映画で泣けない理由を考察してみる。2024/02/14

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生まれてこの方、映画を見て泣いたことがない。映画だけに限らず、小説、ドラマ、音楽、などなど、誰かが作り出した作品、もっといえば、誰かが何かをしている様子を見て、泣いたことがない。

人と会うとよくありがちな質問、「映画とか見て泣く人ですか?」っていうあれ。だいたいああいう質問をしてくる人は、自分は泣くという人が多い。泣かないと答えられたら、「えー私はめっちゃ泣くんです!」とか言われる。なんか、そう言えば「私って感受性豊かな素敵な子なんです」というアピールができるとでも思ってるんだろうか。別になんとも思わないけど。ふーん、としか思わない。
逆になんて返したらいいのか教えて欲しい。「何に泣けるんですか?」とか聞いたら絶対気悪くするし、「すごいですね」もよく分かんない別にすごくないし、返答に困る。なんかいつも、泣けないのが悪いみたいな空気になって終わる。

だから、ここはひとつ、こっちはこっちで、泣かない側、泣けない側として、その理由を徹底的に導いてやろう、ということで、書き始めてみている。

結論から言えば、この話を書いてみようと思ったきっかけでもあるけど、主観と客観の線引きが強いか否か、みたいな話が関わってるんだと思う。

誰かが何かをしている様子を見て、泣く、というのは、要は感情移入をしているということ。たぶん。
自分ではない誰かがしていること、例えば悲しいシーンにいる映画の主人公の感情に、自分の感情を投影しすぎてしまって、自分まで悲しい気持ちになって、涙が出てくる、ということ。でしょ?

これが自分は出来ない。メカニズムは理解出来るけど、そうはならない。誰だろうが、自分は自分、他人は他人だから、映画の中の誰が悲しかろうが、それを理解はできても、それが決して自分の悲しみにはならない。

映画を例に話をすすめると、「映画」という自分の外にあるものを、完全な客体として捉えて見ているのか、それとも主体の一部、自分という存在の延長線上にあるものとして捉えて見ているのか。ここで、泣けるのか泣けないのかの枝分かれをするような気がしている。

最近読んでいる本にこんなことが書いてあった。

生後四ヶ月ごろまでの赤ちゃんは、自らの身体内部で受ける感覚と外部からくる感覚の区別がつかないといわれています。だから他の赤ちゃんが泣いていると、自分が泣いていると感じて「伝染泣き」が起こったりするわけです。

『直観の経営』より

これを読んで、この話を思い付いたわけだが。「映画見て泣くやつは生後四ヶ月レベル」ってことが言いたいわけじゃないよ。でも、メカニズムとして似てるな、とは思ったということ。
映画という外部からくる感覚と、自分の内部にある感覚との区別、すなわち客体と主体の線引きが曖昧だと、ここでいう「伝染泣き」というようなやつが映画を見てても起こるってことかな、と。

恐らく自分は、映画でも小説でも、それを完全な客体、すなわち自分という世界とは別の世界にあり、自己と関与することはないものとして、完全な第三者として自分を位置づけて見ている。すると、やはり映画の中の感覚は、自分の中の感覚とは同期しない。だから感情移入もしないし、いち傍観者、俯瞰する人として見ているに過ぎなくなる。

これを「冷たい人」と表現する人はいる。そういう人たちに言いたいのは、なにも映画で泣かないというのは、感受性が乏しいとか共感能力が低いとか、そういうことじゃなくて、主観と客観の線引きをハッキリして、他者の行いは他者の行いだとしっかり分離して見るということを習慣としており、あくまでそれに他者として関わる自己として自分を位置づけているということに過ぎなくて、主体である自分と客体である映画、ドラマ、小説とがそもそも同期しない構造になっているんだよ、ということ。

映画で泣けるから感受性豊かとか、そういう短絡的なことを言うのはよくない。泣けて結構結構。でも、泣かない側泣けない側にもちゃんと理屈がある、ということをここに書いておく。

何のためかは分からんけど。

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