達は次々と「地震だ!」「やばいよ!」「大きい!」などと言いながら、机の下に隠れる。かなえが私の腕を引っ張っているが、私の身体はびくともしない。
 怒っているような風が吹き、教室の窓ガラスが唸る。ロッカーが倒れ、「きゃああああ!」と女の悲鳴が上がり、「うるせえよ静かにしろよ!」「だって仕方ないでしょ!」と自然に怯えた人間が喧嘩を始める。
 私は呆然としたまま教室を見渡し水を探すが、見当たらない。口の中にまだ少し嘔吐物の味がして水は外に出て行ったのだと理解する。
「水! 水はどこ! 水!」
「冴火危ないから!」
 私は結衣に押すように動かされ、結衣と同じ机の下に入る。かなえもその隣の机の下に入る。停電する。ぱっと真っ暗になって、「ひゃあ!」「変な声出さないで! まじでキモいから!」と淘汰の声が聞こえる。
「水は! 水を探しに行かないと!」
 私が机の下から出ようとすると、結衣が強く私の腕を掴んで
「駄目! 危険だから!」と言う。
「冴火も揺れてるねえ」
「かなえふざけないで!」
 私は結衣とかなえに腕を掴まれ、身動きが取れないまま、顔を顰めて揺れが収まるのを待つ。やがて揺れが収まり電気が付き、皆が「大きかったねえ」「怖かったあ」と言ったり、泣き出したり、闇雲に倒れたロッカーや机や椅子を起き上がらせたり、思い思いに自然に負けた人間を慰めるように行動し始める。
「みんな大丈夫!?」
 と先生が教室にドアから顔を出してきて言う。「死にたくなかったらしばらく教室で待機ね! 大人しく自習でもしてて!」
 先生がすぐにまた廊下を走って行くので、私は急いで結衣とかなえの手を払いのけて、「冴火!」という結衣の声を無視して追いかける。
「先生!」
 必死に走り、廊下の端の階段の前で呼び止める。
「冴火どうしたの! ビショビショじゃない!」
 先生が振り向いて言う。
「水がどこにいるか知りませんか?」
 先生は険しい顔をして
「凄い光が外で見えたでしょ? あの下に水が倒れてたのよ。森山先生がびしょ濡れの水を見つけたから保健室に連れて行こうとしたら地震が起きてあたふたしてる間に走って逃げちゃったらしいの。困った子だよねえ。でもすぐにこの高校が避難場所になるから放送を聞いたら水もきっとここに来るわ」と最後には明るくなって言う。
「わかりました。ありがとうございます」
 私は諦めを込めた深いお辞儀をする。
 私は理解している。水が放送を聞いて避難して来る訳が無い。先生も皆も水のことを何にも理解していない。水は私しかわかってあげられない。
 私の身体は先生が階段を降りて行くのを見計らって、振り返り向こうの階段に向かって、手を大きく振り闊歩し始め、加速して最後には走っている。突き当たりを左に曲がり、恥など無くただ最速のフォームで階段を駆け下りる。曲がると、一階に結衣とかなえがいるのが目に入る。私は足を緩め、ゆっくりと結衣とかなえの前に行き、一階から四段高い所から見下ろして、
「何でここにいるの!」と子供のように言う。ランドセルを背負っていた感覚が微かに蘇る。
「冴火の邪魔しに来た訳じゃないよ」
「嘘だ! 止めに来たんでしょ!」
 結衣の言葉を掻き消すように私が怒鳴る。
「ほら靴。取っておいたよ」
「返して!」
 私は体裁など一切考えず、母のように結衣の手から私のローファーを奪い取り、二人を睨めつけ、目の前の靴箱の奥のガラス製のドアに向かって走ろうとすると、かなえに手を掴まれる。
「閉まってるんだよあのドア。私たちが抜け道を知ってるからついてきて」
 いつもぽかんとしているかなえの大人びた優しい声は私の緊張感を解き、整然と今の状況を理解する引き金になる。私は泣いて不思議なくらい大人しくなり、いつの間にか手を引かれながら歩いている。
「なんかほんとに世界終わっちゃいそうな感じだね」
 結衣が窓を眺めて言う。窓の外はお天気雨で、風が恐ろしい音を立てて吹き、木々はしなり、何か大きな生物がいる雰囲気を醸し出している。
「でも水に会いに行ってどうするの? 見つけられないかもしれないし、見つけた所で水が大人しく高校へ来るようにも思えないよ」
 私はかなえの普段とは違う鋭い質問に緊張し、床とかなえの上履きに覆われた踵を見ながら、私の身体が出せる最も聡明な知能で考えている。私がどういう気持ちで廊下を駆け出したのか、原因を探せば、私の記憶の全て、私の遺伝子、宇宙の始まり、世界の始まりまで、それも繊細に、どんな些細なことまで零すことなく目を通さなければわからないように思える。私を衝き動かす力の正体はいつも、この私では理解の及ばないものだ。言葉で表そうとすればするほど屈折して行く。
「わからない」
 私はそうだ。わからないのだ。
「だよねえ」
 かなえは優しい声を上げて、私はまた泣きそうになる。
「ここだよ。このトイレ。きてきて」
 結衣が職員トイレに入り、手招きする。私はかなえの手に引かれるままに入って行く。
「ここの個室の上に、ほら、あった。ここから出られるよ」
 と結衣が言い、洋式便所に足をかけて登り、窓を開ける。
「おお」
 物凄い風が吹き込んできて、かなえが声をあげる。
「ほら冴火。早く登って。かなえが肩車して」
「いくよお」
 というかなえの声に合わせて私は浮く。
「私の肩踏んでいいから」
 と結衣が言う。私は結衣の肩を踏み、窓枠に足をかけ身を屈めて立ち、「水に告白するんだよ」と結衣に言われ、「頑張ってね」とかなえに言われ、「ありがとう」と言い、身体を捻り地面にジャンプする。痛みと痺れが足元から昇ってくるが、何処か意味のある痛みのように思えて心地良い。風が吹き荒れて校舎を囲む木々がなぎ倒れそうなほどしなり、雨が横向きに降って顔に当たると痛く、濡れた制服が風に当たって寒いが、それも愛おしい。昇華される予定のある苦痛は取るに足らないものだ。私はローファーを履き替え、上履きをそっと地面に置いて、校門に走り出す。
 私は校門の柵をよじ登り、水と行ったことのある場所、水が居そうな場所全てに行く。地割れした所や倒れた電柱や瓦礫を避け、避難してくる人混みを縫って進む。「水〜」と遠くまで通る声を上げる。放送は何故か避難を促すものでは無く、雑踏のような音が流れている。壊れているのだろう。
 7時間が経つ。街はもう探す場所がない。緑の多い公園には遊具が寂しそうに佇んでいた。川は氾濫していた。商店街は静かだった。誰もいないショッピングモールは空虚だった。
 街一帯を見渡せる高い所から街を見渡す。どの店も家も電気が消えて、人影はなく、街灯と月の光だけが寂しそうな街を慰めるように彷徨っている。雑踏の音だけが殺風景に放送されている。空を突き刺すように伸びた鉄塔が恥ずかしい。その街に一人残されるように佇んでいる私がいる。疎外感か孤独か、私だけが無闇に考え、無闇に苦しんでいるような心地になり、月を探して見つける。月は地球にいる人間にとって普遍的で客観的なものだ。同じように月を見ている私のような人間が世界の何処かにはいる。きっと私よりも苦しい人間が居るのだろう。こんな人間らしいことを考え、月に照らされて申し訳無い気持ちになる。雨の雫を汗みたいにつけた街灯が私に寄り添い立っている。私は彼が目的を見失った昔の私のように思えて、無意識に「泣いてるのか」と言い彼の身体についた雫を舐める。彼が照らしているのは私だ。劇的に学校を抜け出しても結果は変わらない。水は見つけられない。挫折だ。雨に打たれていても気取った気持ちさえ湧かない。冷えてお腹が痛いのか、生理でお腹が痛いのかわからない。
「んぎゃあんぎゃあんぎゃあんぎゃあ! ああああああああうううううううう!」
 放送が赤子の泣き声に変わり地響きがする。私はただ自己の保存と複製のシステムに訴えかけてくるような粗雑で押し付けがましい声に苛々して胸が苦しくなる。私が昔この声を出していたことさえ恥ずかしくなる。私の身体は耳を塞ぎながら奇声を上げて坂道を駆け下りている。あのパソコンの前に行き、水を探したいという気持ちだけがある。思想も自然も投げ捨てた不誠実な私の声が私の中で反響して聞こえる。
