【第2話】ラスボスの子

 九月のある日。予報通り、台風が接近していて、ぼくはうんざりした。教室は薄暗くなり、まだお昼だというのに照明はすべて全力を出している。こんなことは滅多にない。
 台風のときの独特の空気、非日常感を、クラスメイト達は存分に楽しんでいる。男の子たちは雷や強風にびっくりしながらも、いかに平気さを振舞うかにおいて勝負をかけている。反対に、女の子たちはいかに怯えているかにおいて勝負をかけているらしい。
 担任の先生はせかせかと教室と昇降口を行き来していて、落ち着きのない様子だった。村人のお父さんやお母さんが次々と迎えに来るから、その対応に追われていて大変なのだ。
 先生がつくった足跡の側をつけていき、彼らに対応する先生の後姿に何か声をかけようと試みる。なぜかぼくは、手伝いますか、などと先生に言ってしまい、大丈夫、君は座っててね、と笑われてしまった。
 教室に戻ると、少しずつ席が空いていっていることに気づく。その中に、マヤの丸い背中がみえる。
 あいつは平気さを振舞うことも、怯えることもしていない様子だった。ただ黒板の上にぶら下がっている時計の針を見つめているようだった。一体、その針がどこかを指せばあいつは幸せになれるのだろうか。
 やがて、教室はがらんとしていき、雨音だけにつつまれていく。会話のない小学校の教室。非日常というのであれば、この光景のほうがしっくりくるかもしれないと思った。
 ついにはマヤとぼくの二人になり、雨音の中に、時計の針の音すら聞こえてきそうだった。
「ナイトくん、お母さんがきたよ」
 先生が廊下でぼくを呼ぶ。やっと帰ることができる。正直、車なんてだしてもらわなくても、ぼくは一人で帰ることができると思っていたんだけれど。
 席をたち、教室を出ようとしたところで、マヤが何かいいたげな顔でこちらをみているのに気付いた。なに、という目で返事をする。
「本当はね、私、特別だなんて言われたことないんだ」
 急になにを言い出すのかと思ったが、すぐにあの日のことだとわかった。授業参観の日に、こいつが言ったことだ。
 うすうす感じてはいた。たぶん、マヤのいうことはでっちあげであると。現に、マヤの親は未だに学校に現れない。散々と感謝の思いを込めた言葉は両親には届いていなかったわけだ。もしかしたら、そもそも本当に存在しているのかすら疑わしい。
「わたしのこと、可哀そうと思うの」
 ぼくの背中に訊く。
「別に」
 大したことないんじゃない、と言葉を繋ぎそうになったが、なんとなく飲み込んだ。そうすることで、本当に大したことないように思えた。
 台風に伴う雨が強く降ってきた。下駄箱からいくつか歩いたところで、さらに雨は強さを増した。ぼくが着る制服はブレザーから学ランに変わっていた。袖についていた余計なボタンは無くなり、幾分生活が楽になった。
 傘はある。ぼくは持っている。それを掴むための腕も、それを使うための頭も、それを使わなければ不快になるほどの感情もきちんと持っている。

