見出し画像

「ジャパノミクス」って、なんどいや? (9)

第9講 「法人資本主義論」と「経済構造改革論」が「ジャパノミクス」を        
    追いつめる!
 

1980年代までの日本の経済構造は、企業間の「株式相互持ち合い」によって企業系列や企業集団が形成されていて、さらにその内部に「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別組合」が重層構造をなし、それを外から政・財・官が「三位一体」で支える仕組みとなっていて、奥村氏はこれを経営者主導の「会社本位主義」または「法人資本主義」の経済体制と呼び、これこそが戦後日本の経済成長を支えてきたのだとします。

しかし、こうした企業間の「株式の相互持ち合い」は、経営者の支配力と防御力を高めることを目的としているために、一般株主は不当に軽視され、自由市場資本主義における健全な日本の経済社会の形成の妨げになっているとして、「法人資本主義」の問題点を以下のように整理しています。

  1.  株式所有の空洞化(株式市場の流動性の阻害)をもたらし、業績と連動しない株価維持システムを作りだし、株式市場を歪めた(バブルの発生)。

  2.  系列内外の業務提携を支える株式の持合いが、企業経営に対する監視機能を弱め、結果として無能な経営者による放漫経営(経営者のモラルハザード)を生み出した。

  3.  この監視機能の無効化が、会社不祥事の温床となり、その続発に歯止めをかけることのできない経済構造を生み出した。

  4.  年功序列に甘えて死ぬまで会社にしがみつく「会社本位人間」が前提の雇用関係(従業員のモラルハザード)を常態化させ、企業の活力を阻害した。

この「法人資本主義論」は、折からのバブル経済の崩壊の過程で、たとえば、財テク(本業外の金融商品や土地取引で高収益を稼ごうとする財務戦略)の失敗による企業破綻や、「持ち合い崩し」(当座の資金捻出、あるいは決算時の益出しのための持合い株の大量売却)による株価急落、株式売買にかかわる数々の金融不祥事、政・財・官の癒着スキャンダルなどが、明るみに出ることで、日本型経営システムを「誤った異形の」経営システムと決めつけるのに非常に強い説得力を持った所論となったのです。(「墓穴を掘った日本型企業システム」 奥村宏 エコノミスト1993.5.17臨時増刊号「戦後日本経済史」)

ところで、初学者や新人社会人が手にした当時もっとも一般的な入門書の一つであった「ゼミナール現代企業入門 1989年版」(日本経済新聞社)では、株主を重視するアングロサクソン型資本主義に対峙する「カンパニー・キャピタリズム」(「会社資本主義」)こそが日本経済の強みであると論じています。この「会社資本主義」とは、奥村氏のいう「法人資本主義」と定義においてほぼ同じです。しかし、両者の立論では、日本経済にとっての功罪が全く真逆になっているのです。

「会社資本主義」システムが本当に不適切であったか、ということについては、後の議論として措くとして、私には、このたった三年足らずの間に、どうしてこれほどの経済システムに関するパラダイムの転回が起こったのかという点にこそ関心があります。

先走って言いますと、1990年代前半からは、自由市場資本主義とグローバリズムから逸脱している日本型経営システムを破却することで、バブル崩壊後の閉塞状態を打破すべきであるという議論が有力となります。
代わりに浮かび上がったのが、さまざまな規制や行政の関与を極力排除し、民間活力の活性化と貿易分野を含むさまざまな分野の「ディレギュレーション」(規制緩和)の実施を骨子とする「経済構造改革論」です。
そして、それは、1998年その集大成ともいえる小渕恵三内閣の諮問機関「経済戦略会議」の提言として結実し、その後の政府の経済運営に最も強い影響を与えることになります。

前にも述べましたが、そもそも「構造改革」とは何であるか、ということについて、当時の人びとの間でどの程度の理解が得られていたかは、判然としません。
構造改革派は、規制に守られた当時の経済構造には、なんらかの重大な問題があり、それが利権を生み、不正の温床にもなり、自由競争を妨げ、経済の活力を奪うものであるから、規制を減らす「改革」をしなければならない、そして、時のグローバリズムの流れに沿うよう日本の経済システムを「構造改革」して、規制のない自由で公正な貿易を担保するようなものに改めなければならない、といいます。
つまり、既存の「ジャパノミクス」を全く破却し、自由市場資本主義に沿った経済構造に作り変えることこそが、日本経済回復のための処方箋であるという考え方なのです。

もしそれが処方箋であるならば、どういった「構造」が、日本経済にとって成長や回復の妨げになっているのかを数量的に分析し、それをどのように「改革」すれば、どれだけより良いものが得られるのか、を示されなければならなかったでしょう。そしてその上で、その「改革」がもたらす痛みとか副反応をどの程度まで許容し、耐えなければならないかを議論し、客観的な情報として人々に与えられるべきだったでしょう。しかし当時こういった点について、あまり中心的に議論されることはなく、人びとの側でも万全な準備が整っていなかったように思われます。

