その1

建保の騒乱 その2

翌早朝、義盛は、郎党一名と小者二名を連れただけで御所に参上した。実朝は上機嫌で義盛と応対した。一昨日、閑院内裏造営の功により、正二位の位に叙せられたとの報が、源仲章によってもたらされたばかりだったのだ。

実朝は、すぐさま義盛の二名の子息たちの赦免に応じた。将軍家の恩に対して、大げさな振る舞いで感謝を述べて御所を退出する義盛の背中には、もはや昔日の無骨な面影は薄れはじめていた。

義盛は、義直、義重の二人の子息を伴って館に戻った。彼らを迎えた和田一族の面々は、将軍家が自分たち一族に対して暖かな気持ちで接した事に気をよくした。

しかし、もう一つの問題があった。主殿に集まった一族を前にして、義盛の弟、和田義長が大声を張り上げる。

「わが息子、胤長も、今回の謀反の首謀者として御所に捕らえられたままになっていおる。是非とも胤長の赦免も、将軍家に御奏上願うべきではないか。」

胤長は、今回の謀反の首謀者の一人として、昨月の謀反発覚と同時に捕らえられていた。朝盛はまずいことになったと思った。胤長は、金窪行親の取り調べに対して非を堂々と認めていたのだ。ただし、胤長は、将軍家に二心あるのではなく、将軍家の側近に巣食う奸物を取り除く事こそ目的である、と申し述べていた。

意気が揚がった一族の者たちは、明日、御所に一族打ち揃って参じれば、胤長の赦免も容易にかなうだろうと思っている。だが、朝盛は、そのようにうまく事は運ぶまいと思った。思ったが、一族の勢いを止める事は、彼にはもはや不可能であった。

翌日、木蘭地の水干に葛袴を履いた義盛を先頭に、和田一族九十八名は、御所南庭に列座した。政所所司広元朝臣が、彼らの申し出を別当北条義時に申し次ぐ。

義時は実朝に申し出た。

「先程から義盛はじめ一族のものが打ち揃って南庭に列座しております。」
「なにゆえのこと。」
「義盛の弟、義長の嫡男胤長の赦免を願い出てのことかと。」

実朝は、義時を前にした時は、自らを公の立場に置くよう努めていた。極力、私人としての自分を出さぬようにしていた。

「胤長の罪は。」
「泉親衡等の謀反に首謀者として加担した罪によって捕らえられております。」
「証拠はあがっておるのか。」
「はい、ほぼ間違いありません。胤長本人も悪びれる気配もなく罪を認めております。」

昨日のように義盛一人が将軍家に赦免を申し出ていれば、実朝は胤長を許せたかもしれない。許さぬまでも、手立てを講じる間も持てた。だが、こうして一族を引き連れての嘆願となると話が違った。義時が関り、広元が関わったために、問題は公のものとなってしまった。実朝は、理にかなった判断をするしかなかった。

「義盛の爺の願いだからといって許すわけにはいくまい。そうした事は後に悪い慣例を残すことになる。」
「そのとおりです。」
「さらにしっかりと調べをして、しかるべき処置を取るように。」
「わかり申した。」

義時は将軍家の意向を、広元朝臣を通じて義盛たちに告げた。ここに至って、問題は和田一族の体面を賭けた訴えとなっていった。彼らは、将軍家の意向を告げられ、ますます引き下がれなくなっていた。

実際、今回の謀反の首謀者である泉親衡は逐電してしまい、他の首謀者たちも多くは許されていた。渋河兼守は、誅に服す前日に十首の和歌を荏柄社に献じ、その和歌に感じ入った将軍家によって許されている。胤長を許したところでさほど問題はない。しかし、やり方がまずかった。

昼になっても南庭の義盛たちは退出しようとしなかった。その時、胤長本人が縄を腰に打たれたままの姿で引き出されて来た。厳しい尋問を受けたのだろう。髪はほどけてばらばらとなり、着ている直垂も汚れて破れ果てていた。

南庭に居流れた者たちは声もなかった。義盛のこめかみには青筋が浮いていた。眼は異様な輝きを持って、下人に曳かれる胤長を射すように見つめていた。

胤長は、さらに詮議を受けるため、問注所所司の二階堂行村の家人に引き渡されたのだった。義時の命であった。一族の面前にみじめな姿を晒した胤長は、力なく行村の家人に連れられて行った。

義盛は静かに立ち上がり、一族の者を引き連れて御所を退出した。誰もが、このままで終わるはずがないと思った。義盛は御所を出ると鎌倉の館には向かわず、そのまま六浦路を東に向かい、朝比奈峠を越えた辺りにある所領地、和田の庄に向かった。一族のものはそれに従った。

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