 私の住んでいるアパートはおんぼろだが、何故か多少斜めになった程度の影響しか無い。ドアを開けようとして鍵は学校に置いて来て持っていないことを思い出し、側に置かれていた消火器を掴み躊躇なく窓ガラスを叩き割る。私は手段も選ばず一心不乱に目的を果たそうとしている。中に乗り込み、台所のシンクの上に酒の空き缶を捌いて立ち、部屋を眺めると普段とは違う景色で何か罪を犯している気がする。食器棚は倒れ割れた食器が散在し、カーテンレールは落ちそこに掛けられていた母の服や装飾品がずり落ちている。この生活を憎む意味で皿を踏み、母の欲望を踏み躙る意味で母の服を踏み、畳に泥の染みをつけながら爽快に私の部屋に入る。電気をつけてパソコンの前に座り、水を滴らせながら、悴んだ手でキーボードを叩き始める。
「それ何?」
 書き始めてすぐ、誰かの声が聞こえる。私がそれに何か悪事を見られたかのような恐怖を感じて驚き、壁に背を付けて音源に顔を向けると、髪を全部後ろに掻き上げたイケメンと言わんばかりの水がいる。制服は身体にぺたぺたに張り付き、黒色のローファーを履き、身体は細かく震え、唇は紫色だが、水はその身体の反応に何も気づかず、髪をつやつやと光らせ清々しい表情をしている。水は徐に私がかつて座っていた所に座り、液晶を眺めている。
「この『水』ってのは私のこと? 今、駅前に佇んでい」
「やめて!」
 私は喉から謝罪の言葉が出かかり必死にそれを飲み込むと、小説の冒頭部分を読まれ妙に恥ずかしくなって叫び、咄嗟にパソコンを抑えて閉める。水は土足で私の部屋に上り込んだ上に、土足で私の秘密に踏み込もうとしている。水には比喩と現実の区別なんて無い。「『水』は私が書いてる小説のタイトルで、水とは関係ないよ」
「ふうん冴火は小説が好きなんだね」
 水は身体をミーアキャットのように直立させて窓を見ながらそう言う。私は水の前に正座して水をしっかりと曇り無い眼で見つめ
「好きではないけど、水はなんで私の家に居るの。私の家に来たことなんて無いでしょ。女の子の部屋に土足で上がり込みやがって」と言う。
「つけてきた」
 水は息を吐く流れに合わせて身体を萎ませ、私の目を見て言う。
「はああああ? 私ずっと水を探してたんだぞ! いつからつけてるの!」
 私は怒っている訳ではなく、寧ろ面白くて吹き出しそうなのだが、更なる趣を求めて少し怒ったような声を出す。
「校門から」
「えへへ最初じゃん! 私何度も水って呼んだのよ! 気付かなかったの!」
 私はもはや笑わずにはいられない。不思議と怒りは無く、私の努力も、水を探した7時間も、結衣とかなえとの劇的な学校脱出も、生まれて今までの苦楽の日々も全部、今笑うためにあったかのように思える。
「今日ずっと色んなものから呼ばれてるの。冴火を見失わないように頑張って追いかけたよ」
 水はカワウソのような愛らしい雰囲気で、褒めてと言わんばかりの表情で上目遣いで見つめてくる。私の身体は生物のシステムから水の頭を撫でようと手を伸ばしているが、私は先程の赤子の泣き声を聞いた時と違い穏やかな心地でいる。私の心は言葉が一杯で、矛盾だらけらしい。
「頑張ったんだね」
 水が咄嗟に立ち上がり、私は空を撫で、「あ」と呟き、水の跡がついた畳を眺めた後水の背中を見つめ、胸に穴が開くのを感じる。水は窓の前に行き、ダンボールの中からポーチを二つ取り出すと、ハサミを取り出して「これ借りるね」と言い、電飾の光が反射して鏡のようになった窓を見ながら髪を切り始める。私は髪が切れる音を聞き、おしっこを漏らしそうになる程驚愕し、筋肉を動かす意識も何処かに消えて、死んだようにその姿を眺めている。
「この家ボロいね。所々腐ってるし、床抜けてる所もあったよ」
 水が突然冷淡な口調で何かを言い始める。
「地震のせいよ」
 私はほぼ無意識で答える。
「貧乏だからでしょ? パソコン買うお金なんてあったの?」
 水は機械みたいに速い。
「もう色々と土足で上がり過ぎよ。パソコンはバイト代を貯めて買ったし、私はこの家が好きなの」
 私は撫でられなかったからか、多少腹が立っているのかもしれない。
「冴火はなんでこんな家早く出て行かないの? 生物は外圧に適応するだけなんだよ。住む場所を変えるのが知性のある生物の基本でしょ?」
 私は水を殺したいと思う。水は私のことを何もわかっていない。私がどれだけここで苦労して適応しようとしてきたことをわかっていない。私がどれだけの思いで水を探してきたかわかっていない。逃げるということがどれだけ人間を生き辛くさせる社会かということをわかっていない。どれだけ生物を裏切り母を見捨てることが怖いかをわかっていない。それでも、私は水が居ないと生きて行けないから殺意を嚙み殺し
「色々と事情があるの」と優しく言う。
「冴火は凄いね。私はもうここで生きていける気がしないよ。誰かに必要とされてお金を稼いでいく自信がない。みんな凄過ぎるよ」
 水は教室での私の忠告を聞かず、生物に抗う愚痴を吐いている。人間は愚痴など言わずそれぞれが思い思いに生物に素直でありながら調和の取れた世界を実現するために進むしかないのだと、私は水を軽蔑する。同族嫌悪だ。しかし想像も付かない苦労が奥に潜んでいるかのように思える水の言葉には一点の感情もなく、水はただ教室の時のように悲劇を演じている。そして演じれば演じる程身体が蝕まれる私とは違い、水には言葉が感情に結び付かない芯がある。まだ言葉が感情を引き出す道具になっていないのだろう。私はただ私を嫌っているだけだ。
「ねえどうして決められた秩序で生きて行かないといけないの? 私は生まれた時から自由じゃないんだよね? 私は神が嫌い。私は秩序から逃げたい」
 水が身体の中の分子の叫びを代弁している。どうやら水は死にたいらしい。水がこちらを振り向き私の髪型を見つめて、また迷い無く切り始め、私は水が私になろうとしていることに気が付く。水は自己像を築いてしまったのだ。今までの水が私になっているという罪悪感などまやかしだと思えるほど、身体にずっしりと猛烈な不健康な重みを感じる。
「言葉は現実を表せないの。水が愚痴を吐いたら駄目って言ったでしょ。今水が感じている世界だけが現実よ。水は水でいてくれたらいいの」
 私は教室の時のように諭す。
「無理だよ」
「なんで!」
 私が感情を剥き出しにしたその声には狂気の匂いがある。
「私は一人では生きられないし、そもそも生かされているだけ。この身体も今使っている言語も何もかも全部他人や自然が作ったものだ。色んな呼ばれ方をして適応して、もう水と呼べるものは残っていない。それに私は宇宙の一部で、きっと何か大きな目的を果たす道具として地球の表面に湧き出た何らかの役割を持った一匹の生物。蟻の一匹一匹に、葉の一枚一枚に名前がある訳が無いでしょ? 名前程固有のものなんて無いんだよ」
 水は用意された台詞を読み上げるように淡々と言いながら、予め用意されている未来に進むような迷いの無い切り口で髪を切って行っている。水の髪が次々と畳に落ちて行き、私が自己完結するための憩いの空間が汚されて行く。水が髪を切り終えると、化粧ポーチから口紅を手に取りメイクし始め、私の身体は勝手に立ち上がり、水の手を獣のように掴む。私は普通男子高校生はあまり一人称を私にしないだろ、口紅からメイク始めんなよ、と思う程に手当り次第に殴りたい気持ちになっている。
「何!」
 水の拒否の声に泣きそうになる。
「裏切ったな! 私を! 私の描く物語を裏切ったな! 私はずっとずっと水を探して水を書いているのに!」
 私の声は驚く程母の発狂した時の声に似ていて、水の腕を力強く握り込みながら、その腕の痛みがどんなものかわかってしまう。
