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「ヘマな歴史」は、学びの宝庫!             「ジャパノミクス」ってなんどいや(11) 

バブル時代に若者だった人たちは、40年前の出来事の知識なんて大して役に立たないと考えていました。だって、その40年前って第二次世界大戦中で、遙か遠くの昔話としか思えませんでした。1980年代は当然、戦中戦前とは全く価値観が違っていましたし、それより何より戦争は日本人の起こした「ヘマな歴史」の記憶なのですから。

ところが、そのバブル時代というのが、今の若者にとっては40年前の昔話で、しかも同じく日本人の「ヘマな歴史」です。今の若者も、バブル世代とは価値観が違うし、そんな時代のことを聞いても、今の社会を理解する参考にならないと思っているとしても不思議ではありません。

しかし、ニンゲンというのは、賢いが「懲りない」サルみたいなところがあって、同じようなことをなんどもなんども繰り返すのです。

例えば、

1990年がバブル崩壊(デフレ)の節目でした。それをおよそ45年ごと刻んで遡っていくと、実に面白いのです。

その45年前の1945年。まさに敗戦の年。廃墟と食糧難とハイパーインフレション。しかし、その5年後には戦後復興を果たし、高度経済成長、オイルショック、円高不況を経てバブル景気に至るのです。

その前の1900年。産業革命を果たした日本は、初めて過剰生産から「資本主義型恐慌」に見舞われます。そのわずか4年後には、国力のすべてをつぎ込んで日露戦争を戦います。1907年に戦後経済恐慌が起こり、労働争議と弾圧、軍国主義が強まります。その後1910年代は戦時景気、20年代は戦後恐慌、震災恐慌、1930年には、世界恐慌から深刻な金融恐慌を引き起こします。1931年に再度蔵相となった高橋是清は財政出動、輸出振興、低金利政策などのケインズ政策を打ち出します。これによって、重化学工業が発達し、新興財閥が成長して景気は持ち直しますが、1936年「二・二六事件」に倒れ、やがて1937年日中戦争へと突入します。

さらにその前、1854年は日米和親条約を結び開国。これが金の流出を招きインフレに見舞われます。一方、明治維新後の殖産興業、富国強兵政策の下、日本にも産業革命が起こりました。しかし、松方正義蔵相の導入した日銀による銀兌換制度は激しいデフレーションを起こします。

さらにその前の前、1810年、将軍徳川家斉の時代は化政文化の前半の文化期こそ「寛政の改革」路線の緊縮政策でしたが、文政期に入ると貨幣を改鋳してインフレ政策をとって経済は拡大、江戸に人口が集中します。そこに、天保の大飢饉が襲い、農村は荒廃、大塩平八郎の乱や農民一揆が続発します。

その前の前の前、1767年、田沼意次が側用人になります。「享保の改革」での増税と行政改革といった緊縮政策で疲弊した商業資本を活かすため流通市場と金融市場を整備し、経済は大いに振興しましたが、インフレが進んで、贈収賄も横行し、さらに「天明の大飢饉」や浅間山の噴火で、人心も荒廃し、田沼意次は失脚します。

その前の前の前、1716年、紀伊から徳川吉宗が将軍になります。元禄期に悪化した財政を建て直すため、増税、倹約、行政改革、新田開発を断行し、財政再建に成功しますが、「享保の飢饉」が発生、民衆の不満は募り、1732年江戸で打ちこわしが発生します。

その前の前の前の前、1675年の元禄時代に側用人柳沢吉保が登場します。大阪に堂島米市場が作られ「天下の台所」として蔵屋敷が建ち並び、全国の金の7割が集積します。一方江戸は政治の中心として大消費都市となり、この2大都市を結ぶ流通の仕組みが確立しました。この元禄時代には、荻原重秀による改鋳(元禄小判)が行われ、インフレ(バブル)が発生したため、次の「正徳の治」で新井白石は金の含有率を上げた正徳小判を発行し、また金銀の海外流出を統制するようにしました。

そして、その45年前が1630年が鎖国令です。

むろん、45年ごとに何かが起こっているのは、偶然に過ぎませんし、その間に松平定信や水野忠邦などの経済家も登場し、自然災害による景気の短期変動もあります。こうした表面的に類型化した歴史の見方は正しいものではありません。

それでも、あえてこのように列記したのは、

ー政治と社会の「空気」が変わると、経済のベクトルはすぐに変わって、絶えず経済は変動し、ひとところにとどまることはない、けれども同じような経済事象は、繰り返し繰り返し起こってくるーということを強調したいためです。
いつの世でも新しい装いをもった経済理論や経済政策は、必ず既存の理論や政策の「否定」の上に立ち現れてきますが、俯瞰して眺めてみると、いつの時代にも通用する普遍的な「正しい」経済理論や経済政策というものが見当たらないのです。

だからこそ、過去、特に「ヘマな歴史」こそ、学びの宝庫なのです。
例えば、冒頭の二つの「ヘマな歴史」の前には、明治維新から産業革命を起こしてのし上がる「アジアの新興国・日本」がありましたし、敗戦の廃墟から貿易立国で高度成長を成し遂げる「経済大国・日本」の堂々たる大成功の時代があったのです。それが、なぜかあのような手痛いヘマをしてしまう。

ですので「今は昔と違う」と捨象するのではなく、賢人たちの言う「歴史は繰り返す」という命題を認めれば、「ヘマな歴史」をみることで、「今日的課題」を解決する糸口を見出すことのできる可能性があります。なにより、現代の経済社会が「ヘマ」の結果かも知れないし、そもそも私たち自身が今現在「ヘマ」をやらかしつつあるのかもしれないのですから。