<数年後>

 小学生だったあの日から、陰湿ないじめは続いていて、しばらくは勝気な態度で抵抗していた。しかし、ぼくが日々弱っていく姿を目の当たりにした村人たちは、いつしか腫れ物に触るようにぼくに接するようになった。中学にあがると、思春期特有の多感さも相まって、その態度には拍車がかかり、さらにぼくは孤立した。
 休日に、ラスボスが座っている車椅子を押しているぼくの姿は、彼らの目にも奇妙にうつったことだろう。街でぼくたち家族を見かけても、彼らは何も言わず、ただ去っていった。
 そうだ。ぼくは何か形を以て人を不愉快な目にあわせているわけでもなく、ただ、きっと、漠然と不気味なのだと思う。かつてみんなが恐れていたラスボスはその原型をとどめず、そのゴボウのような脚を硬く折り畳み、静かに座っているのだから仕方がない。
 グラウンドから正門へと、白い頭の野球部員たちが駆けていく。足もとの泥が跳ね返り、まだ真っ白いユニフォームを鮮やかに汚していく。家路を急いでいるのか、単にはしゃいでいるのかはわからない。
 その近くには、雨に濡れることに過剰に抵抗を示す女子生徒が並んで歩いている。指定されている白いソックスは既に泥だらけで、もはや守るほどの価値はなくなっている。それでも、彼女たちは小さな折り畳み傘をさし、清らかな自己を守り抜く。
 つい最近だった。土もないのに、ある植物はぐんぐん育つということを知った。鮮やかな黄色い身体を持ったそれは、宙に吊るされていた。
 上からも、下からも、横からも、どこからでも、その姿は丸見えだった。角度によって見え方が違うから、それがまた丸見えということを際立てていた。そんな形態が、宙にぶらさがっているのだ。隠れる色ももたずに。
 根元にいくつにつれて白くなっていった、すっと伸びる、しかし控えめに棘がみえているそれを、ぼくは触れようとした。大きな声で誰かにやめてくださいと言われ、ぼくは咄嗟に腕を引っ込めた。そして、小さな声でそれは繊細なんですと言われた。
 リビングのソファで濡れた靴下をぬいでいると、ぼくが辿った足跡が玄関からのびていることに気づいた。いけない、と思い立ち上がり、ティッシュかなにかで拭き取ろうと思ったあたりで、ここが急に人の家になったような気分になる。
 二、三つ引き出したティッシュを重ねて四つ折りにして、ぼくは四つん這いで証拠を隠滅していく。最後の足跡を吸い取ると、情けない姿勢のまま人と目があった。リーシャがぬっと玄関扉から顔をだしたままこちらを見ている。
「びっくりした」
「よっ、久しぶり。おじゃましまぁす」
 リーシャはお父さんの昔のお仕事仲間で、四天王という役についていたらしい。今では、たびたびぼくの家にやってきて、遠い地域の方言で余計な会話ばかりして帰っていく。
「中学卒業したらどうするん」
 食事を終え、お皿を洗っていると、唐突にそんなことをリーシャに訊かれた。かちゃかちゃする音が鳴りやむ。
「まぁ、上級学校かな」
「ふうん。まぁ、こんな村で商売していくよりは、勉強して都会に出た方がええわな……都会で官僚になりぃや」
「ぼくの身分じゃ無理。わかって言ってるでしょ」
「地頭はええのにな」
 リーシャが冷蔵庫から牛乳を取り出す。後ろにいることはわかっているのに、彼女が後ろにいると「何か気配を感じるということ」を強く感じる。こういう性質は、ラスボスのそれを受け継いでいるのかもしれない。
「あたしは、上級学校は行ってへんからな、あそこってどんな生活なんかわからんわ。もし通うようになったらいろいろ教えてや」
「いろいろってなに」
「あれやん、中学とは全然ちゃうんやろし」
「中学と一緒だよ。たぶん何も変わらない」
 リーシャがコップに牛乳を注ぐ。複数の泡ができる。いつも彼女の注ぎ方は豪快だ。なんでそんなに急いでいるような注ぎ方をするのかと訊くと、牛乳にはビールを注ぐときのような目安はないからな、というよくわからない言葉で返される。
 リーシャはいつも鼻を刺すような香りがする。ゼロから順に上昇していくのではなく、ゼロから一気に百になる。彼女が消えるまで、百は百のままで、下がる気配は一切ない。それなのに、すぐに慣れるから、嫌な気分にはならない。
 その香りが、人工的な産物に依るものなのか、それとも生来持ち合わせたものなのかは、最近になってわかった気がする。答えは、後者だ。
 お父さんが座るダイニングテーブルの真向かいにリーシャが腰掛ける。二回ほど、リーシャはただ座っているだけのお父さんの目をみた。それは、瞼の半分だけ開いた、光のさしていない目だ。
「あんた毎晩なにやっとんねん」
「ちょっと……」
 ぼくが制するものの、リーシャは止まらない。
「子どもに家のこと任せて、働きもせずに、どうするつもりなん? あの頃の仲間はみんなようやっとるわ。いろいろとしんどい思いしながらもな、働いてるねん」
 最近、お父さんといえば、何をするにも気力が無い。たまにノートパソコンを開くことがあるが、画面にはよくわからない英字や数字が並んでいて、やはりよくわからない。その記号の羅列には、まるで意味なんてないように思える。もしも、本当に意味なんてなくて、それにもかかわらずお父さんはひたすら打ち込んでいるだけだったらどうしよう。そんな狂気、ぼくは認められるだろうか。
 最近になって、ようやくお父さんの顔のつくりがわかってきた。お父さんは実年齢よりずっと若い。切れ長の目に、高い鼻、控えめの口、そしてその下には鋭い顎が伸びている。口ぶりからは弱そうな印象も受けるけれど、聡明な顔立ちをしているおかげで中和されている気がする。一番良いのは、おっさん臭さが全くないとこだ。
「リーシャって、何でリーシャっていう名前なの」
 ぼく訊ねた。
「なに、急に。なんか、昔のめっちゃやらしい村祭りの名前らしいわ。もう無くなったみたいやけどな。ほんまきもいやろ、こんな名前」
「どこの?」
「西や、西の地方」
「それって何を信仰してるの?」
「知らんやん。私に言われても」
「ナイトは何だと思う?」
 低くて、太い、大人の声がぼくにぶつかる。
 なんだろうね、とぼくは答える。
 お父さんの髭が急激に成長し、その口を埋めていく。お父さんが来ているシャツの中から増えるわかめのごとく体毛が増殖して黒く黒く染め上げていく。ぼくはみていられなくなり、目を閉じる。目を開ける。白いシャツをいつもの着たお父さんがいる。
 お父さんが微笑を浮かべ、ぼくに目配せをする。
 ぼくは立ち上がり、お父さんの車椅子を引いて、お父さんを自室に連れて行った。
「おやすみ」
 横になったお父さんに伝えたが、返事はなかった。
 しかし、少し間をおいて、
「さっとのリーシャの話は忘れなさい」と言った。

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