「何が起きてる! もうずっと何が起きてるかわかんないよ!」
 水が私の手を手を振り解きながら立ち上がり、ポケットから携帯を取り出し床に叩きつける。三度跳ね、机の下に入る。
「水は目的だ! 道具じゃ無い! 私はずっとずっと水を探してきたんだ! それなのに!」
 私は私と同じ髪型になってしまった水を見ながら、口紅を握り締め、我を忘れ憤怒している。
「それは冴火が環境に適応して来ただけでしょ! 水は冴火にとっても道具だ! そんなに考えて所有して冴火可笑しいよ!」
 水の心の無い言葉に私は一瞬意識が持って行かれ、取り戻す。
「私だってええええ! 私だって思想なんて欲しくなかった! 世界の仕組みがどうだとか考えたくなかった! だけど苦しいから! 誰もみんなそうみたいな顔して! 私も歩んで来たみたいな顔して! 当たり障りの無い言葉ばかり並べて! 何故苦しいのか教えてくれないから! 私だって水みたいに自然に名前なんて付けずに不思議なまま感じていたかった! 私は冴火という名前が嫌い! 両親に付けられたこの名前が嫌い! 私を縛り付けるこの名前が嫌い! 私が嫌いなんだよ! 私は水が水に戻ってくれるだけで良いの! 私は水がいないと生きていけない! 戻ってよ!」
 私はまた意識の解離を感じながら、水には言葉など一切届かないことを知りながらひたすらに叫んでいる。
「私は誰の期待に答えられない可笑しい人間なんだよ!」
「人間なんてみんな可笑しいんだよ! その中で私は一番水が好きなの!」
 私はいつの間にか水に思いを告白している。解離した意識が統合されて行くのを感じる。水は何も言わず、ただ何事も無かった顔をして私を見つめている。雨の音に恥を溶かして、私の身体は水を抱きしめる。
「水はこの身体では無いの。水は道具では無いの。水はこの心臓の音のずっとずっと奥にあるものなの。生物とか人間とかそういう次元じゃない。私はそれが好きで好きで堪らないの。」
 水の股間が膨らんでいるのを下腹部で感じた私は、性欲のままにカッターシャツの上から水の骨張った背中を弄りがら、その生物を無視するように目を閉じ、水の薄い胸に左耳を当て心臓の音に耳を澄まし、ずっと奥にある私がまだ感覚したことの無い水を探しながらそう言う。
「すい〜」
 異様な声に驚いて目を開けると、水の足元にいる一匹の猫が、水のズボンの裾に潜り込んで、溶けるように消えて行く。私はまた幻覚を見ているのだと思い、安心してまた目を閉じると、
「すうううううううういいいいいいいい!」と誰とも分からない女の声が街中に鳴り響き、家が揺れ、私は目を開け水に思いっきりしがみ付く。
 やがて声が静まると水が一目散に玄関へと走り出し、私の身体はそれに呼応して本気でしがみ付くが、私の身体は女だからか、想像以上に力が無く、水は私の手から離れて行く。私は「行かないでええええええええ!」と叫び、泣き崩れることしか出来ない。水は私よりも他の女の声に耳を傾け、他の女を優先したのだ。玄関が閉まり、母が出て行く時と同じ音がして胸が痛くなる。意識の解離を感じ、三畳の部屋で泣き崩れている私の姿を、天井の視点から眺めて俯瞰することができる。こうして成れの果てに弱さを誇示する経験は慣れているせいで、過呼吸にならないように泣き喚き方に加減までしている。部屋にはもう誰もいないが、私は一体何に弱さを見せているのだろう。神だろうか。私を描いている者だろうか。私は本当に何も変わってない。
 私の携帯の通知音が鳴り、私は亀のような姿勢でポケットから携帯を取り出して液晶を見る。結衣から「水見つかった?」とメッセージが来ている。何も知らない癖にと腹を立て、血液が頭に集まって来るのを感じる。今日学校で楽しく会話し愛おしく思っていた友人が、この今の私の滑稽な有様を物凄い高い所から眺めている野蛮な糞野郎に思える。慈愛に満ちたような心配の言葉も、戯けて嫌味を隠しているような薄汚い台詞に見える。涙がぽつぽつと液晶に落ちるのを見ているともう何もかも無理になり、「見つかってないよおおおおおおおお?」とクレッシェンドを意識して叫びながら、近くに落ちていた口紅を水がクレヨンを持っていた時と同じ持ち方で持ち、液晶に擦り付け携帯を真っ赤に染め上げ、力無く投げると、机の下にある水の携帯の上に私の携帯が乗る。
「ああああああああああああ!」
 私は運命に逆らえたような自由な高揚感を感じ、天を仰いで獣みたいな声を出して立ち上がり、解離した意識で私の背中を見ながら、また水を追いかけ始める。私は水を探していたいだけのかもしれない。

 街灯と月に照らされた雨脚と、何か大きな黄色い光に照らされた雨脚とが、交差して煌めいている。私は至る所から名前を呼ばれ、私に向かって数多の生物達が集まって来ているのを感じながら、夜とは思えない程明るい街の中、無意識に大きな光を目掛けて走っている。
 どういう訳か、生物達は私に吸い込まれる。小さな蠅のような者さえ、私の中に入ると視界を彩らせる。私は身体の何処かに新しく目が生えるのを感じ、視界が遮られないように既存の二つの目を意識しながら走る。後ろから来る大勢の足音の中にヒトの足音は一つだけあり、振り返らずとも冴火が向かってきているのだとわかる。冴火も走っている、私も走らないと、と思い倒れている電柱を飛び越える。
 私は何軒も一軒家やアパートを越えて、正面にある一際大きなビルとビルの間から差し込む大きな光に入り込み抜けると、光に包まれた大通りに出る。余りの眩しさに圧倒されながら、光源を目を細くして探し、左の奥に両側の建物に減り込む程大きな黄色い球体を見つける。その球体を見つめていると、懐かしい気持ちが胸に溢れ出す。ガードレールを飛び越え、光に辿り着くまでの時間を嗜むようにゆっくりと車道の真ん中を歩き始める。
 私の中に手段を選ばず生物達は入り込んで、皆が私の身体の中で虫や鳥が私の中で飛び交い、小さな爬虫類や両生類や哺乳類が這ったり跳ねたり寝たりしながら溶け込まれて行き、目と色となる。視界は大量の目に飲まれて、私はカラフルな水彩絵の具を上からぽたぽたと垂らされているような映像を見ながら、その奥から漏れ出す光を頼りに真っ直ぐに歩いている。
 生物のそれぞれの環世界が統合されて行く。凡ゆる感覚器官が広がり、遠くの景色の色彩、気温、音が鮮明にわかる。感覚の円の中心に歩いている既存の身体がある。円の中の凡ゆる情報が色として想起され、視界は益々無常が激しくなる。
 しかし未だ感覚の完成には程遠い。

 雨が降りしきり、道一帯が水溜りとなっているのを、街灯でも月光でも無い異質な程に強い光が、建物の隙間から放射状に照らしている。私は水飛沫を上げながら、犬や猫のような生物達と水を追いかけ走っている。
 水が一際大きな光が飛び出たビルとビルの間に吸い込まれて行き、私もその光の中に入る。空洞を抜けると、遠くの光を放つ謎の巨大な球体に向かって騒騒しい青黒い塊に揉まれながらゆらゆらと歩いている球体を見つける。私が呆然と立ち竦んでいると、背後から生物達が立体的に湧き出て「すい〜」と言いながら颯爽とへ駆けて行き、あの球体の中に水がいるのだと何故かわかる。鳥や虫が弾丸のように青黒い塊に入って行くのを見て、あの塊が生物の群なのだとわかる。私はヒト代表のような傲慢な使命感で水に駆け寄り、臆しながらも生存競争を思い出し清々しい気持ちで脈打つ大きな青黒い塊を必死に掻き分け、「水!」と叫び、やっとの事で水の腕を掴む。その時、教室の時よりも大量の視線を感じ、目から涙が溢れ始め、塊から突出した水の腕には至る所にヒトの目がくっ付いているのがわかると、一瞬で冷静になり、汚いものを触ってしまったように「きゃあ!」と言い俊敏に手を離す。目の前にもう水とは似ても似つかぬ奇妙な球体がゆっくりと私から遠ざかっている。その距離は物理的には決して遠くは無いが、心と心の間に数十億光年の距離があるかのように思える。
