(240101b+) 僕に多大な影響を与えた聖書の言葉は、神の愛などでは無かった、と思う。
結局、聖書の中にあった言葉は、僕の中に残ったが、
それは、彼らクリスチャンが言う様な「神の愛の言葉」等ではなく、
「聖書の中以外でも見つけられる言葉だった」のだろうと思った。
聖書の中のイエスの言葉の内、僕の中に残った多大な影響を残した言葉。
「木を見分ける時には、枝や葉を見ずに、実を見なさい」
「許しなさい。(あなたが)許される為です」
この二つの言葉からは、様々な知恵を引き出した。
ただし、その知恵を引き出す為に、何年も何十年も必要とした。
だから、神がこれらの言葉をタダで僕らに与えたワケではない。
僕は、ヒントは確かにもらったが、
この言葉たちの価値を引き出したのは、
神やクリスチャンではなく、僕達自身だった。
だから、この知恵を引き出すのに、何十年も必要だった。
だから、聖書は、生活の知恵のヒントとしては有能だが、
「神の愛」等というモノだったのかどうかは、
ハナハダ、疑問である。
こんな事を言うと、クリスチャンたちは、
「なんて傲慢な!」とか「なんて不信心な!」
というかも知れない。
しかし、彼ら信者がやっている事は、
彼らが信奉するヤハウェが、
例えヤハウェが信者を煮炊きして焼き殺しても、神ヤハウェを恨まず、
それは自分達が悪いとしている。
そして、
例えヤハウェが信者に与えた知恵が、
実はヤハウェが考え出した知恵でなくても、
その功績はヤハウェのモノである。としている。など。
神ヤハウェがどんな悪辣な事をしても、ヤハウェを責めず、
神ヤハウェがやっていない事を見つけては、それをヤハウェの手柄とする。
その様ないい加減な事を信者たちがやっている限り、
僕は、神ヤハウェを認める事は無いだろう。
それは、人間でも妖怪でも、そうだ。
それが確かに、ヤハウェの功績ならば、僕もそれは認めるだろう。
しかし、それが確かにヤハウェの功績でないならば、当然僕も認めない。
それらの事を、クリスチャン達は、非常にご都合主義的に処理していて、
その無責任ぶりには、ただただ、呆れかえる。
それだけです。
そんな感じで、僕の言葉とします。
以上です。
追加です。(2024/01/01 - 5:30 頃)
僕から言える事は、
クリスチャンなどの信者は、
実は、
中国での妲己(だっき)の様な奴を、神として崇めていて、
例えば、信者たちがやっている事の例を挙げれば、
妲己の様に庶民(信者)を残忍に殺しても、
それすら賛美しているという阿呆さ加減である。
彼ら(信者)の頭と判断力とタガなどは、どこに付いているのか?
これは単なる破綻者である。
これに気付いた時、僕はただただ呆れ返った。
欧米人など信者が崇めていたキリスト教(ヤハウェなど)の正体は、
この様なモノであった。と、ただただ呆れ返った。
だから、欧米人などが、ひどく残忍なのも、ある意味当然である。
あんなヒドイ矛盾を抱えている人間たちがマトモな事をする筈もない。
信者はこれらの僕の言葉を見て、ただただ嫌悪するだろう。
これは、僕自身も一人の信者であったから理解できる。
しかし、彼らは、果てしなくお目出たい人たちであり、
バカらしくて、相手にしたくもない。
彼らの判断力が、無いも同然であるからだ。
彼ら信者は、何も判断などしていない。ただウジ虫のヤハウェの言い成りになっているだけである。ただの奴隷達である。
ヤハウェの犬である。
犬が吠えかかってきても、無視したりするだろう?
それと同じである。
彼らには判断力が付いていない。
それも、自分の利益の分別さえ出来ていない。
これでは、何をしても、こちらが彼らに良いモノを贈っても、
その贈り物をヤハウェからのモノとしてヤハウェに捧げるだけ。
という阿呆さ。これには呆れ返る。
だから、極力、彼らとは関わらない。これが僕の結論である。
なんか、まとまっていないが、
以上です。
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