(240427b) 言論の限界?

もし、僕たちの目の前で、
ヒドイ乱暴者が居て、皆の目の前で、弱者を踏みにじり、痛めつけている。
とする。
この例え話は、けっこう、色々な話に於いて、
僕が考え込んでいる話に関しての、ひとつの結論?です。

そんな時に、言葉を言った処で効力が有るだろうか?
僕は思うのだが、ほとんど意味・価値は無い。
場合に依っては、その乱暴者はつけ上がるだけだろう。
「周囲のあいつら、手も足も出ない奴だ」と思うだろう。
せめて、周囲の人間が、乱暴者を取り囲んで、皆で睨みつけ威圧する。
これ位は最低でもやらないと、乱暴者は弱者虐めを止めないだろう。
(どんなに穏便に済まそうと思っても、これくらいは必要では無いか?)

今、世の中では、
「言論の自由、法律のすばらしさ」等を言い触らす人間が居る様だが、
言い触らす彼らは、実は、国民を脅しつけているのだ。
逆らえば、警察が来て、牢獄へ入れて拷問だ。と。

言葉が通じる乱暴者ならば、確かに、
乱暴者を抑える最も穏便な方法は、言葉であろう。

しかし、文頭の話の様な場合、
僕は、言葉で済まそうとする奴らは、弱虫か偽善者か暴力者の味方か?
だと思っている。

効果が無ければ、意味・価値は無いではないか?
そうでは無いのか?

止めさせたい。でも可能ならば穏便な方法で止めさせた(い)。
であって、
穏便な方法が通じない場合、多少の過激さを持つ方法に変わるのは、
仕方が無い事では無いのか?
何と言っても、間違っているのは、まず、弱者を虐める暴力者なのだから。
こんな暴力者に対しては、もっと強い屈強な人を連れて来て、
痛め付けたって構わないのではないか?
普通ならば、そうであろう。
ただ、僕たちはあまり強くないし、穏便にも済ませたい。
でも、この「穏便に済ませたい」の中に少しでも弱気が入ると、
乱暴者たちはつけ上がり、そこに付け込んでくるだろう。

だから、暴力には暴力も仕方が無い。場合に依っては。

そう思う、今日この頃です。

以上です。