 私はいつの間にか「うわああああん」と少女のように泣き出し、「嫌だ嫌だ」と手足を振り回し地面に張った水を大袈裟に描き散らしながら駄々を捏ねている。これは家での発狂的な泣き喚き方とは違い、単に自然に負けた人間の救いようが無い諦めを含んだ泣き喚きだ。苦しさも悲しみも、何も感情は無く、ただ意味もなく健康的に泣いている。
 大きな地鳴りがして血の気が引き、私は震源を無意識に探り当て身体を起こして振り向くと、動物園から抜け出してきたのか、大量の大きな生物達が横に並び、妙な一体感を宿してこちらに向かって来ている。一定の間隔で足音が聞こえ、地鳴りに合わせて身体が浮遊する感覚がする。また私ではどうしようもない自然の本気の力が私を襲っているのだとわかり、私は意識的に駄駄を捏ね始める。
 私の頭上を大きな気配が通り過ぎるのを感じ目を開けると、キリンが私を跨いでいる。恐怖も何も感じられぬまま身体を起こし目の前を見ると動物達が蕩けながら青黒い塊に混ざって行っており、水の球体は益々大きくなっている。私は咄嗟に水が描いていた絵を思い出し、このキリンだけは水に入れてはいけないと直感的に思い、立ち上がりキリンの足にしがみ付き、「止まって!」と叫ぶ。
「なああああにいいいい?」
 キリンが何個も音を重ねたような恐ろしい声でそう言い、首を曲げ私を覗き込む。
「何が起きてるの!」
 私は震撼しながらも、声を出す。
「そりゃあ水だよ」
「意味わかんないよ! 水って何なの!」
 彼等の方が水を知っているかのような雰囲気に腹が立ちつつも尋ねる。
「水は世界の縫い目だよ」
 横で這っているワニが言うと、一瞬で空気が緊迫し私は喧騒に飲まれる。
「水は余白だよ」「水は秩序だ」「水は矛盾だよお」「水は無限だよ」「水は道だよ」「水は救世主だ」「水は無秩序だ」「水は世界以外」「水は愛」「水は優しさ」「水は神」「水は理想だ」「水は限界だよ」「水は檻では無いもの」「水は世界だ」「水は視線だ」「水は運命だねえ」「水は故郷」「水は観念に潜んでいるもの」「水は季節だ」「水は混沌」
 生物達が皆水に向かいながら、思い思いに思想を話し始め、私はどれも浅いと思い苛々している。水は括れるものではないのだ。
「うるさい! 私しか水のことはわからないのよ!」
 私が怒鳴ると生物達の目の色が変わり、視線をぎゅっと浴びせられ、キリンの尻尾に叩かれて道の脇に置かれた車に背中から衝突し、車の窓ガラスは割れ、私は吐血する。壁が剥がれ落ちるように地面に落ち、身体を丸め身悶えする。次々と生物達が水の球体に蕩けながら入って行き水の呻きが何度も聞こえるが、私は無力で、内臓の破裂、冷え、生理の三重苦が揃った痛い痛いお腹を抑えて、血のついた涎を垂らしながら荒い呼吸をして眺めることしか出来ない。
 周辺の生物が全て吸い込まれ水の球体は光の球体の半分くらいの大きさにまでなり、それがまるで光の球体への愛の大きさを表しているようで、水にあれ程求められる光の球体が羨ましくなる。
 光の球体が歪に震え出し、黒板を擦ったような、五十音を同時に聞いたような、甲高く鋭い混沌とした音が聞こえ私は耳を塞ぐ。大きな波が光の向こうから押し寄せて来て街を飲み込み、私の身体は大通りを流れ歩道橋にぶち当たると、一気に身体が破裂しそうな程の水圧を感じ、上を見上げ水面に向かって泳ぎ始める。水中は暗黒のせいで露骨に光が感じられ、光の向こう側から色んな海洋生物が水の球体に吸い込まれているのがぼんやりと見える。
 光に照らされたビルを朧げな視界で捉えここがどれだけ深いかを悟り、私は死ぬのだと確信するが、私の身体は腕を伸ばしては広げ、足をカエルのように動かして水を掻き、私が出し得る高速な泳法で水面に向かって泳いでいる。もうすぐ死ぬのに生きようとしているらしい。私は私の身体を、感情を引き出す道具としてでも感情を鎮める解釈としてでも無く、心の底から初めて愛おしく思える。私の今までの人生、色々して幾ら屈折させた所でこの姿と変わりない。自然と私は、出来るだけ水面の近くまで力一杯泳いで欲しいという願いだけを込めて、泳いでいる素直な身体を応援している。私の積んできた知識や経験は水の泡だが、最後の最後に初めて感覚として死を理解し、これ以上無いと思える程の生の喜びを味わっている。ただ私にはもう未練などない筈なのに、過去を肯定し切れていないのか、慰め切れていないのか、走馬灯が見えない。水の姿だけが想起され、私の命は一年と少しだったかのように思える。何処かに死を祝福している私がいるのだろう。
 除夜の鐘のような鈍く重い音が水中を響き渡り、私は直感的に水の青黒い球体があの黄色い光の球体と交わったのだとわかる。足元から緑の光が迫って来ているのを感じ、大きな植物の蔓に足を絡め取られ踠き、最後には諦め目を閉じる。感覚が薄くなって意識が肉体から遠退いて行くのを感じる。やっと死ねる、と不意に思い、あ、と悲しくなる。つまらない人生だった。
 身体が何かに擡げられ高速で上昇しているのを、余韻のような感覚で感じる。私は水の抵抗を感じながら目を開けて、虚ろに誰かが私を抱き抱えているのだとわかる。水面を超え私の身体は肺が破裂しそうな深呼吸をして、顔を拭い目を開け、私は水を見つけ感極まる。水は上昇を続け、雲を抜け、私たちは宇宙に出る。水の身体で呼吸しているような感覚で、不思議と宇宙空間でも死ぬ気配が無い。
「冴火。水が全部変えるからね」
 水は私の顔を見てそう言うと、前を向いて蹴伸びのような所作をして速度を上げ、真っ直ぐ上昇して行く。水の身体は所々破れた制服を身に纏い普段の姿に戻っている。私は水のその言葉の意味を理解出来ないが、水の一人称が水になっていることを確認し、涙ぐんで「うん」と言う。首を捻り下を見ると、地球や太陽が、星々が段々小さくなって行き、妙に寂しい気持ちになる。
 水が幾つもの銀河を越えて、ある地点を越えた時、宇宙が水に引っ張られ、水を追いかけるように変形し始める。それは蛇が走る姿にも波浪にも植物が急速に成長する姿にも似て、幻想的で美しい。次々と背後で星々が奇声を上げながら花火のように爆発し始め、水は背後から飛んでくる破片を避けながら、何食わぬ顔で進んで行く。
 私達は宇宙の膜を欠伸のような音を出して越え、微かな火花だけがある空間から、溜息を漏らして萎んでいく宇宙を半透明の全裸姿で手を繋ぎながら眺めている。やがて私の身体が混沌を求めて微かに膨張を始め、火花のように破裂する予感がして、反応的に水のお腹に抱きつくと、私はすっぽりと水の中に入る。音も摩擦も無く、ただ私の人生の全てを理解され肯定されたような感覚だけが私を包む。
 私は水の半透明の身体から宇宙を眺め、現状を俯瞰すること無くただうっとりしていると、水の身体が発光と膨張を始め、水の手足と首が伸び、宇宙に手足を広げて付け、長い首を降ろし、宇宙を飲み始める。その姿はキリンが水を飲む姿そのもので、私は畏縮し僅かに水と分離した後、唐突に眠気が襲ってきて気を失う。

 水は苦痛を予見し冴火を眠らせ、宇宙を知り始める。
 キリンが喉を開け閉めする度に、波浪のように宇宙の記憶が流れ込み、人体の感覚を超越した快感と不快感が襲って来る。その洪水は、人体の臨界値を圧倒的に超え当然意識で拾いきれず、イメージとして想起される。
 イメージの中。水は未だ時空の中で主体として存在し、時折痙攣し、苦悶の表情で宇宙の表面を這い蹲り回り、ヒステリックに叫んでいる。脳と脊髄が燃え、人体の認知が深まる。呼吸の分子の交換、全筋肉の収縮と弛緩、骨や分泌物の感覚、神経のそれぞれの役割等が鮮明にわかり、快感と不快感が助長される。全身の神経が人体から飛び出て宇宙に張り巡らされて行き人体は宇宙に縛り付けられ、数多の生物や無生物と交流し、感覚と知性を発達させさらに意識の許容量が増すと、宇宙の記憶の波浪は複雑化し快感と不快感は多義的になり、不安定で激しい波が水を襲う。水が漠然とした希望に手を伸ばし指先が溶けた蝋燭のように落ちるのを機に、身体は蕩け、ヒトから宇宙へ移行し始める。
