笛吹きの預言 3/3

 赤信号に囲まれて、稲倉酒造のトラックは停車した。 常盤木の地酒を駅近くの飲食店に搬入するためには、いつも通り、ここを横切る必要があった。そして、お決まりのエラーが起きる。

 旧式のナビゲーションを積んだままの、元々はレベル5以下で製造されたこのトラックの場合、自動運転を切るのが定石である。酒造のドライバーは慣れたものだ。エラー表示を無視して、マニュアルに切り替えようとした。……先の闇に。
「なんだ、これ?」

 珍しい、黄色い「!」の標識が立っていた。
 それだけでも奇妙だが、違和感のある標識に重なって、フロントガラス上で大きく括られた輪郭が、ドライバーに警告を発している。

〝交通障害物 etc……〟
 車載AIは、目の前の輪郭が知識の外だと言っていた。
「ナビとの複合……エラー?」
 新たに工事でも入ったのだろうか。酒造のドライバーは、いつもと違う光景に若干戸惑い、やはりマニュアルで対応しようとした。

 歩行者用信号が、静かに青へと変わる。
 瞬間、街路灯の光が線と流れ、エアバッグが座席を押し潰した。圧迫に、酒造のドライバーは声すら出ない。車はそのまま右にスライド、止まる。

 エアバッグを押しのけて、彼は反射的に左を見る。助手席のドアが内側にふたつ、凹んでいる。そのひび割れたガラスの向こう。頭を下げたまま、両手を突き出す少女がいた。その両腕と足首からは、判読できない文字のような物が絶えず流れては、空中に溶けてゆく。

 車を押し出した。そんな不可解なことが……。
 顔を上げた少女は、確かに言った。
「逃げて」
 不意に、動物的な金切り声が響いた。

 車の正面に立っていた「!」の標識は消えており、さっき車載AIが警告していた輪郭そのものの怪物が現れた。
 道路標識の骨組みで出来た、異様な姿。

不可測獣!

 最近では被害が減って、マスコットみたいに扱われている。だが、デフォルメされたぬいぐるみの獣と、リアルは全くの別物だ。酒造のドライバーの感情は、瞬く間に恐怖で塗り潰された。
「ひ……!」
「逃げて、はやくっ!」

 少女がいた場所に「一方通行」の矢印標識が立っていた。
 轟音が響き、離れたビルに土煙が見える。
 怪物、不可測獣はそちらに気を取られていた。
 酒造のドライバーは、無事な運転席側のドアから転がり出て、あたふたと逃げ出した。僅かな心で、急に姿が見えなくなった少女を振り返る。

 ――不可測獣の実在は知られている。異住定獣課も。
 それと、もう一つ。これは市内の学生の間で広がる、都市伝説ではあったが。常盤木には、〝魔女〟が出るという……。
 再びの金切り声が、思考を止めた。
 彼は、ひたすらに走った。

 その〝魔女〟理芽は破壊されたビルの瓦礫に埋もれていた。
 舞い上がった土埃が視界を遮る。
「かはっ、はぁっ」
 あまりの衝撃に、呼気を吐き出した。
「一方通行」の標識が、強烈な斥力場を生み出したのだ。
 不可測化していなければ、背骨が砕けていただろう。

 コンクリートを割る程の速度で身体を撃ち込まれてなお、剥き出しの鉄筋に手をかけ、理芽は立ち上がる。
 ここから先は、常人の領域ではない。

 預言の句、迷い子は七つの流れ交わる所に浮かび上がる。
「迷い子」とは間違いなく不可測獣。
「七つの流れ交わる所」、それは常盤木駅前のスクランブル交差点。
 この場所だ。理芽は、そのことにぎりぎりで気が付いた。手首と足首から散ってゆく記号は、かけられた呪いのようだった。それでも、笑えてきた。

「勝ったっ」
 金属の鳴き声。ビルを砕いた土煙を割って、不可測獣のくちばしが縦に降ってきた。
 理芽は、それを避けて飛ぶ。
 獣のくちばしは理芽のいた場所へ打ち下ろされ、コンクリート片をさらに細かく砕き、埋まった。

