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シン仮面ライダーのコレってアレだよねネタバレ考察

「シン仮面ライダー」を観てきた。

 以下完全にネタバレなのでご注意を。

 体調のこともあり、途中のコウモリ男のあたりで寝てしまったりして「過去のシンに比べて、あんまり面白くないなあ、私向きではなかったかなあ」と途中まで思っていたが、終わってみると凄く満足していて、子門真人の、いい声のでている時期の音源が頭から離れない。そんな映画だった。

 多くの感想にあるように、庵野監督が、原作にも重心を置いて仮面ライダーの好きな所と「皆さんがよくご存知なライダーネタ」を綺麗に編み込んで一丁上がり、という感じの作品。

 庵野監督渾身の圧倒的一作、というよりは「上手に作った」感じで、頭をフル回転させてもついていけないシンゴジラあたりと比べて、疲れたおっさんの特撮映画観賞にはちょうど良い仕上がり。


 際立つのが画の良さだ。
 これはもう浜辺美波に尽きる。細い。明るい色の厚そうな革コートを着てなおあの細さ。こんな女が実在するのかと思うくらいの美貌。顔のいい女が映っているというだけで間がもつ画作りだった。

 全体に寒い空気感もよかった。木枯らしと枯草。あまり生命感の無い彩度の低い世界に、オーグメンテーション(改造手術?)を受けた合成生命だけが強力な力を示す。暗闇に光るライダーの赤い複眼。そして飛び散る赤い血。枯れた世界に、黒と赤。ポスターのビジュアルも黒と赤。孤独と生命と痛みの象徴。

 その画の下に、仮面ライダーネタが、随所にちりばめられている、というよりは一枚奥に編み込んである感じだ。この主張しすぎないお陰で、特にライダーに詳しくなくても、物語を楽しめるのだと思う。

 ただ、編み込んであるだけに、パッと見で「誰が気づくんだコレ」と思うネタもある。

 ハチオーグのアジトへ向かう際、向田邦子のドラマ「阿修羅のごとく」で流れていたBGMが流れていた。「ジェッディン・デデン」というトルコ軍楽だ。ハチオーグの下僕化した住人が行進しながらついてくるシーンである。軍隊音楽つまり行進曲と見れば自然にも思えるが、「阿修羅のごとく」においては、不穏な空気の際に流れることで有名で「女の中にある内なる阿修羅」をあらわす曲。深読みするなら、この先にあるのは勝つか負けるかではなく、本質的には痴情であり、情愛の修羅場である、という暗喩かもしれない。そのまま殺伐とした百合が始まっている。(ところでハチオーグの衣装が素敵だったね)

 黒い群生相のバッタオーグと戦う際、本郷はサイクロン号の右側にぶら下がって走行し、被弾を避けている。
テレビの仮面ライダーV3の話だが、V3が駆るハリケーン号は、自己判断能力機能をもっていて、呼べば応じて無人走行で駆けつける。この撮影は、カメラから死角になる位置に人間がぶら下がって運転していたらしい。いわゆる曲乗り(曲芸乗り)だ。本作中でもサイクロン号が自律走行して、本郷たちに可愛くコロコロと追随する様子が描かれた。現在はホンダ社製造バイクに実在する機能だが、かつて存在した仮面ライダー特撮への賛美として描かれていると思う。

 ところで、ここで出てくる沢山のライダーは、テレビ版の黄色いブーツとグローブのショッカーライダー(六人)ではなく、原作版の13人いるライダーだ。煙る視界に居並ぶ、本郷猛と同じかそれ以上の能力を持つ13人の刺客が、よく似た構図で描かれる。
映画の視聴後にコミックス全四巻を読む。
映画のラストシーンが内容も構図すら原作二巻ラストの再現であるし、映画は原作オマージュがかなり多い。
左腕を負傷し、右手で損傷を押さえながら歩く本郷の姿は例のポスターに重なる。

 それと、バイクと言えば、仮面ライダー・一文字隼人の誕生だ。劇中、本郷は一文字隼人との戦闘で、左足を複雑骨折している。
 藤岡弘氏がバイク事故で撮影中に大けがした事件をなぞった演出だろう。その事件がおきたテレビ撮影の現場では、仮面ライダー1号の負傷を原因として一文字隼人という2号ライダーが誕生している。この事実が劇中での2号ライダー誕生に噛ませてあるのも面白い。

 ネタとして露骨に分かるのは、ロボット刑事Kとイチローである。
 イチローは、名前からしてキカイダーで、彼の右に赤いバイク。左に青いバイクが遠く遠く配されている。いわゆるゼロワンの配色だ。キカイダーゼロワンは、テレビでは古寺の仁王像から出現する。シンでの彼が半跏趺坐という、片足を地に着け、もう片方を膝に組む座り方をしているのも仏像由来かと思うが、この座り方はいわゆる弥勒菩薩。意味が通じているなら最終的な救いをもたらす者だが、この点は映画の脚本を読み込み切れていないので、考察を控える。