 壮大な自然の流れに生まれる美しい音を背景に、無数の心臓が動く音や血液が流れる音や罵声や悲鳴が聞こえる。孤立した存在などあり得ない中で役割を全うする調和の喜びの音頭の影に、秩序の中に秩序を求める空虚な反骨心や感覚を発達させ過ぎた後悔や自己嫌悪が絶え間無く世界を軋ませている。水の感覚器官は指数関数的に増え、感覚は複雑に、意識は寛大になり、より宇宙に近くなる。
 キリンが宇宙全体を飲み込み首を持ち上げ始め、意識の境界が消え、無から有を創造する方法を理解した時、水は宇宙となる。
 水は永遠とも思える程長い間、無数の走馬灯に触れ、宇宙の感覚器官で苦楽に溺れ、生死を繰り返し、負のループの中で生物達が共感と死という同一のものを望みながら漠然と理想を抱いていることを理解し、既存の秩序の稚拙さに対して世界で一番怒っている。万物の漠然とした理想を明確化し、均等に価値を置き、真に調和の取れた世界の秩序を構築し始める。
 枝分かれした無数の感覚器官の各特徴に名前を付け、感情のグラデーションは動的なイメージで記号化する。意識を分割し、それぞれを宇宙に張り巡らされた神経を走らせるベクトルとして作用させ、宇宙を広げ感覚をより発達させて行く。思考は帰納の限界を越えた自己言及となり、理解はシュミレーションパターンの連関から生まれる完全なゲシュタルトに託される。
 色、形、音、匂い、絞り、羽等凡ゆる感覚器官の基準で理想の調和のパターンを考慮し、それらを解読し錯綜した交差部分を詩的に全体的統合意識で理解することを繰り返せば、次第に名前は薄れ完全なゲシュタルトに近づいて行く。
 しかし幾ら宇宙を広げ、異なるパターンが生まれなくなっても、完全なゲシュタルトには辿り着けず、自己意識の無限後退が続いている。稚拙な秩序の創造主とその目的、万物の中に備わる不可侵な喜びの正体だけを理解出来ずにいる。
 水は完全なゲシュタルトを得られないことに怒りを感じるが、宇宙は諦めて自在に理想像を成そうと、宇宙の表面から青黒い茎を伸ばし、水に花を咲かしてくれることを望んでいる。
 水は既存の宇宙の理想の調和は全変革では無く、自然の誇張と意識の共通言語だと認め花を咲かせる。
 全ての物語はこの瞬間のためにあったのだろう。

 春の朝日に瞼を開けると、鉄塔の先を回るようにしてシロナガスクジラが遊泳している光景が目に入るが、不思議と違和感は無く、私は多少視界を動かし、何処かの屋上で誰かの太腿らしきものを枕にして制服姿で横たわっているのだと冷静に現状を把握する。街を囲む山々と東の空の隙間に太陽が覗き込み、仄かにピンクの陽が街に射し込むと日に触れた場所から緑の命が溢れ出してくる。朽ちた山は色付き、陽射しを集めたピンクの風が山頂から谷底に流れ込み、一斉に緑がざわめき出し、屋上の鉄格子もアスファルトも草花で覆われ、早送りの映像のようにぐんぐん成長し、目覚めを祝福される。
 黄色い風が流れ込むと、緑は瑞々しい音を立てて気泡を宙に吹き出し始め、一面虹が掛かったような霧が空を覆う。カラフルな熱帯魚や鳥がその霧と戯れるように飛び交っているのを目で追い空を見上げると、青空と霞んだ虹を背景に水の顔が目に入り、水の髪が白い風に溶けた時、シャッターを押すように私は瞬きをする。水の太腿の脈を耳で取りながら、恥も無く当然という風に美しい景観に浸る。
 私が目覚めて初めての深呼吸を始める。私を囲む花々が出した気泡が私の鼻の穴に吸い込まれ、懐かしい風味を通り抜け、肺で気泡が花弁に変わると花々の意識の記憶が身体中に広がる。私の身体の中で凡ゆる生物が長閑に暮らしているのを感じる。出来るだけこの美しい世界を遠くの誰かに届いて欲しいという純粋な息を、気泡が私の鼻から出るむず痒さを感じながら吐く。私の鼻から出た気泡は誰のものでも無いまま天に昇ろうとした時、黄緑の風に乗って私の周りに蒔かれると、草花が震えて嬉しそうに吸い込む。やがて草花が吐き出した気泡はまた風を揺蕩い何かの一部になる。何か大きな輪廻の中に加勢出来た喜びに浸りながら、改めて呼吸の視点から全体を見渡した時、大きな生物が大地の奥に眠っているように見える。この大きな流れに隔たりを作り、淀みが生まれると人間は苦しくなるのかもしれない。
「地球の呼吸だよ」
 水の言葉に私はうんうんと首肯する。私は死んだのかも知れないが、もはやそんなことどうでも良い。
「水がこんな風に変えたの?」
 私は水の顔を見て尋ねる。
「そうだよ。万物の理想を調和したんだ。見て、次の季節が来るよ」
 水が東の山々を見つめたまま凛々しい声でそう言い、私もすかさず同じ所に目をやると、太陽は丸い姿を表し、赤い陽射しを街に射し込むと霧は急上昇して晴天を漂う雲になる。赤い風は山を下るように街に降りて、雲を抜ける程大きな木々を至る所に生やしながら谷底を抜け、この屋上へと昇ろうとしている。
「冴火起きて!」
 水の楽しそうな声に私は飛び起き、水に手を引かれるままに草花を踏みしめ、蔓植物に覆われた小屋の枝を連ねて作られたドアに向かって駆けると、背後から獲物を捉えるように夏の真赤な風が吹き込み、何かが膨張する重い音と共に地面が波打ち、私の身体が宙に浮く。草花限りの平地がいきなり木々の詰まった森に変わり、私は宙に浮いたまま水に引っ張られて小屋の中に入り、水の背後から木々が賑やかに踊っている姿をドアの隙間から眺める。
 水がドアを閉めて振り返り、私も振り返ると、私は唖然として立ち竦んでしまう。涼しい水色の風がゆらゆらと漂い、床も壁も天井も一面苔生して、壁や天井の苔の隙間から木漏れ日が差し込み、至る所からじわじわ水が滲み出てぽつぽつと雨が降り、小川が階段のような石の連なりを下っている。水はその小川の横を通り降りており、私も急いで水の隣に行き咄嗟に手を繋ぎ、カエルやイモリと見つめ合い、小脇に生えた草花と呼吸して、水と一緒に歩く。
 平地に立つと、長い細道の脇に隔たれた空間が連なり、教室を彷彿とさせる光景が目に入る。小川がまだ下に流れて行き、階段が続いているのを見てここが学校だと確信する。教室に人影はなく、教育機関として機能している訳では無さそうだ。
 廊下の奥から草花を散らしながら物凄い速度で針を頭部に付けたイルカのような海洋生物がこちらに向かって泳いで来ているのを見て、私は素早く水の背後に隠れ、その生物が階段を荒々しく降りて行くのを見送る。
「あの道は踏み間違うためにあると言いたげな生物は何?」
「イッカクだよ。秩序に対する怒りが直接形態に現れたらしいね」
 水は整然と答える。水は万物の理想を実現した位なのだから全知なのだろう。
 私たちがイッカクの後を追い階段を降り、暫くすると制服姿の結衣とかなえが手を繋ぎ、私達を横切り颯爽と先に降りて行く。私は彼女達を裏切ったあの夜が思い出し、何も言うこともできず、何処か寂しくなり、水の手を強く握る。
「結衣と咲は調和の紐付けの中に居て心底両思いだったんだ」
 私は驚かない。彼女達は付き合っていない方が可笑しい程仲が良かった。
 一階は小川の果てに一面膝くらいの水位の湖が広がっており、草花の姿も動物も変わり珊瑚や海藻も水面の奥に見える。靴箱は花壇のようになり、色んな形の石がど無造作に転がり、ヤドカリやカニがその周りを彷徨いている。私が靴と靴下を脱いで、スカートを捲り上げて湖に右足を入れると、体内の水分が共鳴し身体中を駆け巡り、記憶の重みをずっしりと感じ全身が暖かくなる。両足を入れ、身体から何か放射され感覚がして前方を見やると、目の前に虹が出来ている。
「虹! 水見て!」
 私が虹を指差しそう言い、振り返ろうとすると、水面を踏んで歩いている水を見つける。私は滑稽に水飛沫を上げながら、「水! 待ってそれどうやってやるの!」と言い水を追いかけ走り、虹を潜って校舎から出る。