「預言に先回りしたっ」
 頭上を舞う不可測化した理芽は、記号片を撒きながら、羽毛めいて軽く。
 そして、鉄塊の如く重い。空を掻いて出された隕石のような蹴りが、動けない不可測獣の横腹に刺さった。トラックをいとも簡単に転がす獣が一撃で、半壊したビルから交差点まで吹っ飛んでゆく。

「あたしん勝ちだ!」
 着地した理芽が、誇った。
 金切り声がひと鳴き、足下にバツ印の「通行止め」標識がせり上がった。前後左右に四本。途端、理芽は縛り付けられたように動けなくなる。
「って、何……これ……っ」

 動けぬ間に姿勢を立て直した不可測獣は、巨大な全身を見せた。理芽にもようやく理解できたが、それは様々な形の交通標識と、それを支える白い鉄棒が張り巡らされた、羽の無い鳥だ。恐竜の骨格標本のようでもあった。

 理芽に向かって、無機物の獣が走る。開けた距離も、たった数歩で肉薄された。不可測な、大質量の蹴りが来る。
 流石にマズい。
 三杉さんは言った。休んでいい。危なくなる前に、逃げてもいい。あなたには、そもそも断る権利がある。率先して、命を張るな。
 汚い大人の理屈だ。

 目の前で起ころうとしている酷い事を、黙って見過ごせるほど理芽は無責任ではない。
 それが分かった上で、大人はそんな言葉を優しく投げかけてくれる。

 ……理芽は仰向けになっていた。一瞬、意識が飛んだらしい。カットソーのワンピースは破れて、ボロボロだ。地響きが伝わる。化け物が追い打ちをかけにきた。次は、踏み潰されると思う。もう、舞台に上がってしまっているのだ。優しい言葉は要らないから、今は応援して欲しい。昔の特撮みたいに、理芽ちゃん頑張れって、叫んでくれる子供が欲しい。

「うぐっ……」
 理芽は、不測の体重をかけた踏みつけに腕を張って、抵抗した。
 見かけ上の質量差は言うまでも無いが、実際には拮抗している。

 怪物が鳴いた。勝ち誇っているのか。徐々に、腕が曲がる。潰されて、その、死ぬ。おしまいだ。三杉さんは、こうも言っていた。

「必要な時に、助けてって言えるのも大人なのよ」
 呼びたくない。
 意地でも、呼びたくない。
 顔を歪めて、理芽は叫んだ。
「ハスターッ!」

 オゥーンッ!
 地面に溶け込んでいた、赤い魚が急浮上する。それは平面の壁を超えて、理芽のいる世界に跳ね飛んできた。不意の体当たりで、道路標識の巨鳥は姿勢を崩し、地面を揺らして倒れ込む。金切り声の悲鳴。ハスターはその長い身体で、理芽を守るように囲った。これ以上、主人を傷つけまいと。

 ハスター。こいつの力を借りる。それしかない。寝そべったまま、傍らに折れて転がった交通標識の軸に触れた。理芽の能力は、自身の身体と、触れる物を不可測存在に変えること。白い鉄の棒が変換され、直線的で洗練された儀仗が現れた。

 それを支えによろよろと立ち、理芽は、覚悟を決めた。この〝現実リアル〟で勝ち目がないならば、ひとつの〝物語フィクション〟を選ぼう。不可測獣は三度起き上がり、今まで以上に大きく鳴いた。 明らかに、怒りの雄叫びだ。

 理芽は流れに棹さすように、儀仗を立てる。
「有り得ざる世は幻。我が身にとり真実は一つ。有り得べき世界は一つ!」
 この世ならぬ教義を口にした。
 世界は多様だというけれど。他の〝物語フィクション〟を選んだことはない。周りに合わせて変容するほど、理芽は器用ではいられないからだ。

「あたし達は、ひとつになる。ハスター、おいで!」
 オゥーン! そして、ハスターは大きく口を開き……理芽を喰った。
 その顎門を開いて、彼女をひと飲みにした。
 不可測獣が金切り声を上げ、地面から突き出した大量の標識の串刺しになる前に、ハスターは道路の下の世界に潜り、それを躱す。

