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【椅子の一枚】#あこはる企画

椅子は好きだ。
デザインチェアはカタログ見ているだけでワクワクするし、家具屋のソファは座らずいられない。
だけど、そんな自分は自分の椅子を持っていない。
まぁ、離婚して実家に転がり込んだ身ゆえ、あまり贅沢は望まないし望めない…というのも20年経過したら、そろそろいいんじゃないか?などと思うが、我が家は基本和式生活なのである。
だから椅子が登場する場面はあまりない。
そのせいか、あまり外でも椅子に座らない。
公園のベンチは座るためでなく写真を撮るためにある物だと言っても過言ではない。
だからこうしていい感じのベンチを見つけると、思わずカシャッ!

撮った!

撮って満足する。
満足?
ん?
いや?
何か違う?
そう違うのだ。

家具屋であんなにお試しする自分がなぜ公園のベンチに座らないのだ?
そう考えたことがあった。
かなり大人になってから。
つい最近とは言わないまでも、まぁ、随分昔というほど前でもない。
で、気がついた。
自分はあまり公園の椅子にいい思い出がないのだ。
登校拒否をしていた頃。「いってきまーす」と家を出ても学校にたどり着けなかったり、学校に着いても1時間目が始まる前に抜け出したりしていた頃、家から誰もいなくなるまで(母はその頃、午前10時頃から仕事だった)公園で隠れるようにして時間を過ごしていた。

いや?

その時はベンチに座ったりしない。
親切な人・・・・に声をかけられるから。
じゃあ、何?
と考えた末に「あぁ、そうか」と思い出したのは母のこと。
今の時代だったら虐待で警察のお世話になりそうな叱り方をする母でして。
「あんたなんかうちの子じゃない。出て行きなさい」と言われて、ぬいぐるみを紙袋に詰め込んで4kmぐらい離れた伯母の家に夜遅くに行って以来、「出て行け」は言わなくなった母だったが、叱られた後家にいたくないじゃないですか?
団地の公園でぼんやり座っていると、母が来て「こんなとこで何やってんだよ」と怒られるので、秘密基地に行ったり、少し離れた公園まで出掛けたりしていた。
出掛けた先では母のことを思い出さないように、蟻の行列を見たり、UFOが来ないか空を眺めていたりした。
それが小学生。
中学高校になると、母の機嫌の悪さを読めるようになり、その日は門限ぎりぎりまで外にいたりした。
高校生になると、コーヒーショップで時間を潰すことも覚えるのだが、中学生時代のどうしようもないまさに虚無な時間の過ごし方を、外でぼんやりしていると思い出すというか、自然に気分が塞いでくるのだ。
ということに気がついた頃、もうひとつショックな事実を知った。
そんなふうに私たちを叱っていたという事実を母がすっかり忘れているのだ。
晩年アルツハイマー型認知症だった母だが、認知症と診断されるずっと前に、「あんたたちを叩いたりするわけないでしょう?」「それはお父さんでしょう?」などと言ってくる。
いじめっ子がいじめたことを忘れているのと同じ反応で、ゾッとした。
母に対しての怖さが倍増した。
公園のベンチに座ると様々な負の感情がじわじわと自分を侵食してくるのだ。

とは言っても、椅子は好きだ。
カウチソファは憧れだ。
そんなもの買ってしまったら、ずーっとそこで本を読むか、こうして文章を打っているかになりそうだ。
キッチンに折り畳み椅子を置いて煮物をしている間そこで待つのも憧れだ。
(実は、折り畳み椅子はある。しかしコトコト煮物をする季節は、炬燵に戻っていた方がずっといい、と早々に気がついた)
ありきたりだがイームズのロッキングチェアもいいなと思う。
腰があまり良くないので、背もたれは腰までしっかりあってほしいし、理想的な曲線というのもある。
と、まぁ、椅子には様々な思いもあって、なかなか購入できずにいる…と、そういうことにしておいてください。

まとまりのない話で恐縮です。



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