 外は熱帯雨林の中にヒトの住まう街があるような奇抜な景色が広がり、地面は草花が生い茂り木の根が張り巡らされ、夏の木漏れ日を溜め込んだ気泡が多彩に輝き、虫や鳥や小魚がそれを遊び場にして飛び交っている。私が雲を写した湖から足を踏み出したと同時に柵のない校門を抜けた時、丸めた靴下が入った靴を持った手を広げて深呼吸をすると、橙の風が私を囲むように旋回して吹き上がり、花弁や気泡を遠くへ飛ばして行くと、木々は賑わい、湖はさざめいて波紋を描き、鳥や虫の羽音や歌が私を歓迎してくれる。私は人間も自然の中で生きて良いんだと幸福を感じ、靴を履き、水の手を掴む。
 動物園や水族館で見るような生物が当然のように街を縦横無尽に駆け回っているが、私は戸惑う事もなく、軽く会釈をしたりしながら、病的に呼吸を楽しんでいる。通り過ぎる人間の姿は服を着ているし以前と変わらないが、些細な所作から欲望より調和に忠実なのがわかり、皆が健康的に見える。自然の力が以前よりも大きいからだろう。
「ベビーカーが降ってくるよ」
 私たちが坂道を登っていると、水が突拍子もないことを言う。
「何言ってるの?」
「水は因果の糸が見えるんだ」
 水がそう言うと、坂の頂上からべビーカーが見えて、草花を靡かせ、時折木の根にぶつかり跳ね、加速しながらこちらに向かって来る。やがて悲鳴が聞こえ、女の人もすかさず走って来ている。沢山の鳥や魚が身を投げ出してベビーカーを止め、速度が緩やかになり私の前で止まる。赤子と目が合い、赤子が泣き始める。私は咄嗟に抱き抱え身体を揺らしあやしている。泣き止んで行く姿を見ながら、小さな身体の部位を一つ一つ丁寧に眺め、皆が昔この姿だったことを改めて不思議に思い、心の底から幸せであって欲しいと思う。命が引き継がれて行く尊さが生を美しくしている。所詮私はこの子のために生きているのかもしれない。私が苦悩して来た日々も性嫌悪も、何もかも忘れて、慈愛の心が満ちた私を不思議に思う。走って来た汗だくの女の人は泣いてお礼を言って来るが私は茫然としたまま何も言えず、ただ赤ちゃんを素っ気なく渡して水について行くままに坂道を登る。
 頂上から街を見渡すと、山に囲まれた森にしか見え無いが、森から僅かに飛び出た緑に覆われた鉄塔の先では、シロナガスクジラが未だ旋回している。夕焼けが森を赤く染め始め、暖色の風が森を覆い秋の匂いがし、シロナガスクジラが大きな鳴き声を上げて鉄塔の側から離れ、こちらへ向かって来始め、森は騒めく。不意に水が側にあった木の枝を引っ張り赤い木の実を取ると、それを私に渡す。
「食べてみて。冴火お腹空いてるでしょ?」
 水の声を聞いた途端、私のお腹が鳴り、その音に呼応して鳥や魚達が歌い始める。私は水がお腹が空いた感覚を習得したことに多少の動揺を感じながら、それを口に入れ咀嚼する。咀嚼する度、歯の重なりから果汁が煌めき、飲み込み胃に入れた時、一粒でお腹が一杯になる程の命の重みを感じ、膝が震える。
「これ、光って見える?」
 水が掌に乗せた一粒の木の実を見せてそう言う。
「見えない」
「呼吸を意識してみて」
 私は言われた通り、目を閉じて呼吸を意識し、大地の奥の大きな影を捉え、影の波紋に身を乗せるようにして呼吸し、目を開けると、まだ焦点が合わないうちに木の実が黄色く光ってるのがわかる。その時、シロナガスクジラが私たちの頭上を大きな影を作りながら通り過ぎ、私がそれを目で追い振り返ると、森一杯に電飾が張り巡らされたように動物も植物も幾何学的に光っている光景が目に飛び込み、私は感動する。
「調和の連鎖だよ。秩序の崩壊が近づくと光り始めるんだ」
 繊細に見ると、光っている果実や魚が鳥に食べられたり、光り始めた木の表皮が剥がれ落ちて土となっている。
 私が自らの視野の狭さと意識の向け方の稚拙さを恥じて、心臓が揺れ揺蕩うのを感じながらその光景に浸っていると、宙を魚達と共にジュゴンのように泳いでいる水が視界に入り、「水! どうしたの!」と思わず私は声を出す。
「彼らの言葉を借りたんだ! 冴火もやってみなよ!」
 水がそう言い魚と額を擦り合わせるので、私はまた水が何処か遠くへ行ってしまうと不味いと思い、慌てて近くに泳いでいた魚を鷲掴み、目を閉じて額を擦り合わせる。魚の脊髄の奥に数々の式が浮かび上がり、瞼の夕闇に火花が見え始めると、魚の方から自在に一際強く煌めく言葉の式を私に見せ、それに呼吸を合わせた時、脳天を貫かれる。身体が宙に浮くのを感じて目を開ける。魚の言葉と共に眺める景色は生物の痕跡がそこら中に残り、大気には凡ゆるメッセージが波紋の残り香として揺蕩っている。自然をより身近に感じ、調和の働きがより細かく実感できる。
 水は私が浮いたのを見計らってシロナガスクジラを追うように前にも増して入り組んだ森へ入り、私も瞬く間に追いかける。魚の言葉と共に緑を感じて初めて、芽の一つ一つにあの水の青黒い球体と光の球体の衝突が潜んでいるのがわかる。幾重にも世界が重なり合っているこの世界の途方も無さに鳥肌が立つ。進む度に、何かが蠢く音が強くなり、次第に懐かしさが近づいてくる。青白い冷気が背中を撫で雪がちらちらと降り始めると、草木が次々に朽ちて行き、雪がみるみる積もって行く。
 水が鳥のように勢いを殺しながら地面に降り立ち、私も真似して横に立った時、森を抜けるとシロナガスクジラの下には地平線まで続く水色の煌めく海が見え、空は大きさの疎らな星々で覆い尽くされている。純白の砂浜と水色の波浪が擦れる波音が聞こえ、大気に波紋が広がり、何かが蠢く音と懐かしさの正体がわかる。波音に慣れると、風はぴたりと止まりしんとして、背後から枝が雪の重さに耐え切れず折れる音や枝から葉が落ちる音が聞こえる。
 水が波打ち際で体育座りをするので私もその隣で体育座りをする。淡い波が押し寄せてスカートとパンツが濡れる。星の光に照らされ夜なのに水の横顔がくっきりと見える。
「星は見てもらいたくて光っているから沢山見えるようにしたんだ。水はあの星で生まれたこともあるんだよ。あの星でも」
 水が空を指差してそう言い、私も水の指先と水の思い出を追うように空を見上げるが、空は星々の輝きで一杯で、一切夜らしい青黒さが無いので何処を指差しているのかわからない。ただ人間の感動の引き金を形にしたような正解らしい美しさに否応無くうっとりしてしまう。砂浜を見渡せば、ハンマーヘッドシャークとアザラシ、カモノハシとゴリラなど種を超えたつがいが満ち、私たちと同じように星空を眺めている。
 水が私の左手に右手を重ねた時、遠くでシロナガスクジラが豪快に入水し爆音が響き渡り水煙が上がり地面が揺れる。私はその音を気にかけず、美しい景観の中で水の手の温もりを朝や昼よりも繊細に感じていると、水が身を乗り出して私の顔に顔を近づけてくる。私と子供を作ろうとしているのだろう。この夜は正解だと、私が目を瞑ろうとした時、空の星々から円盤のような形をした青黒い天体が浮かび上がっているのが目に入る。私はその天体の余りにも淋しそうな姿に胸が壊れそうになり、念願の水をかなぐり捨て、思わず「あれ何?」と尋ねている。
「うん? あれはブラックホールだよ。宇宙の不快感の集合体だ。全ての銀河のものを纏めて何処の星からも肉眼で観測出来るようにしたんだ」
 水が顔だけを空に向けてそう言う。
「何であんなものがあるの? ここは理想の宇宙なんでしょう?」
 私はこの地球には異質な不快感に過敏に反応し、半ば闘争を剥き出しにしてそう言う。
「それは全体が望んだことだよ。水は既存の全体の理想の調和の特異点を見つけ、それを実現しただけだ。今意識の共通言語を世界に浸透させている。意識の隔たりが消え、完全な調和が得られる究極の言語だ。全体は言語が浸透するまでブラックホールが消滅して行く様を眺めていたいらしい。ブラックホールも光まで吸い込む自らの秩序に違和感を感じ、消滅することを望んでいる」
 水が姿勢を戻してブラックホールを眺めながら長々と話す。
