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9/11〜13

ブラフマンとパラマートマの波と海の関係を体験する、という言葉は、わからないようでわかる意識で、前よりも、わかるが増えた。ブラフマンは、神のことで、海で、全体で、怒りや抵抗を解き、サットヴァによる調和や平穏の解放。パー、と世界が開けていくイメージ。パラマートマは、波で、至高の魂で、この魂として、定められた運命や摂理を許容し、積極的に生きる物質的な姿を固定する立場のことで、これは一点集中で、逆に怠惰や悲しみを破壊し、消極的な心を振り払うラジャスの解放。ブラフマンを引き出そうとする意識ばかりが、現代では問われて、パラマートマの質、純粋な解放について語られることは少ない。ブラフマンの意識は許容で、それはストレスフリーの環境では、身体のみが試練となるので比較的、パラマートマの必要性は下がってくる。しかし、ブラフマンの勢いを高めれば高まるほど、エネルギー、つまり許容する情報が増えていき、解放が難しくなっていき、集中力の薄まりによって、欲求を抑えて消極的な心は高まりやすくなる。そこに環境的なストレスを加えると、エネルギーを許容し切れず、怒りや悲しみ、怠惰、といった、悪循環に入る解放をしてしまう。瞑想はある意味、座るというパラマートマを持ち、ブラフマンへと潜っていく集中をするので、この循環を一元で管理できる方法ではある。ただ、初期の段階ではこのバランスを取ることは難しい。まず、ハタヨーガをして身体を鍛える、つまり身体的なパラマートマの部分を高めて、瞑想に入る。そしてこの波は、生活の中でも、使われる、活動と休息の波のコントロールが上手くなればなるほどキレが生まれる。その波を、ラジャスとタマスの循環と考えて、その広がりをサットヴァと考えていたが、タマスと呼ばれるのは陰の解放と捉えて良いと思う。良いタマスというのは、集中力を補うための休息であって、そことサットヴァ的な解放が、繋がってると感じる。休息をする意識そのものが集中力となり、サットヴァへと進めているということか。なるほど!つまり、破壊的な集中よりも、休息的な集中から始めた方が効率が良いということ、自分は弱いから勝てると、顎に自信がないんですよ、だから勝てる、僕はパンチがない、だから手数で勝負する、だから勝てる、とボクサーが言ってた。手数で勝負するとは、初めは集中力の振幅の波が狭いことを自覚して、細かく切り替えることだと思う。集中作業と単純作業を繰り返すと効率が良いのも同じ、善悪のような身体の感覚から描く幻想も元はといえば、この波に正確に対処できなかったことにある。つまりは、どちらからでも解放できて、それは集中力を身体の波に合わせながら高めるという、持続的な姿。はー納得気持ちいい。調べる、と、わかるも、この波。わかる、の上があるね。思考は累進的だから、進んでいきわかればわかるほどに、わからないことが増える。ヨーガの人たちは振幅を小さくして、限りなく小さな波があるけど、遠目では一本線、になることを目指す。これは微細な意識操作ができて、そこで生まれるものであって、おそらく最初は振幅を高める中に集中を持ち、その流れを乗りこなしていき、モテたり活発に物質的な成果を出した、そして老いとの戦いの中で、その一本線へと落ち着いていったのだと思う。年老いても、筋肉があって性欲が強い、年老いても色気があって活発、この振幅が強い中での集中をしている方が私は目指したいと思った。陽の解放について考える。言葉や外の世界は、内側の力を引き出す引き金になるだけで、内側の力を引き出すその意識操作を学ぶことを中心として、外を補助輪として利用する積極的な立場をとらないと、外部の必要性や価値はますます高まり、依存や渇望へと変わる。体内での意識操作を完成させていかないと、宇宙が外から調整を図ろうとしてくる。進むことを止めると、嫌なことが重なって起きたりする。運、や太い道の中の細い道を間違える、というのはこの現象と思う。この姿に対する積極的な態度として、ヨーガの人は、社会的な価値を捨てていき、1人で修行に励み、サットヴァなバイブレーションを満たすことで宇宙に尽くそうとした。私は、その積極面もリスペクトできるが、振幅を高く保ち物質的な成果を出しながら、社会的な価値を持ち、表面的にも根源的にもサットヴァなバイブレーションで満たす方が、ユーモアや芸術のセンスが磨かれて進みたいと思った。芸術家やスポーツや会社経営など、ヨーガではないが、ヨーガのような道は、こちら側で行われている。芸術家が、自分の好きな表現と社会的な価値との間で葛藤を持つのは、ヨーガの道かヨーガの本質を持つ物質的な道か、その意識について許容できていないからだと思う。老いとの戦いになるほどに個人的な価値は高まってくるから、気長に生きるのが良い。はー、嬉しい、言い得て嬉しい。