悪口と断罪の境い目って何?(Ver230602a)

よく、悪口(記事)ってつまらない等を見る。
確かに、悪口、カゲグチ、などは確かに気分の良いモノではない。
言う側は、まあ、たまったウップン等もあるだろうが、
言われる側は、特に、気分の良いモノではない事は理解できる。

しかし、時々思うのだが、
悪口、と、「断罪・批判」の違いってなんだろう?

まあ、悪口の場合、
言われている対象の人が、あまり悪くない場合で、
妬みや恨み等がある場合などだろう。

でも、「断罪・批判」の場合は、
(他人には見えない罪である場合がある。
 特に創価学会の嫌がらせは、
 無関係な一般人からは【見えない様にやって】いるから)
どうなのか?
一般人からは、見えないが、確かにある犯罪の類いである。

その典型例だったのが、尼崎事件(角田美代子など)だ。
彼女(角田美代子)は、殺人さえも厭わない残忍さがあった。
それなのに、マスコミ等は、
その当人の写真さえゴマカシ、差し替えて、ウソの報道を続けた。
(一般人は知らないらしい。でも、知っている人の間では有名な事実。)

悪口はダメって言う人であっても、
鬼滅の刃の様な、可哀相な鬼を「悪い鬼めっ!」と殺すのではなく、
同情できぬ殺人などである。
それに関しては、人は平然と批判という名の悪口を言うだろう。
そして、禁止もせぬだろう。

つまり、状況や事情次第で、人は、悪口の類いを言う事を
ためらわない。

では、悪口と「断罪・批判」の違いって何か?

僕には、判らなくなっている。
外見は、「(他への)批判・悪口」以上に、何が違うのか?と思う。

常識的な人ほど、その違いの曖昧さに気付かないのでは無かろうか?
「そんなの当たり前だろ」とか言いそうである。
では、具体的に、言葉の定義の様に、その違いを
哲学的に?法律的な条文の様に?、説明し、定義してくれ!と言えば、
言葉に詰まるのでは無いだろうか?

多分、大きな違いは、
・悪口を言う当人と言われる側の人間が利害が共通していない時。
や、
・悪口を言う当人が、断罪と言うより、妬みや羨ましい等が原因の時。
では、ないか?

大雑把な内容で、気付くのは、
・不都合(妬みや被害?)が、言われる側と共通していない場合。
・言われる側が、「私には関係ない」と思っている場合。
の様な時に、(いわゆる悪い)悪口・カゲグチになり、
・不都合(被害?)が、言う当人と言われる側で、共通している場合。
・言われる側が、「私にも関係ある」って場合。
ではないのか?

冤罪事件は、同情されにくい。
みんなが、「あいつは犯罪者だから」って思っているから。
これって、被害や冤罪を訴えている人達を、見捨てていたからではないか?

そんなこんなで、愚痴って、聞くのもイヤだって思われがちである。

前述の様な話を聞いても、なお、悪口、カゲグチっていう外見だけで、
切り捨てて良いモノなのだろうか?という疑問が湧いてくる。

単に、言う人の立場に立つのも鬱陶しいとか面倒くさいとか、
ではないのか?って思う事が無くもない。

「私は悪口なんて言った事ありません」って明言する奴ほど、
その人はそんなにキレイな人間なのだろうか?
「悪口を言う人」に対して、暗に、悪口を言っていないだろうか?

何だろうか?うまく言えないが、
そんな、「本当に悪いとは何なのか?」って考え始めると、
判らなくなる事がしばしばである。

ダラダラと書きましたが、そんなにキレイな人って、本当に居る?って
思っています。
けっこう、ドングリのセイクラベ程度だったりして。

などなど。

以上で、とりあえず、終わります。