阿佐田哲也の新刊を読む喜び

 この度、幻戯書房から刊行された『三博四食五眠』は阿佐田哲也の新刊である。永年の読者としてはもう阿佐田哲也名義で新刊が出るというだけで嬉しい。
本名の色川武大と阿佐田哲也と、二つの筆名を使い分けて我々読者を魅了したこの作家が亡くなったのは平成元年のことだから、あと少しで没後三十年を迎えることになる。今の二十代にとっては自分が生まれる前の作家であり、言ってみれば歴史上の人物である。にもかからわず阿佐田名義の代表作『麻雀放浪記』を筆頭に色川名義の作品も書店の店頭に並んでいるし、電子書籍化された本も多い。版元を変え形を変えて何度も復刊されてきた『麻雀放浪記』が今の文春文庫に入ったのは十年ほど前のことだから、昔から馴染みの読者だけでなく新しい読者も生まれているということだろう。阿佐田哲也は現役の作家なのである。三十年近い年月を経て現役感覚で読まれる作家と言うのは滅多にいないわけで、江戸川乱歩や夏目漱石といった、ジャンルを超えた大御所の枠に入ってきた感がある。
 個人的な思い出を語らせてもらうと、七〇年代の終わり頃に著者とは友人でもあった黒鉄ヒロシによる個性的な装丁で『麻雀放浪記』が角川文庫から発売されてすぐに読み始め、全4冊を一息に読んだ記憶がある。今の若い人には説明しないと伝わらないと思うけれど、その時代の角川文庫と言うのはある種の先端的なカルチャーを担っていたのである。その角川映画で『麻雀放浪記』が映画化されたのが一九八四年、真田広之が坊や哲を鹿賀丈史がドサ健を演じたこの映画は、作者と交友のあったイラストレーター和田誠の初監督作品で、モノクロの映像で戦後の焼け跡を丁寧に再現した傑作だった。この頃、作者は二つの筆名を使いわけてどちらの名義でも傑作を連発していた。読書家の中には、阿佐田も色川も好きで彼の書いたものなら全部読みたいという人が大勢いて、僕もその一人である。世間的には阿佐田哲也の方が先に有名になっており、本名の色川武大が注目されるのは「話の特集」に本名で連載した『怪しい来客簿』が泉鏡花賞を受賞したあたりからだろうか、一九六一年に中央公論新人賞を受賞したきり幻の作家になっていた色川武大という孤高の作家が、思いがけない形で復帰したのである。それからすぐに『離婚』で直木賞を受賞し、短編『百』で川端康成文学賞、『狂人日記』で読売文学賞を受賞と日本文学の第一線で大きな仕事をいくつも残しながら、人気者である阿佐田哲也名義でも『ドサ健ばくち地獄』や『黄金の腕』といった凄味のある傑作を世に出している。『怪しい来客簿』での色川復活から、六十歳で突然の死を迎えるまでおよそ十二年。二つの筆名が両輪のごとく回転して読者を魅了したのは、干支が一周するだけの限られた時間だったのだ。
 本書のタイトルにもなった『三博四食五眠』は、戦後の一時期に著者が編集者として勤めていたこともある桃園書房の「小説CLUB」に連載されていたもので、阿佐田とは麻雀新選組で深い関係にあった古川凱章が個人ブログでふれているから、一部の読者にはその存在を知られていたものの、桃園書房も今はなく幻のエッセイとなっていたもので、単行本に収録されるのはこれが初めてである。もともと食に関するエッセイは上手い人だったけれど、この連載では第一回目のタイトルが「思い出の喰べ物ワースト3」といきなり変化球を投げている。ここでワーストに挙げられた喰べ物というのが、どれも終戦直後の悲惨な食生活と結びついているものばかりで、つくづく戦後を描かせると上手い作家だったと思わせられる。
 読んでいて楽しいのは、彼が愛した食べ物のうち、今でも食べられるものがあることで、上野の蓬莱屋やぽん多のトンカツ、大阪は道頓堀の今井の豆ごはんなど老舗の味は今でも健在である。しかも、何よりも嬉しいことに本書の中で阿佐田哲也が「日本一の豆腐」と呼んでいる豆腐屋がどうらやまだ営業しているようなのである。これに関しては本書を読んだ人だけのお楽しみということで詳しくは書かない。ともあれ、食の文化を通じて、阿佐田哲也という破格の作家がこの世に生きた痕跡が三十年近い時を経た今も残っているというのは嬉しいことではないか。阿佐田哲也は今も我々読者とともにある。

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