むしろ、当時の人びとは、自らの生活にとって現状の経済状況が不適切であると感じていて、その不適切な状況をもたらしている「旧弊」を守ろうとする「守旧派」は退治すべきだ、とする構造改革派の議論には、漠然とした期待を抱いていました。バブル後の重い閉塞感からの脱却と変革への人びとの希求は、まことに切実だったのです。
実際、民意は揺れ動き、1989年の竹下登首相退陣以降、2001年の小泉純一郎首相登場までの12年間で、衆参議員選挙は計10回行われ、与野党逆転を含めて、なんと9人もの首相が交代しているのです。

そもそも「構造」という言葉は、例えば経済構造、産業構造、市場構造、貿易構造、金融構造、企業構造、という風に、いかようにでも使える便利な単語で、これに「改革」を付ければ、一応「政策」としての体裁が整います。現に今でも、ひとつ問題が起これば「構造改革が必要だ」という風に安易に使われています。しかし「構造改革」という熟語そのものには実体が含まれていません。

実は、経済「構造改革」論というのは、自由市場資本主義の考え方をそっくり取り入れたものにすぎません。さまざまな分野で自由主義的な構造改革を行えば、市場メカニズムによって、資本や労働などのリソースを低生産性部門から高生産性部門に導くことができ、ひいては長期的に国民経済全体の生産性を高めることができる。そこでは、民間で出来るものは民間に任せて、当面の政府の役割はディレギュレーション(規制緩和)と行政改革にとどめ、特定分野に対する補助金や優遇措置などの産業政策も回避すべきであるとされました。自由市場資本主義の働きによって、やがて経済は活性化し、バブル崩壊後の日本経済を回復させることができるはずだという考え方です。
従って、この経済構造改革を進めるためには、これまでの日本の経済システムを、アングロサクソン型の自由市場資本主義が機能しやすいものに変えていくことが必要となります。
つまり、必然的に既存の「ジャパノミクス」は破却されなければならないのです。

しかし、「構造改革論」の打ち出す目に見える政策は、マクロ経済政策というよりも、個別的な事案に着目したミクロの議論が目立っていました。例えば、郵政や交通などの準公共分野の民営化問題や、様々な分野での規制緩和、競争原理と市場化の促進、金融自由化や不良債権の処理にかかわる個別案件などが対象だったのです。

たとえば、銀行の不良債権の処理についても、市場メカニズムによる淘汰に任せて自己責任において処理させ、その結果、体力の弱った銀行は配当と中小企業融資をやめるべきである、それもできなければ市場から退出すべき、となりますし、労働市場でも、成果主義、能力主義を重視して雇用を流動化させれば、成長分野に優秀な人材が流れ、経済は活性化する、と考えました。大店立地法(1998年)による大型店舗の出店は、非効率な中小商店を活性化し、消費者の便益の向上に資するとされたのです。

しかし現実は、こういったミクロ的な「構造改革」によって、苦境に喘ぎつつも再建できたかもしれない老舗企業、将来有望で育成すべき中堅の新興企業、地域に根ざした中小企業や商店、などの命脈が多く絶たれてしまったことの方が、日本経済全体にとっては深刻な問題でした。

また、日本が産業政策を躊躇しているうちに、近隣新興国が手厚い産業政策を打って、半導体、エレクトロニクス、鉄鋼、造船などかつて日本が優位性を誇っていた分野のシェアを奪っていくことになりました。

さらに、雇用の流動化は、成長分野への労働力の移転を促すよりも先に、企業のリストラの一環として人件費圧縮を目指す大義名分となり、国民経済全体を押し上げるものとはなりませんでした。そしてこの時期の大量の希望退職や派遣社員などの不正規労働への置換、新卒採用の絞り込みが、現在の企業中核人材が不足する遠因となっています。

この間、大都市圏への首都圏への一極集中をどうするか、デフレ経済の影響の最も大きかった地方経済や郊外をどう建て直すか、製造業の弱体化や空洞化に対してどうするか、ITの基盤となる通信インフラや老朽化の進む公共インフラをどう再構築するか、といった本来政府によってなされるべきマクロ経済政策についての議論は置き去りにされたままになっていました。

穿った言い方になりますが、市場任せにして、政府による産業政策をも回避するべきであるとする構造改革論者にとっては、赤字となった財政政策を抱えてでのケインズ主義的なマクロ経済政策の議論は埒外のことだったのかもしれません。

次回は、いよいよ「ジャパノミクス」の終焉です

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?