 一方、異住定獣化のオフィスでは、二本目の預言が届いていた。笛吹きによる再度のものだ。三杉が現場に向かった後での異例の事態に混乱する中、職員は筒状の容器を開けて預言を読んだ。緊急時の対応だ。

 金色の盤が掲げる杯に落ちた頃
 迷い子は七つの流れ交わる所に浮かび上がる
 その者は緋衣と杖を振るい 間もなく獣を定めるだろう
 物語は、つづく

 直後、ハスターに異変が起きる。赤いその身体はみるみる縮んでゆき、人間のサイズへと変わっていった。体表色は圧縮に従って濃度を増し、赤から緋に転じてゆく。青の幾何学模様が縦横に走った。内側から、目を閉じた理芽が表れる。

〝ハスター〟であったはずの赤い魚身は、いまや緋色の法衣となり、理芽と一体になっていた。ふたつであった、ひとつのものは、再び地平から抜け出し、浮かび上がる。ハスターの口を象ったフードがはだけて背中に回り、肩に触れるぐらいの青く染まった髪が揺れた。

――理芽・異装形態、緋袍あけごろも

 無数の可能性世界から選び取った、ひとつの姿。化け物に捨身することにより、転じて力を得る僧達の〝物語フィクション〟だ。静かに、恒星の宿る眼が開かれた。

「あなたの名前を、定めよう」

 姿を変えた少女を認めて、不可測獣は交通標識の骨格を軋ませながら叫んだ。引き摺ったような金切り声だ。
「〝トラフィカ〟、それが、あなたの名前」

 80、110、制限速度の標識が立ち並び、加速する。名を定められた獣、トラフィカの全力の突進だ。踏み込んだ爪がアスファルトを削り、前傾姿勢は理芽を確実に捉えた。

 逆手に儀仗を構えたまま、理芽は動かない。衝突する・・・・・・その刹那。
 緋色の法衣は、跡形もなく消えていた。限りなく〝空〟に近付いて、なおも理芽の言葉は続く。
「……交通ルールの中で生まれた情報生命体。道路に沿って流れ、ルールを乱す酒を好み、飲んでは眠る。それが、あなたと接続した〝物語フィクション〟」

 煙を曳いて急ブレーキを踏むトラフィカは辺りを見回し、叫んだ。定めに抵抗するように。その力を振るえば振るうほど、不可測獣はその取り巻く〝物語フィクション〟に絡め取られてゆくのだ。

 理芽はその背中に、法衣を翻して降り立つ。ハスターの能力を転写した、緋袍の空間転移だ。
「そして――」
 双眸に備わった〝天眼〟は、怪鳥の弱点を見抜いていた。
「逆鱗は背中に、ある!」
 両手で杭を打ち込むように。トラフィカの背の一点に向け、儀仗の先端を突き刺した。断末魔の金切り声がスクランブル交差点に響き渡る。

 飛び離れると、巨鳥を形成していたトラフィカの身体から、がらがらと交通標識が落ちていった。
 白い鉄棒と四角、三角、丸で出来た看板の山が築かれてゆく。

「……ありがと。早く、離れて」
 ひと息置いた理芽は、自身と一体化していたハスターに呼びかけた。寂しげなひと鳴きが聞こえ、理芽の身から緋色の衣が離れてゆく。その髪の色や、目の色も、元に戻っていった。

 トラフィカの蹴りを受けて痛んだ服は、残念ながら元には戻らなかった。
 標識の山を登ってゆく。山の上には、小さな鳥が倒れていた。おそらく、これがトラフィカの本体だ。交通標識で身を鎧った、弱々しい姿。
 理芽は……、まだ握っている儀仗を、振り上げた。

 不可測獣は可能性世界の迷子である。どのような者であっても、異住定獣課は拒まず受け入れなければならなかった。理芽もまた、半分は不可測の存在だ。だが、その理屈を理芽は納得していない。
「あたしは、あんた達が……憎い」
 かつて、両親の命を奪った化け物達を、許して受け入れろというのだ。
 どうやっても、出来ない。懐いてくるハスターにも、愛情を覚えるには程遠い。儀仗を掲げる手に、力が入った。