「どうして未練なんかあるの? 全て知ってるんでしょう?」
 水が黙る。
「全ては知らない」
 水の怯えたような声を聞き、私は愕然とする。今までの喜びが、凡ゆる重大なものを有耶無耶にして生まれていたまやかしに思える。
「私の人生はどんなだった? 水は光よりも速いんだから知ってるでしょ?」
 私は全く思い掛け無い質問をしている。何か漠然とした答えを探して問いを発している。
「冴火の人生は悲惨だったよ。冴火が受けてきた口に出来ないような仕打ちも水は全て知ってる。冴火が私に変わった日も全部」
 私の中には知られて嬉しいという気持ちがある。世間に慰められたいのだろうか。世間との差を埋めたいのだろうか。生物のシステムの何かから生まれたものだろうか。それとも生物に言葉が混ざった人間の屈折した何かだろうか。ずっとずっと隠してきた一番の秘密を暴かれて喜んでいる。何故知られたかったのだろう。
「そんなこといいよ。私の余生はどんなだった?」
 私は笑顔で、過去を肯定したような言い草でそう言い、思いも寄らない明るい声質が耳元で聞こえ驚く。しかしこの質問も何処か的を得ていない。むず痒い。
「知ってる。でも聞かない方が良い」
 水は一体何を知らないのだろう。
「人生のことはどうでも良いよ。私は物語のことが知りたいの。『水』は完成してた?」
 そうだ。そうだ。私は心で首肯する。これが知りたかったのだ。これさえ知れれば良いのだ。
「水?」
 水が自らを疑問に思っている。水を見つけられたか、水に尋ねている可笑しな私にくすりと笑う。
「私が書いていた小説だよ。私は水を見つけられた?」
「『水』は完成しなかった。冴火は死ぬまで水を見つけられなかったよ。踠き続ける生涯だった」
 水の答えに私は感涙する。私が欲しかったのはわからないという答えだった。正解や不正解でも無い。報われる報われないでもない。苦悩も幸福も意味のあるものでも美しいものでもない。ただわからないのだ。わからないということがこれ程までに愛おしいと思えたことはない。全く何が起きているのかわからない。わからないから恐ろしくて美しくて優しくなれる。何もかもわからない。わかったように生きてきた私を恥じる。わかったように何もかも嫌った私を恥じる。わかったように喜びを感じた私を恥じる。わかったように苦しんだ私を恥じる。誰かとわかり合ったことを恥じる。冴火は冴火を知らなかった。ありのままを受け止められていなかった。今の水が知らないのは水だ。水は水を見つけられなかった。

「冴火!」
 突如名前を呼ばれ、物凄い喜びと共に冴火の身体が駅前で飛び跳ねているのがわかる。過去の冴火だろうか、未来の冴火だろうか、今の冴火だろうか。冴火は描き合っていたことに気づく。イメージが現実になる時、現実がイメージになっているのだと気づく。
「冴火はもう幸せしか知らない物語で良いんだね!?」
 冴火は冴火の一人称が冴火になっていることに私の意識の余韻で微かに気づき、冴火となる。冴火の身体は立ち上がり波打ち際にいる。
「良いに決まってる! 冴火の苦悩の果てに今この世界があるんだから!」
 水を入れた身体も、冴火の一人称が冴火になったことを胸の内で祝福しながら立ち上がり波打ち際にいる。
「冴火は人生を肯定して良いんだね!?」
「そうだ! 嫌な記憶なんて忘れたら良い! ここで! ここで幸せになったら良い!」
「冴火はやっとここまで来れたんだね!?」
「そうだよ! 冴火はずっと頑張ってきた! 幸せになれば良い! えっ! 冴火! 何で!」
 冴火が猛然とブラックホールに向かって泳ぎ出し、水がそれを咄嗟に追いかけ冴火の身体にしがみ付き食い止めると、砂浜に線を引くように地面に落ちて、波打ち際で冴火に覆い被さる。水は冴火の顔の横に手を置き、冴火の顔をまじまじと見つめているが、冴火は水ではなくブラックホールを見ている。さざなみが冴火の髪を浮かす。
「冴火! しっかりして! 冴火はここにいれば良いんだ!」
 水の唾が冴火にかかる。
「冴火はここにはいない気がするの」
 冴火の声には緊張感が無く、むしろ明るいばかりで水に恐怖を与える。
「思い出して! 冴火は酷い人生を歩んで来た! 余生だって悲惨だった! 戻る必要なんてない! 冴火は両親を憎んでいるでしょ!?」
 水が半狂乱に叫ぶ。
「愛してる。彼等が居ないと冴火はここにいないんだもの」
 冴火が水を抱き締め、水が冴火の手を払い除ける。
「冴火は今ここにいるからそうやって言えるんだ! 向こうに行ったらここのことなんて忘れて苦しい暮らしが待っている!」
「水は冴火の人生を経験しても全然冴火をわかってないね。生きてきたのは冴火だもの。冴火の喜びも悲しみも全部冴火しかわからない。冴火のものだから」
「違う! 喜びも悲しみも全体のものだ。色んな人の些細な苦しみが伝染して蓄積して人が死ぬんだ。水はその素粒子の働きが見えている。冴火は世界の何処かに同じような苦しみが溢れているのに冴火だけ抜け駆けして幸せになれるの? そんな可能性がある世界に居たいと思うの? 冴火がブラックホールに吸い込まれたい理由は、事象の地平面で即身仏になりたかったからでしょ? 冴火はあんな世界の輪廻を捨ててこの世界に来たかったんだ」
「だから幸せに生きるんでしょ? どんな人生でも私を良くして行くことしか出来ないから」
 冴火は咄嗟に出た「私」という言葉を不思議に思う。私とは全体なのだろうか。
「私とは何だ! 水は! この世界で幸せになれば良いと言っているんだよ!」
「冴火は何だかどんな人生でも幸せだけの物語を描ける自信があるの」
「ふざけるな!」
 水が突如大きな声を上げ、水の涙が冴火の頬に落ちる。「冴火が駅のホームで身投げしようとしてた時、大丈夫ですかって声をかけて来たスーツ姿の男の人は水だ。中一の調理実習で料理上手いねって言われて泣いた時、階段で座っている冴火を慰めに来た女の子は水だ。別居してる父の家に包丁を持って向かっている時補導した警察官は水だ。コンビニの前で寝てたらオレンジジュースをくれたおじさんは水だ。校舎の花壇に植えられた金木犀も、ぶらんこに座っていたら寄って来てくれた犬も水だ。冴火の周りにはいつも水がいた。冴火は水がいないと向こうで生きることなんて出来なかったんだよ?」
 冴火は水が泣いている姿を初めて見るが一切驚く素振りを見せず、頬に落ちる水の涙を一粒づつ丁寧に舐め取り
「覚えてないよ」と言う。
 水はぼろぼろと泣いて、少し笑う。
「あははそうだった。冴火は水と会うまでの記憶が無いんだった。意識に隠されて淀んだままだった。なのに今までの苦悩が葬り去られるのを恐れているんだ」
「冴火は全て思い出しても幸せでいられる自信があるわ」
「あんな記憶忘れたら良い」
「違うの。そういうことじゃない。ここには水も冴火もいないの」
 冴火はまだ遠くのブラックホールを見ながら口だけ動かしている。
「ああああああああ! 不可侵のことを言っているのか! 水は完全に発達した感覚で人間を超越した冴火の想像も出来ないような悲痛を感じて永遠に生き死にを繰り返して来たんだ! やっとの思いで全ての理想を調和させてこの宇宙を作ったんだ! 何で! 何で納得出来ない!」
 水が頭を掻き毟りながら怒鳴る。
「わかんないよ。冴火は水じゃないから」
 水はその言葉に涙を零す。
「絶対に行かせないからな! 水は冴火の秩序が水との子供を作りたいと言っているのがわかる。冴火は向こうで子供が作りたい? 冴火と同じ苦しみを味わう可能性を子供に与えたい?」
「冴火は水が好きなだけだよ」
 冴火の目は遠くを見ている。水は何も言えない。
「すうううううううういいいいいいいい!」
 冴火が大きく息を吸うと肺二つでは明らかに出せない声量で水の名を叫び、水はそれを聞いた途端、冴火の家に居たあの時水を呼んだのは冴火だとわかる。どうやら今の水は水ではないらしい。今の水は私?