知的な面に生存能力見て興奮する女性的な意識を自分の中に見出す中性的意識で、幸せ〜。ラジャスとタマスの循環を、破壊的集中と、休息的集中と呼んで、その原理について考える。宇宙には、秩序があれば壊れる方向に働くエントロピー増大の法則があり、生命体は自らの細胞を破壊してそのまま自然物と入れ替えて、と自らを破壊することで持続的に姿を保つ雲のような存在、この破壊と補充が代謝で、その代謝をエネルギーとして活動を行う。つまり、破壊と補充のレベルを上げることで、エネルギーは高まる。生物と無生物の調和、ガイア理論や全体意識がそこに見えてきて、この生命体を形作る魂と、本質として見える全体意識が浮き彫りになる。それが物質に限らず、プラーナ、素粒子レベルの世界観で行われており、その極地を極めていくことがヨーガだと思う。つまり、破壊的集中は、自らを破壊すること、そして休息的集中は、全体意識で補充すること。わかりやすく考えることができるようになってきてて、賢い人間な気がしてきた!これは多分身体を鍛えて、意識操作を磨き始めてるから。怒りは、外部を破壊する意識で、恐怖は、内部を破壊されることを回避し、外部を破壊する行為を促進する意識、悲しみは恐怖や試練に負けて内部を破壊されることを予見し消極的に自己を破壊し摂理に対して拗ねる意識とか、恐怖に対する積極的な意識は、ワクワクや狂気や許容など沢山ある、と思う、これは無数にある、性や感情や人間的な摂理の次元ではなく、宇宙の中の物質としても沢山ある、その中で積極的な意識を導き出していき、そこに催眠を当てていき、内的な意識操作を学んでいく、これが精神治療だし、極めていくことがヨーガ、その催眠から、積極的な、破壊的集中や休息的な集中が引き出されていく。私は催眠や内側の意識操作を抜いて、行動だけ破壊的集中や休息的集中を目指した。これは催眠が弱く意識操作に焦点を当ててないから、拒絶に塗れたものになった。脳神経には無数の01が広がっていて1つではない、ゆっくりと0を1に波紋状に広がるように起こして、流れるように身体をすんなり運ぶ。腕を描く時に、手を先に配置して、腕のラインを入れる、まず遠い視点から結果を見つけて、そこに引き寄せられるように線を引く、深くて短い次元でも行う、点が遠いと、そこまでの線の引き方がわからず迷うようになる、だから、濃くなくて淡い点を沢山入れる、どんどん近い結果にも点を入れる、こういう意識操作を心の奥では欲しくてわかっていた。自分が欲しい情報は自分で見つけるしかないと深まれば深まるほど感じる。人は本当の意味で教えたくはなく、一人でに進むことを臨む人には、ヒントに感じられる、この情報に必要性を感じる運命なら。死んだ時、知識や蓄えてきた意識が来世に引き継がれないことは寂しい、DNAや進化はその魂の性質の、物質的な姿に思える。カルマは、前世で蓄えた情報の学習レベルにまで素早く引き上げるためのモードのように感じる。似た試練や気づきを与えて、同じ所に辿り着かせて、そこからプラスへと。過酷なカルマほど、前世での情報量が多かった、ということと思う、どうりで。兄には、成果がないと言われる。たしかにわかる。とても抵抗を示してしまうけれど、無意識が欲しい言葉だからなのだと思う。自分を野放しにしてもすること、してしまうこと、うさぎの跳ね方、顔の掻き方、それくらい生活と同化した個性。そのことでコミュニケーションが取れて、許容し合い高め合えて、生活ができて、外敵からも身を守って、と原始時代のコミュニティのような所で、ずっと一つ上を目指していって、成長している意識を感じる、それが幸せな暮らしだと思う。点や目標を描くのではなく、掃除をしていくという観点は、結局良い暮らしを作っていく果てに、幸せがあるからだと思う。結局、人生修行しかないのか、と考えてしまう理由はこの、掃除が最も幸福へと進む道だからだと思う。外や環境の掃除をしようとすると、とても上手くいかない、なぜ、と周りを比較して感じる、本当に難しい、それを許容する、そういう宇宙の仕組みだから、面白いと言える。だから内側や身の回りの物から始める。丁寧に扱う、丁寧に生きる。ふと、重くなる感じがしたら、目をつぶって意識操作ですぐに向き合う。生じた物をすぐに掃除する。催眠と同じように、言葉だけでなく、所作によっても導くことができると感じた、それが舞踏のようで、踊りの元になってると感じる。美術してる人は丁寧だから、その丁寧な感じ知りたくて、デッサンをYouTubeみて調べてる。私は色々やって、社会から見ればずるい人、掃除の仕方をもっと知りたい、それだけ、貪欲、それだけ。掃除から人間関係や万物とのコミュニケーションが広がる、その内から外の爆発のような波がいつか、来る。なぜなら、カルマが寂しい時期を用意したから。

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