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【坂の一枚】#あこはる企画

坂の上に住んでいる。
坂の多い町。平地と思っていても緩やかな傾斜だったりする。
いささか急な坂の上…の、緩やかな坂の途中に住んでいる。
自分の住んでいるところからだと坂感感じる写真が撮れないので、急な坂と緩い坂の繋ぎ目のところで撮った方がいいかな?とか思いながら、雨が落ち始めた中出掛けてみた。
実際見るのとカメラで覗くのと見え方が違う。それに折り合いをつけるのにひと苦労。
で、撮った!

坂の下に小学校があって、息子の母校。
行きは3分。帰りは5分。
その道のりが息子には遠かったらしい。特に朝。
見てのとおり、歩道がない道なので、入学当初はしばらく一緒に登校した。
そろそろひとりで大丈夫だろうと思った頃、なんだか学校に行きたくないオーラを出すようになった。
自分も小学生時代1年半ほど不登校だったので、どうしたものか?と思った。
とりあえず一緒に学校まで行こうか?と思い、一緒に家を出る。
息子の好きなポケモンの話とか、夜寝る前に語っていた「火星の地下に住んでいる小人のコビッツくん」という適当話をしながら一緒に坂を下る。
校門まで行くと「じゃあ、行ってくるね」と玄関に向かって走るので、大丈夫と判断して自分も家に帰る。
春も夏も秋も冬も。冬には必ず一度は坂で滑って転ぶ息子を支えきれなくなった頃、ランドセルの偉大さに気付かされた。思いっきり後ろに転んでも頭も腰も打たない厚みに感謝した。
でもこれが4年強続くとは思っていなかった。
1、2年は持ち上がりで同じ担任。この担任と全く合わなかった。
保育園の卒園式に「ボクは大きくなったらドクターになります」(プールで顎を切った時に、縫合してくれた外科医に憧れての話)なんて言ってた子が、ゴールデンウィークに入る前に「ボク、ドクターになるのやめた。だって勉強きらいだもん」宣言。おいおい、まだ勉強になってないんじゃないのかい?と思った。
が、その後、担任との様々なやり取りの中、「あ、この先生じゃダメだ」と思った。
ベテランの女の先生だったが、初めての参観日。授業が終わった後の保護者懇談会で「私はどうしても女の子に目がいってしまって、結果、私の受け持つクラスは女の子が強くなってしまうんです」と言ってホホホホと笑い出した。
これにはその場にいた保護者のほぼ全員が呆れた。
「つまり、女の子を贔屓しがちということですか?」
「そうなりますね」ホホホホである。
三年になる時にクラス替えがあって、この担任とおさらばできると思ったら、4年生からひとクラスになるから三年生はとりあえずふたクラスだけれど、担任と副担任みたいな形で、合同で授業や行事をする時間を持つ、となり、強めに発達障害や学習障害の症状が出ている子も学年にいて、結局、息子の担任だった先生がそのまま中学年に上がることになった。
で、その発達障害である。
息子が保育園に通っている頃から、ちょっと気になる部分があって。だけど、保育園のうちは「小さいうちはなんとも言えない」だったので、学校に入ってから担任に、気になる点を述べ、「学校ではどうか?」と尋ねても「学校では見受けられません」の一点張り。
見受けられないのか、見てないのか?それとも症状の強い子がいてこれ以上面倒はごめんと思っていたのか?
四年になり、ひとクラスにまとめられ、予定どおり(?)担任は例の先生だった。
五年生になって、担任がようやく変わった。
ひとつ下の学年の担任だった先生で、私と同世代。当時三十代前半から半ばという感じの女の先生。ひとつ下の学年のお母さんたちには(保護者とあえて言わない、人数の少ない学年だったけど、その中にいるうるさ方のお母さんたち)評判はあまりよくなかったけど、息子とは相性が良かったようで、それまで、こっちが訊かないと学校のことを話すことはなかったが、息子の方から「今日学校でね」「先生がね」と話をするようになった。
五年生の二学期に、「もうひとりで行ける」と言ったときはホッとした。
それまで毎日毎日、一緒に下りた坂道をひとりで下りて行く背中を見送った。
自分が不登校だった頃、自分の母親は「学校に行けないのはあんたが悪い」と怒るだけで、ちっとも自分の味方になってくれなかった。
だから自分は息子が「大丈夫」と言うまで一緒に歩こうと思った。
やはり母はそんな自分たちのことを「みっともない」と言って、顔を顰め、小馬鹿にするように笑うだけだった。もちろん、可愛い孫には聞こえないよう、自分がひとりでいる時に言ってきた。
だからこの坂には、毎朝、息子と一緒にくだらない話をして楽しく歩いた思い出と、相反する、ちっとも楽しくない嫌なことを思い出す。
でも、やっぱり、息子が笑顔で「行ってきます」と坂を下りて行く姿見送ったことが一番いい坂の景色だと思っている。



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