 手首も足首も、漏れ続ける記号が止まらない。このまま不可測の領域に留まれば、いずれは不安定な状態を通り越して、理芽の身はカオスに還元されることになるだろう。この状態は死と隣り合わせなのだ。
 そして理芽は、儀仗を。

 その瞬間、空気の揺れる音がして、多重にブレたような感覚と、焼け付く痛みが全身を襲った。標識の山を転がり落ち、倒れる。これも痛い。儀仗を取り落とし、両腕を抱いて、思わず呻いた。

「ぐかっ、くぅ……!」 この激痛は、分かっている。三杉さんだ。対不可測獣の切り札、COM(変動観測機)とFFW(変動固定波発生機)を自分に使ったのだ。あんな自衛隊の特殊車両みたいなやつで……。

 想像通り、ヒールを鳴らして三杉がやってきた。
 夜の街灯を反射して、眼鏡が光っている。
「間に合ったわね。早まるからよ」
「三杉さんのばかたれ」

 自分だって課の一員だ。感情に流されて、本当に不可測獣を殺すわけが無いだろうに。理芽は、人間相手に電子レンジを使うような荒っぽさを呪った。やっぱりこの人は、親代わりなんかじゃない
 痛み残りで動けない。上目で三杉を睨んだ。
「でも、あなたを止めるまでも無かったみたいね」
「えっ?」 
 首を巡らせて標識の山を見る。トラフィカだった小鳥は記号化してゆき、崩れて消えていった。〝現実リアル〟との接続を拒んだ不可測獣は、最終的に跡形も無く消滅してしまう。それは、世界に受け入れられなかったということだ。

 三杉は、どこからか数珠を出して、祈り始めた。この人の家系は、辿ると祈祷師みたいなものらしい。
「……不可測獣は、どこへ行くのかな」
 三杉は、答えない。
「……ママや、パパとは、違う所に?」
「かもしれないわね。その破れた服じゃ歩けないから、車に乗って。というか、まず医者よ。後でこってり絞ってあげるから、覚悟なさい」
「えぇー」
 理芽の手首と足首から漏れ出ていた記号は、FFWで無理矢理人間に戻されたお陰で、すっかり消えていた。


「新しい協力者?」「そう、この三人」 気送管が巡る異住定獣課のオフィスで、理芽は三杉の置いたレポートを見る。そこには様々な境遇の、候補者の情報が記載されていた。

 一人目は花譜。自分より年下の女の子。写真から人柄は窺えないが、ちょっと後の世代がどんな事を考えているのか、理芽は興味があった。

 二人目は春日かすが穂乃香ほのか。なんだか芯が強そうだなと思える。だが、このレポートだと案外可愛い所もあるようだ。お家の関係で、魔女ではないけれど、魔女をやるという複雑な立場にあるらしい。

 三人目はヰ世界情緒。この中では唯一、100パーセントの不可測存在だった、この世界への異住者だ。つまり由来的には不可測獣と同じということ。不思議ちゃんっぽい。

「……なかなか個性的な選出やね」
「適任が少ないのよ」

 なにしろ、いつ何が起こるか分からない状況下なので、仲間が増えることには歓迎だ。この面子だと、実年齢では永く眠っていた分、自分が一番歳上になるのかもしれないなと理芽は思った。
 書類の一点を指差して、言ってみる。
「いいよ、なかなか気に入った。特にここ、みんな歌が好きらしい、って所。趣味が被ってます」
「あら。たまたまだけど、良いかもね。理芽は?」
 微笑んで、答えた。
「うちもばいっ」

 ……老いさらばえた首都・東京から、化け物達の眼を逸らすため造られた人工都市・常盤木。大人達の都合に翻弄されながら、理芽は懸命に生きている。不可測獣はどこから来るのか。亜世代量子通信網を手にした人々は、どこへ向かうのか。ゆらぎ並ぶ異世界の中で、測れない物事をひとつひとつ、定めてゆく。

 こちらは椿咲く地の、異住定獣課。
 あなたの世界も、平らかで、安らかであれと願っている。
 物語は、つづく。

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