(240122a) サービスするから「福沢諭吉を寄こせ!」?

(副題)「Noteでは、僕は、稼がない。(その)理由?」

「じっくり聞いタロウ」(テレ東)を見ていて、
いわゆる性的なサービス等で、身体を売る側の女性からは、
男が「福沢諭吉」に見えるらしい。つまり、札束に見えるらしい。

今の日本が歪みまくっているから、そういう人が居ても、
到底、責められない。し。至極当然でもあるとも、思う。

Noteで稼ぐ目的で執筆する人たちが居る。
別に悪い事だとは言わない。今のご時世では当然、許容されるべき事柄だ。

例えば、僕は、今現在は、
「無償で、誰かに役立つかも知れない事を書いている」。
例えば、僕がどうしても金に困ったとする。
だから、これらの僕の記事を有料にする。もしくはサポートを受け付ける。
に変更したら、どうなるのだろうか?

何故か、何かを、感じる。イヤなものを感じるのだ。

なんなんだろう。

善だの悪だの言う訳では無い。
人が生活する上で必要な物は、供給されるのが当たり前であり、
もし、自然に供給されないのならば、
自分から受け取りに行く、もらいに行く、のも許容されるべきだ。
従って、Noteで僕が稼いで悪い理由にはならない。
しかし、僕の場合は、何かイヤなものを感じる。

ある人は、
自分の不幸な生い立ち(不幸という言葉では到底足りない悲惨な)を、
語っている人も居る。

この文章は、僕にとって、価値あるものだ。
金を払うに値する。とも思えるが、では、金を払えば済むのか?
それ(金を払う事)で、解決するのか?
いや、解決しないだろう。
金を多少払った処で、その当人の悲惨な生い立ちが無くなる訳でもない。
まあ、悲惨な生い立ちも有益な経験値とも言えるが、
その(悲惨な体験の)最中は、その様な言葉は到底言えない状態だ。

むしろ、その当人が逆に、金なら多少なら稼いだ上で、
お金を払うから、「その悲惨な経験」を取り除いてくれ。と言うだろう。

ここら辺の話は、
僕が、金を取らずに、無償で誰かに役に立つだろう話を、
書いてゆく理由に近いかも知れない。

なーんか、マトマらない。

とりあえず、終了いたします。

以上です。