不登校に依存する葛藤

どうも、たつきです。

今、僕は不登校支援ということでオンラインコミュニティを2つ運営しているんですが、最近思うことがあるんですよね。

不登校という言葉に一番囚われているのは、僕なんじゃないか。
不登校に一番拘って、依存しているのは、僕なんじゃないか。

これまで活動してきて、不登校について向き合って。

僕が不登校だったとき、「不登校」というレッテルを貼られるのが一番嫌だったのに、みんなに対して僕が一番「不登校」というレッテルを貼っているんじゃなかなって。

不登校だから、支援する。

これって僕が一番不登校というレッテルを貼っていると思うんですよ。

不登校じゃなくても苦しんでいる子は居るわけで。

不登校支援も僕が勝手に救いたいっていうエゴ。
不登校という出来事に理由づけしたくて、楽になりたくて始めたことで。

そんなエゴに対して付き合ってくれる子がいる。
運営を手伝ってくれる子がいる。
「僕の居場所なんで続けてください」って言ってくれる子がいる。

一番僕がレッテルを貼っているという事実と、
「ありがとう」と言ってくれる子がいるという事実。

うーむ、どうも苦しい。

それと支援をしていくには、相手がいないといけないんですよね。
不登校の子がいないと活動できないわけです。

誰にもあんなに苦しかった想いをしてほしくない。
だけど、不登校の子がいないと動けない。意味がない。

不登校に依存しているんですよね。

活動をもっと大きくしていきたい。
たくさんの子を救いたい。

そう思えば思うほど、心の中では不登校の子が増えることを望んでいることになるんです。

大好きなamazarashiの歌詞にもこんな歌詞があって。

過去の痛みが全て報われたわけじゃない
私の痛みは君の失望にこそ芽吹く

とても素敵な歌詞で大好きなんです。

だけど、失望した人間がいないと私は報われない。

不登校に向き合えば向き合うほど、この事実は浮き彫りになって。葛藤しているところです。

落とし所を見つけないといけないってのは分かっているんだけど、見つけられなくて苦しい。

もっともっと向き合ってこの事実に苦しみ抜いた先に、なにか見つかることを願って。

今日はこの辺りで。おわり。

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