 そして彼自身はチョウオーグ。つまり蝶であり、変身するとき顔に浮き出すラインはイナズマンのそれだ。
 しかし変身後の自己紹介は「仮面ライダーゼロ号」本人はゼロと言っているがベルトはダブルタイフーンだし、父よ母よ妹よ、というキャラなので、イチローは実質V3と言える。ダメ押しにマフラーは白。キカイダーとイナズマンとV3という三重苦で、本当に非道く辛そうな立ち位置だ。(ますべさんによるとさらにハカイダー要素もあるらしい)

 そしてロボット刑事。彼がかつてはJと呼ばれていて、現在はKなのは、ロボット刑事K(ケイ)の撮影会の時点ではJ(ジョー)という名前で、ベルトのバックルにもJの文字がつけられていたネタから。こんなの誰が分かるというのか。(彼が乗ってる車が「ジョーカー」=「ジョー・カー」というあたりに名残があるらしい)

 ルリ子の虹彩が青く光る実にイイ演出を見て、IFS強化体質の星野ルリと名前で通じるなと思っていた。本人も自分を「生体電算機」とか言ってたけどまさかね、と思っているとハチオーグに「ルリルリ」と呼ばれていて驚く。でも、これはちょっと遊び心で寄せてる程度だろう。ナデシコと仮面ライダーに直接のつながりは多分ない。

 最初に本作の魅力が「画」だと書いたが、デザインの面白さが光る。
 ヘルメットの収まり方や背格好が、本郷と一文字で大きく違うのが面白い。昔のテレビ版仮面ライダーでは「1号2号の見分けがつかない」「なのでグローブやラインの太さで見分ける」といった話があった。今回は違いが明確だ。1号が黒ベースな桜島カラーであること以外にも、スタイル、フォルムの違いが明確に描かれてる。

 ところで、仮面ライダーの頭部造形は、近年複雑化の一途を辿っている。トンガリがやたらに多い。比べてシン仮面ライダーのマスクは丸い。THE FIRST のような面長解釈ですら無く、意図的に丸く真円・真球のようだ。
 画面が暗くて分かりにくかったが、両腕にダメージを負って戦えなくなった一文字隼人が、最終的に頭突きでイチローのヘルメットを叩き割るシーンがある。ライダーパンチでも、ライダーキックでもない。普通ならこれで決まりの爽快な必殺技はキックかパンチだ。それを押しのけて決定打を決めたのは、頭突き。丸くて硬い鉄球のような原始的で強力な頑丈さ。最後の決め手をマスクに託したのは、原作ライダーの頭部の丸さに通じるあのフォルムがあったからかもしれない。

 ライダーにあの二人の俳優を配した理由も考えたい。
 本郷、一文字ともに、よい顔の俳優さんとは思うが、整った顔の美青年というわけではない。もっと今風な顔の俳優はいるはずだ。その並み居るイケメンの中で選ばれたあの二人が素晴らしい。シンゴジラの出演者が日本の面白い顔大集合な感じもあったが、今回もそれに近くて実にいい。

 彼らは改造人間なのだ。改造されて醜くなってしまった姿を見せたくなくて、自分の本質をこのマスクに託してつけている仮面なのだ。堂々と胸をはって顔を晒すことができない、そんな精神性に私はひかれる。仮面を着けてやっとフルパワーを自分に許せる繊細な精神性。野面(のづら)のときは全員猫背でもいいくらいだ。欲望が解放されて良心の無い人間の方が堂々としていて(イチローが良心回路のないゼロワンなのも面白い)、良心の残るライダーたちが苦しむのもいい構図。

 ただ、彼らがコートを着ているのはこの要素で間違いないと思う。コートは、風から身を守るもの。本来は風力をパワーにするはずなのに、世界からふく風当たりから自身の精神を守るために、シンのライダーはコートを着ている。渡世の風が冷たい。追い立てられるように荒野を進む。襟を立てて、猫背で、孤独に、巨大組織に一人で戦いを挑むその姿を、コートが包んでいるのだ。この哀愁こそライダーの昏い昏い魅力だ。

 本郷とルリ子の関係が、恋愛ではなく信頼で結びついているのもよかった。ルリ子を失って、本郷が男泣きに泣く。好きな女が死んだ泣き方ではない。死んだ友達のために泣く男の姿に、自分には思えた。
 彼女の願いを継承するのは、ますべさんから教わったのだが、海と陸の境界線だ。彼岸を見つめ、渡ってしまった人の意思を受け継ぐ場所。同じ場所で、やはり一文字が本郷の意思を継承していた。


 本作ラスボスであるイチロー。ここでは仮面ライダーゼロ号と、二人のライダーは戦い、愛車や両腕を犠牲にして、本郷猛が最後に取っ組み合いに持ち込む。明確にあった戦闘力(プラーナ?)の差が、ここで対等に追いつく。まるで泥仕合の喧嘩だ。演出意図があるとすれば「この二人は同じ」という意味だと思う。