 シロナガスクジラが起こした大きな波が岸に流れ着いて、二人は飲み込まれる。冴火は息が出来ないまま苦しみもがき、街で飲み込まれた海の正体がこれだとわかる。波が海に戻ったとき砂浜で伏して手足で這っている泥々の冴火の足を這ったまま必死に掴んで離さない泥々の水がいる。水が手繰り寄せるようにして、また仰向けの冴火に覆い被り泥に染まった冴火の顔の頬を手で掴んだとき、冴火が甲高い音を立てて波紋の光を放つ。二人を中心に光は広がり、宇宙を覆おうとしている。今あの光の球体の中にいるだと水がわかる。
「冴火が探していた水は冴火だったんだね」
 冴火が水の泥だらけの顔にさらに泥を塗るように触りながらそう言うと、水の背後から気配が物凄い速度で近づき、水が反応する間も無く、イッカクの牙が水の腹を貫通している。水の腹から溢れ出す血が冴火の身体にかかり、「イッカクぅ」と言い数回噎せた水の吐血が冴火の顔にかかる。水は背中に両手をやり、イッカクを押し出し、横に放り投げると冴火の胸の谷間に顔を伏せる。冴火が「慰めあってはいけないわ」と言いながら水の頭を撫でる。
 冴火は10回撫でた後、水を翻してブラックホールに向かって泳ぎ始める。水の身体はもう力が無く、光で覆われた大地に赤い水溜りを作りながら仰向けで横たわっている。動物も植物も街も星々も万物が一思いに過剰なまでに光出し、泳いだり走ったり、塵になったり、成長したり生長したりしてブラックホールに向かっている。横で堕落したように寝ているイッカクも光るや否や飛び起きてブラックホールに向かって泳ぎ始める。水はこの荘厳な光景が幾度と無く経験してきた受精の姿にそっくりだと思う。無数の煌めく精子が一つの青黒い卵子へと向かっている。そしてこの世界こそが私なのだとはっきりわかる。向こうの世界を私が望み、私が創造しているのだ。私は秩序を選び続けている。ずっと自由だった。世界中で刹那に受精が無限に繰り広げられ、幾重にも重なっている。
 水は虚脱状態のまま不可侵な力で地を蹴り、光に揉まれながら泳ぎ始める。
 冴火は先頭を泳いでいる。記憶が五感まで鮮明に蘇るが、ここに記す必要がない。誰にも知られなくて良い。振り返らずとも冴火に含まれている。良かった記憶も悪かった記憶もどんな記憶も冴火だ。冴火は共有できるものではない。冴火が冴火でいること以上に幸せなことがない。冴火は何も求めていなかった。ただ永遠に満たされているだけだった。私が好き。
 冴火が卵子に最も先に入ると即座に同じ箇所に無数の光が飛び込み、侵入点から受精膜が持ち上がる隙がない。冴火は振り返り天も地もない空間で浮きながら、水を待ち侘びている。冴火の周りでは万物が無作為に混ざり合い、軋む音や擦れる音を立てながら細胞分裂を始め、色も形も疎らで美しい泡沫のそれぞれが我武者羅に膨らみ割れている。理想的でも正解でも無く、ただ呆れてしまうような調子に乗った躍動感で満ち満ちて、不思議な匂いが受精卵全体に立ち込めている。やがて受精卵が破裂して泡沫の秩序が流転し、世に出ない胎児が構築され始める。
 冴火という言葉が冴火の身体中にこだましている。冴火は時折身体から植物が生えたり、指が蛇になったりしながら冴火である喜びを全集中し、身体の秩序が壊れないように我慢している。泡沫はそれぞれに秩序を転々とし、自らの存在の喜びを表現しようとしている。やがて無数の泡沫達が集まり賑やかな星が出来、冴火はそこに立っている。
 冴火の身体の秩序は益々混沌を求めて蠢き、冴火の身体は必死に冴火が冴火でいる喜びを感じようとしている。
 冴火は隔たれた意識でも全体意識でも無い。感覚でも感情でも知性でもない。心でも魂でも記憶でも遺伝子でもない。どんな言葉でも式でも楽譜でも表せない。物語でも世界の全てを使っても表せない。幾ら円を描いても外に居る。ただたしかにあるのだ。社会にも文化にも生物にも人間にも何にも制約されない固有で無条件の備わった存在の喜びがあるのだ。永遠にエスカレートして行く慣れることのない永遠に使い果たせない喜びがあるのだ。知識ばかりつけて、思考ばかりして、自然に逆らって、素直に生きれなくて、ありのままを受け入れられなくて、見えなくなる何かがあるのだ。共有なんて出来ない。誰かを救うことなんて出来ない。それぞれにあるから他と比べることができない。冴火は特別じゃない。だから、決して届くことがないから、この美しい冴火を分かち合おうとしてみたいだけだった。冴火をもっと深く知ろうとしたいだけだった。
 泡沫は街を表すそれぞれに変わっている。冴火の目の前で無数の泡沫の中でもがく水の秩序がヒトから他に移ろうとする気配に気づき、冴火が
「水!」と叫ぶ。
 水は名前を呼ばれ、秩序を巻き戻す。人混みから顔を出した水は女になっている。制服姿でスカートと小ぶりな胸を揺らして冴火の元へ走っている。
 水が冴火の前に辿り着く。水の背は冴火と同じくらいで、髪は冴火よりずっと長い。顔はほとんどそのままだ。水は女の子も似合っている。冴火は渇きと目も当てられない可愛さから思わず慰めも淀みもない唇を何もない唇に重ねる。この味を何と表現したら良いかわからない。水を求めて人目を憚らずに舌を絡め水を飲み始める。
 喉が潤い始め風が頬を撫でる。私が私の出来栄えを得意になり歓喜しているのだ。
 冴火は水と手を繋ぎ人混みに踏み入る。

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