アメリカの経済学者ケネス・E・ガルブレイスは「豊かな社会」(岩波現代文庫)の中で、「現代の経済生活を理解するに当たってまず必要なことは、事実とそれを解釈する観念との間の関係をはっきり掴むことである」と言っています。
ここで「解釈する観念」とは、「経済理論」と言い換えて意味は通じますが、おそらくそれでは不十分です。その「経済理論」の裏にある経済思想や価値基準が何であるかを掴め、それこそが大事なのだ、とガルブレイス先生は言っているのです。

そして、経済事象を読み解くための経済思想や価値判断は、おそらくは「ニンゲンの本能や心理に対する知識」、「道徳や倫理に対する知識」、「社会と経済現象に関する歴史に対する知識」への理解から生まれてきます。(おそらく宗教にかかわる知識も重要な要素だと考えられますが、ここでは触れません)

ですので、その一つ一つについて考えてみたいと思います。

まず、第一の、「ニンゲンの本能や心理に対する知識」とその理解です。

資本の支配する経済社会(外形的な政治体制のことではなく、中国やロシアであっても、小さな王国であっても、市場があっておカネが存在する世界はすべて)は、「格差」という位置エネルギーを利用して豊かさ=おカネ=資本を手に入れようとする人びとの営為の相互作用の総和でできている、と考えることができます。

ニンゲンは、「欲望」と「恐怖」、「楽観」と「悲観」といった本能に突き動かされて経済活動を行い、それによって自然に「格差」が生れ、その「格差」が利潤を生みます。そして、それぞれが、その「利潤」の蓄積をひたすら目指すことで、総和としての経済が拡大するということです。

さらに、人間には、本来野心と嫉妬心であって、一方はその「格差」をさらに広げてより多くの利潤を得ようとし、一方は、「格差」を意識して上に這い上がろうとします。これが、市場における競争です。
また、このように「格差」を生み出そうとする活力が、シュンペーターのいう「アニマル・スピリッツ」であり、イノベーションの源泉となるのです。

すぐれた資本の支配する社会では、人びとは「格差」の存在を認めた上で、相互に自立精神を尊重し、不正を嫌い、自にでより良い経済活動を行おうとします。そのような社会の中では、市場原理に従う限り、その向かう先に、勝ちと負けはあっても、善や悪はありません。

例えば、日本人は、明治維新のときに欧米との間にとても大きな「格差」があることを知り、それを縮めようとひたすら努力することで、近代的資本主義を取り入れ西欧に追いつこうとしました。

戦前の日本経済においては、農民と労働者や職人、商店主などと財閥や政商などに代表される典型的資本家との間にあった搾取構造に近い「格差」とさまざまに整備された教育「格差」が、経済成長のエンジンとなっていたことは否定できません。

戦後には、地方と都市との賃金「格差」、発展途上国や先進国との人件費や
製造原価の「格差」をうまく利用して加工貿易モデルを作り上げ、貿易黒字を増やしてきました。日本の高度経済成長はこうした野心や嫉妬心、「這い上がろう、豊かになろう」とする精神の強い働きによって成し遂げられてきたのに間違いありません。

このように経済を動かすために「格差」という位置エネルギーは不可欠なものです。日本だけではなく、イギリスの帝国主義も、アメリカのフロンティア・スピリットも、共産党一党支配下で市場主義を導入した中国も、こうした社会の内外の「格差」の持つ位置エネルギーを利用して発展してきたのだといえるでしょう。

そして「格差」というものはいたるところに見いだすことが出来ます。

例えば、性差による「格差」もそうです。特に、日本のように長らく男女間で、社会や家庭における役割分担が明確に固定化されてきた社会では、女性の家事や教育といった労働は与件としてカウントされず、社会全体がそこから「見えない利潤」を搾取していたともいえます。
しかし、女性の社会進出や職業上の地位の向上によって「格差」を縮めていけば、その位置エネルギーは国民経済計算上「利潤」として顕在化されていくはずです。問題は、これまで女性が担ってきた家事や育児にかかわる労働を「何が」どう担うか、ということになってきます。まさに今日議論されている重要な政治課題の一つです。

また、市場経済における「情報の非対称性」も、利潤を生み出す源泉となります。「情報の非対称性」とは、取引における意思決定において一方が他方よりも多くの優れた情報を持っている「格差」のある状態を言います。より多くの優れた情報を得るために行われる営為はイノベーションの発露となりうるという利点もあり、そこで多くの起業家が生れ、経済社会の発展に貢献しています。例えば、提供者と受け手の商品に関する情報リテラシーに「格差」があるために、情報の受け手は利便性を得ることができ、出し手のIT企業やEコマース関連企業は莫大な利潤を得ることができるのです。

しかし、相互に自立精神を尊重し、自由でより良い経済活動を行おうとしながら、思い込みや錯覚が起こることがあり、そこに悪質で詐欺的な要素が商取引に入り込む余地が生じます。こうなると、安くて悪い品質のものしか市場に出回りにくくなり、「市場の失敗」となります。(行動経済学で2001年にノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフが発表した「レモン市場の原理」という論考が有名です)そのために、悪質な取引を排除したり、一定の保証を与えるような仕組みを備えることが不可欠となっています。そういう意味で、情報の保護とデータの活用も、今日の重要な政治的課題の一つとなっています。

次回は、経済の自律的な「繰り返し」運動がなぜおこるのか、それは「欲望」と「恐怖」、「楽観」と「悲観」という4つのニンゲンの心理状態で図式化して説明が可能なのではないかという点について考えてみたいと思います。
 


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