 イチローと本郷猛の共通点は、どちらも親を理不尽に殺されたことだ。
 イチローは母親への執着から行動している。暴力を憎み、暴力の無い世界を強制的に作ろうとしている。それがハビタット計画だ。
 人類補完計画に近い気もするが、動機は私憤である。人間を、母を殺した他者をイチローは信じていない。

 対して本郷は「自分が死んで残される家族のことよりも、他人の心配をした」という父を、おそらくは長い葛藤の果てに受け入れて、尊敬している。
力を得た彼の原点がここにある。自分に近しい者を愛するより、自分に敵対する者を愛する。「汝の敵を愛せ」という、キリスト教の精神に近いものを見る。身内を後回しに、より遠い者を愛する道を貫いた父。それを尊敬するというポジション。この本郷猛の立ち位置こそ、正義と呼べるものだ。
 ただの優しい男ではない。「ああ、本郷は本当に、心に正義をもつ人なのだな」と思えた述懐だった。

 一方で、イチローは母の死を超えられていないし、受け入れられてもいない。

 悲劇を呑み込み正義を胸に受け継いだ男と、悲しみから眼を背けた男。
 この二人がぶつかり合う。
 本郷は、ルリ子の意思を継ぐという動機だが、結果として自分が死ぬとしても、父と同じように他者を救わんとする愛を貫いた。
 憧れの父の姿勢を、自分の中に貫き通して、正義をもって愛を伝えたのだ。

 生体電算機だったルリ子が、本郷と行動をともにする中で、彼の中の人間性に感化されていったのだろう。
 彼女の意思を、ヘルメットを通じてイチローに伝える本郷。
 初期のルリ子と同じく人を信じられなかったイチローは、最後にルリ子が信じた人間を、自分も信じると言って消えていく。

 玉座に座り、一番偉い立場にいたイチロー。しかし、考えてみると他の改造人間たちは、組織に忠誠を誓っているというよりは、それぞれバラバラの恨みや価値観で好き勝手に行動している。後にコブラオーグが出現することを考えても、イチローはショッカーの首領ではなく、一支部の支部長なのだろう。本郷と取っ組み合いの泥仕合をしているとき、彼を助けに来る仲間はいなかった。
 彼は人間を信じていないからだ。
 対して、本郷には一文字という、後を託せる仲間がいる。

 そして、自己犠牲の果てに本郷もまた泡と消え、そしてプラーナとして復活する。
 この流れ自体は、原作漫画版仮面ライダー最終回と同じ帰着だ。
 しかし、この流れにキリスト教的思想を見てしまう。自己犠牲、愛、復活。監督が庵野さんでエヴァのときにさんざんキリスト教用語が使用されているので、今回もそれか? 表面をなぞっただけの衒学か? と思わないでもないが、劇中で流れたヴィヴァルディの「この世にまことのやすらぎはなく」という声楽宗教曲にさらに引っかかる。歌詞にイエスが歌われているのだ。

 この世にまことの安らぎはなく
 苦渋なき真に純粋なる安らぎは
 慈愛にあふれるイエス、御身の中にこそ

 苦悩と痛苦にはさまれても
 魂は幸せに生きている
 しみひとつない愛を待って

 ウルトラマンではよく語られるキリスト教要素だが、原作の仮面ライダーにキリスト教的な要素がどれくらいあるか、詳しくない。石ノ森漫画だと009やキカイダーの方が、神学的命題はよく扱われていると思う。
 だからこれはあくまで、こっそりと編み込まれた糸の一本に過ぎず、私の曲解かもしれない。だが、本郷の自己犠牲を、イエスになぞらえている要素はかすかながらあると思う。イチローの半跏趺坐や、プラーナと言う言葉がサンスクリット語であることを考えると仏教的でもあるが。


 原作になぞった形で、一文字隼人は意識だけの本郷猛と戦いの旅に出る。
このとき、立花と滝が名前を明かす。ほぼ最後だ。立花と名乗るにはちょっとなあ、と思っていたが、一文字が要求したサイクロン号が用意できたわけで、バイクの供給者としては納得だ。
 竹ノ内豊といえば、シンウルトラマンでは「政府の男」 そして、仮面ライダーにおけるショッカーは、日本政府の計画に侵入するなどのルートを持つ。(「ショッカーの正体は日本政府」というのはデマらしいね)立花と滝もまた政府の男なので、これは裏にもう一枚、どんでん返しが隠されているのだろうか。
 シンゴジラやシンウルトラマンでも、こうした「この先どうなる?」という要素を残して物語は終わった。シン仮面ライダーもまた、こうして終わる。想像の余地を残して、示された空白の内側で、我々は少しだけ自由に遊べる。


 万人向けでは無いが、我々にはとても面白い映画だった。あちこちイビツで、清も濁もある。人に薦めづらいという点では、覚悟のススメにちょっと似た味わいがあるような気もする。
 途中まで「一回観れば十分かな」と思っていたが、もう一回、なんとかもう一回観てみたい。
 不思議な満足感のある映画だった。

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