人に酒を飲ませる猿と、自由の相互承認について。2024/02/28

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この世には、人に酒を飲ませるということをする人間がいる。全くもって意味が分からない。そんなことを思って、自分は一体こういう人種の何に腹を立て、憤りを感じ、忌み嫌っているのか。ちょっと考えてみようかなと思う。

無論、自分は人に飲酒を強要したことなど、断じてない。べつにお酒は飲むし、お酒に弱い人間ではないので、自分は飲むが相手は飲まない、というケースもいくらでもあった。それでもその相手に飲んでほしいと思ったこともないし、ましてや飲めなんて言ったことも思ったこともない。というか、それが自分には普通すぎて、これ以外の選択肢がないというのが実際のところ。その人が飲まない、飲みたくないと言っているのに、それを無視して飲むことを押しつけたりなんて、正直言って正常な人間がすることではない。

だが、この世にはその正常な人間に当てはまらない人種の人が確かに存在している。飲むことは当たり前だ、というような昭和的な古い人間、ということではない。自分のいうそういう人種というのは、お酒は飲んで当たり前という文化の元で生きている人というわけではなく、なんというか、もっと個人的な価値観に起因していて、配慮のないエゴを押し付け、他人の自由を尊重せず、非常に自己中心的な動機によって、お酒に関するステータスを誇示することで力を得た気になり、集団の秩序を間違った方向へ引っ張る、そんな人種のことだ。

自分から言わせてみれば、本当にこういう人は猿となんら変わりない。何が変わりないかって、一言で言えば、集団における自己アピールの仕方。酒豪だかなんだか知らないが、お酒に強いという自分のステータスが活かされる場だからそこでだけ威張って、そのときだけ自分が一番なんだという錯覚に陥り、そこから生じるエゴに周りを巻き込み、なんだか分からないうちに自己陶酔を始める。
これはもう、集団内で自分の長所をアピールして地位を確立しようとするそなへんの猿のような群れをなす動物とやっていることは全く同じ。胸を力強くドラミングして自分の魅力を周囲にアピールするゴリラと、お酒がよく飲めるのをいいことにそれを他者に強要してそこでの比較から自分をアピールする人と、何が違うというんだろうか。

社会性をもつ生き物である人間として、やはりこの行動は正常ではない。このことについて考えているとき、行き着いたのは「自由の相互承認」という概念だった。この猿どもの何に自分は腹を立てているのか、それは、その場が飲み会であれなんであれ、同時に多数の人が集う場において、自分以外の人間にもあって当然である自由を尊重しようとしていない、自分の自由ばかりを押し通し、他人の自由を認めようとしていないその態度、そこに引っかかりを感じ、そういう猿に対して存在すらも許せないほどの憤りをおぼえているんだなという結論に至った。

この令和の時代の大きな特徴に、個人的な事情への配慮が非常に強くなっているということがあると思う。例えば性別のこともそう、身体障害のこともそう、家庭環境のこともそう。そういった個人的な事情にいかに社会は応えていけるか、ということにかなり敏感になっているように思う。しかし自分は個人的には、全面的にこの風潮を推しているというわけではなくて、むしろそういった配慮の行き過ぎは新たな問題を生み、どこかでまた必ず犠牲になってくる個人が現れるようになる、と考えている。だから、色んな立場の人が誰も取り残されないようにするには、どこまで個人に配慮して、そしてどこまで社会全体のことも考えて、というバランスが重要になってくると思っている。

そして、そんなときに一番してはいけないことが、二項対立的に物事を考え、どちらがいい、悪い、という価値付けをしてしまうこと。多数決などもそうだが、色んな立場がある以上、世の中でそれに白黒はっきりつく、ということなどありはしない。それなのに、自分の考えを正義だと思い、それを主義主張として押し通そうとして自分とは異なるものを排除しようとする態度は、社会にとって害でしかないと思う。どの立場の人も取り残されないように、すべての立場の人が共通理解可能な妥協点を探していくことが、理想論に聞こえるかもしれないが、それをしようとしていく姿勢がまず必要。

そして、これは今回の話である飲み会でも十分に当てはまること。先ほどからあげている猿たちはまさに、お酒を飲む、飲まないの二項対立において、飲むということが正義だと思い込み、それを他人に強要している。個人的な事情に配慮しすぎるのは社会にとってよくないこともあるとは言ったが、お酒を飲む飲まないなんて個人の自由でしかないし、飲もうが飲むまいがそれが全体に及ぼす影響なんてたかが知れている。そこで飲まないを選択したことが集団にマイナスな影響を与えるなんていうのは、お酒を飲むということでしか繋がれない程度のうすっぺらい集団でしかないんだとでも言うしかない。そんな繋がりにはべつに価値なんてないし、そういう付き合いだとは言っても、それに自己犠牲を払う必要なんてどこにもない。

飲む、飲まないの二択にしても、その選択の背景には色んなものがある。今日は少し酔って話したいこともあるから飲みたい、単純にお酒が好きだから飲みたい、また、いつもは飲むが今日は気分じゃないから飲まない、ダイエット中でお酒は控えているから飲まない、など。この、飲む飲まないの選択にある背景に、個人的な配慮を必要としないものなんて1つも存在しない。

それなのに、明確な個人的背景、理由があるのに、それに見向きもせず、お酒を飲まないことを「面白くない」などというクソみたいな主観的な理由で否定し、誰にでもあるはずの選択の自由を認めず、飲むことを強要する、この猿と同等の生き物。はっきり言って、めちゃくちゃ嫌い。悪いけど、本当に嫌い。自分が直接的な害を被ったわけじゃなくても、そういう人間が少なくともいるということや、自分の大切な人の周りにそれがいて、その人に害を及ぼすかもしれない可能性を考えるだけでむしゃくしゃする。

その猿の自由は認めないの?という声もあるかもしれないが、勘違いしないで欲しいのは、自由ならなんでもしてもいいなんていうのは大間違いだということ。まずその猿の行為は、周りの他人の自由を侵害している。その時点で民主主義的にアウトだし、是正されて然るべきといえる。

人にお酒を飲ませたくてそうやってんのは勝手だけど、てめえはお酒に強いからっていう事情があるだけで、それによって迷惑被るのはおまえのエゴで飲まされた人であるってことを考えろよ。酒強けりゃ偉い、飲めりゃ飲めるだけ偉いみたいなわけわからん主観的なモノサシで人を見るその腐った価値観を叩き直して出直してこい浅はかな自己中心主義が。

※何かそういうことがあったのかと思われるかもしれませんがそういうわけではありません。ご心配なく。ただ、考えるきっかけがあっただけです。てへ。


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