正直なおじいさんと強欲なおじいさん等。(Ver230525a)

僕は以前の投稿記事で、
「誠実さと抜け目のなさ」をする事で、強くなれた等と
書いた。

それはそれで、それなりに僕が体験した本当の事だが、
周りを見ていると、
「強くなる為に(その目的の為に)誠実になろう」とする向きを感じる。

これは本末転倒ではないだろうか?

確かに、誰でも強くなりたい。それは理解できる。
しかし、性格が悪いモノが強くなったら、世界が不幸になる。
だから、世界を幸福にする為には、やはり性格が良くなろうとする事が
大事では無かろうか?

正直者のじいさんが、カマドの灰を木に撒いたら花が咲いた。
それで正直者のじいさんは偉い人から褒められて賞金など大金を貰った。
それを聞いた強欲なじいさんは、灰を撒けば大金が貰えると思い、
偉い人の前でカマドの灰を木に撒いた。そしてクシャミしか出ず、
偉い人から罰を喰らった。
こんな感じは、「花咲か爺さん」で知っている人もあろう。

強欲な爺さんは、「偉い人から大金を貰う為に、灰を撒いた」
正直な爺さんは、偉い人から金を貰う為ではなく、
「皆を喜ばせる為に、灰を撒いた」
この差は大きいのではないだろうか?

確かに、「灰を撒いた」点では同じだろう。
しかし、目的が違うから、
もしかしたら、正直者のじいさんは、
植物にとっての肥料である、窒素・リン・カリウムを、
灰というカタチで撒いたのかしれない。
しかし、強欲な爺さんは、
灰ならばなんでも、「花は咲く」と思い、
肥料には成ってない灰を撒いて、
花が咲かないどころか、偉い人にクシャミをさせてしまうという大失態を
したのかもしれない。

別に、
正直者のじいさんが、灰ならばなんでも花が咲くと流布したワケではない。

ただ、正直者のじいさんは、
「花を咲かす為に」それを目指して灰を撒いた。
しかし、強欲なじいさんは、
「賞金を貰う為に」それを目指して灰を撒いた。

この差は大きいかも知れない。

まあ、強欲なじいさんが、
正直なじいさんの所へ行き、そのカマドの灰を貰って、
「木の肥料になる灰を貰って」偉い人の前で撒けば花が咲き、
強欲なじいさんも賞金を貰えたかもしれない。

なんと言えば良いだろうか?

「強くなる為に」つまり「自分の思う通りにする為」に誠実になる。
のと、
「他人を幸せにしたいが為に」つまり「他人の為」に誠実になる。
のでは、
ひどい落差が無いだろうか?

「花咲か爺さん」では、
正直者のじいさんは幸せになり、
強欲なじいさんは不幸になった。

この話では、「他を幸せにする為に」と、
「自分だけが幸せになる為に」という
大きな差が無いだろうか?

頭で考えていた、書こうとしていた事が、十分書けていないが、
つまり、
「誠実で在りたい為に」「誠実である」事と、
「強くなりたい為に」「誠実である」事では、
ひどい落差が、結果に於いてひどい落差が生じるのではないだろうか?

「強くなる為に誠実になろうとする」
現代版「強欲なじいさんたち」に警鐘を鳴らした。

伝わるかどうかは判らないが、
以上が書いておきたかった事です。

ひとつ言っておきたい事があります。

自分だけの幸せを考えた場合でも、
周りの周囲の幸せを考慮に入れずに、幸せになろうとするのは、
現代でも、難しいと思います。

だから、「自分を(本当に)幸せにする為に」
「他人を幸せにする事」は、必要になると思います。
ただ、「他人の幸せ(他人の本当の幸せ)を考えずに」
「自分が幸せになる事」は出来ないと思います。

どう言えば、
どういう言葉を使えば、伝えられるか判りませんが、
とりあえず、こんな感じで終わらせていただきます。

以上です。