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自治は誰が担うのか問題と、「悲劇の名望家」の昔話

所俊邦さんに薦めてもらった、「日本的自治の探求ー名望家自治論の系譜ー」を読んだ。明治維新から明治20年代にかけての20年間は、地方議会制・地方自治体制・地方税制などが導入され、地域自治に関する言論が盛んに展開された。まだ「市民」や「自由」といった概念も存在しないこの時代に、福沢諭吉をはじめとする当時の知識人や政治家等は、どのような地域自治論を主張していたか、もっと有り体に言うなら「誰が自治を担うのか」ということが書いてある。

この本が自治の担い手として着目しているのは、本のタイトルにもあるように「名望家(名声と人望がある人)」です。福沢はこれをさらに一歩進めて、真の名望家とか地方紳士といった定義をしているが、大きくは変わらない。この自治論が期待されるのには明確な理由がある。それは、民衆を自治の担い手として期待することは、ほとんどのエリートに共通して困難だったためである。当時の様子は、こんな風に描かれている。

p.26 人民の無気力:まず何が最大の問題となるか。 福沢は即座に、 唯唯諾諾として目上の者や役人に従うわが日本人民の自立心のなさを指摘する。 そして、そうした無気力な日本人民を啓蒙して、批判的自治精神を日常生活の場で体得させなければならないと主張するのである。
 克服すべき課題は二つあろう。第一は、伝統的無関心の克服である。福沢諭吉によれば、そもそもわが国の人民に気力がないのはなぜかといえば、それは昔から全国の権柄を政府が一手に握り、武備文学より工業商売にいたるまで人間瑣末の事務といえども政府の関与しないものがなかったからである。すなわち、その結果、人民はただ政府が指図するところにむかって奔走するのみで、あたかも国は政府の「私有」にして、人民は国の「食客」のごとし、という伝統的無関心が全国に蔓延してしまったからである。あわせて第二に、福沢の目にもっと深刻な問題と映じたのは、「今、日本の有様を見 るに、文明の形は進むに似たれども、文明の精神たる人民の気力は、日々に退歩に赴けり」という近代的無関心の拡大であった。


一方で、名望家自治には明らかな弱点が2つあるように思う。これをツッコミで表現すると、1つは「名望家〜??そんなやつおらんやろ!」で、これは本書中にも指摘されているので下記に引用する。(もう1つは「それじゃあ、また"無気力な人民"とやらが再生産されるやろー!」だけど、こちらは省略する。なんでツッコミで表現してしまったのかは謎。。)

p.60 福沢自治論の難点:要するに、「知識と公共心」だけでなく「財産と人徳」を合わせもつ人材、すなわち真の意味での名望家こそが治権の担い手になるべきであるというのが福沢自治論の核心であった。しかし、「知識と公共心」という要件と、「財産と人徳」という要件を当時の歴史的文脈のなかに置いてみるならば、両者は微妙に乖離していないであろうか。拙著『近代日本の名望家と自治』(木鐸社)の中でくりかえし強調したように、知識ある者は財産に乏しく(士族)、財産ある者は知識に乏しい(地方門閥家)というのが当時の実情ではなかったか。福沢諭吉の地方自治論の理論的難点は、まさにそうした日本の現実とのからみの中から胚胎してくるのである。

これまで見聞きしたり経験してきたことと合わせて考えると、名望家自治論なんてのは、明治期に西洋列強と対峙できる国民国家を作ろうという目的のもとでひねり出された、ありあわせの一時凌ぎでしかなかったのでは?と思ってしまう。なんてことを考えていたら、岐阜県関市の方に、こういう昔話を教えてもらった。

「名無し木」https://plaza.rakuten.co.jp/machi21seki/diary/201012020000/
この樹には、伝説があって、江戸時代中期の享保年間ころ、この地方が日照り続きでわずかな米しか取れず、厳しい年貢の取り立てに遭った農民は飢えに苦しみました。心を痛めた庄屋の大滝金右衛門は、代官に年貢減免の歎願を重ねましたが聞き入れられず、ついに代官を暗殺。その罪を問われて金右衛門は処刑されました。そこで、農民たちは深く悲しみその亡骸を埋葬すると、その場所から見たことのない木が生えたため、農民は「名無木」を名づけ大切に育てたと言われています。

これ、まさしく名望家自治論の行き着く先なのでは?? と思ったら、涙が出てきた。。。農民の悲しみや怒りを名望家が引き受ける、というモデルには、明確な限界がある。それは、統治する側にとっては、名望家なんて怖くもなんともない、敵に回しても痛くも痒くもない、ということです。「名無し木」は泣けるけど、「良い人がいたんだね」という話としてではなく、むしろ無力なまま(そして安全地帯にいるまま)の農民と、名望家(庄屋)と、統治者(代官)の関係性について考えさせる話として捉えるのが、現代的な解釈だと思う。

そして、こういう「悲劇の名望家」話は関市だけでなく、おそらく日本各地にあるのでは?と考えています。高知の黒潮町には、確か「大町久兵衛 」という名士がいて、彼もたしか飢饉が起きたときに民衆のために行動して、処刑されたのではなかったか。ウェブで探しても情報が全くないので、前に泊まった民宿に再訪して話を聞きたい(カツオも美味かった記憶が…)。他にも各地の「悲劇の名望家」話があれば、教えてください。

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