「作品は 立派な人が 作るもの」と言う幻想

ちょっといつもの「40代からの独立」とは別のお話です。

 昨日、僕も大好きな、ある俳優兼ミュージシャンがコカイン所持の疑いで逮捕されました。もちろん、薬物所持は法律を違反していますし、その意味で社会的ルールを逸脱したという点で処罰を下されなくてはなりません。特に薬物は、依存含めて病的症状でもありますので、反省という形ではなくきちんと処置をした上でまた復帰してもらいたいと願っています。

 そして、この方が逮捕されるに当たって、どうしても今話題になっているのが「彼の出演していた作品がこれからどのように扱われるのか」。

 今までも数多く「出演者が犯罪を起こした場合、その出演作はお蔵入り(放送自粛)する」というスタンスが見受けられました。それこそ賛否両論数が多くあるのも承知です。

 僕は結構そのあたりシンプルに考えています。基本、商業作品であれば、販売のジャッジをする権利はスポンサーたる出資者がジャッジメントするしかない、と。あくまでビジネス的に判断し、自社のブランドに傷がつくと思えば販売を止めればいいし、無関係だと思えば販売継続すればいい。そこはとってもシンプルでいいと思ってるんです(といっても、数多くのスポンサー、製作陣が絡んでいる場合は全くもって簡単に判断できないことは承知の上ですが)

 ただ、その点とは別に、僕はこの件を考えて「ん?」と覚える違和感があるのです。

 それは、この「出演者が犯罪を起こした場合、その出演作はお蔵入り(放送自粛)する」の根底に「作品は 立派な人が 作るもの」という幻想が存在しているのではないか、という感情です。

 いや、そこまで掘り下げなくとも、自社の商品に犯罪を起こしていた人間が出ているのはまずい、うちの放送局の看板番組に犯罪者を起用して「犯罪組織とのつながり」など痛くない腹を探られるのは嫌だ、と思えば、それはそれで判断すればいいことだと思うのです。過去の作品においても同様。僕は過去の作品もすべて「万人のもの」ではなく、基本は「版権を持つ人がジャッジ権を有するもの」というシビアな資本主義的スタンスは崩してはならないと思っているのです。(と同時に、クリエイターとしての視点からいえば、それ自体も壊したい衝動がないわけではないのですが…それはまた別の話として)

 しかしながら同時に、この話を聞くにつれて、どうにも「タレントや映画俳優、ものづくりをする人はすべからく、犯罪を起こさない全方位善的な人間でなくてはならない」という風潮を感じるのです。

 別の言い方をすれば「立派な人、ちゃんとした生活を送る人、法律と道徳を守っている人の作った作品しか流通させてはならない。感動してはならない。利益を提供してはならない。」と。

 いや、それはちょっと待って。ちょっと待ってよ、と。

 あくまで、タレントや映画人、ミュージシャンも一介の人間です。サラリーマンと何の違いもありません。恋もして、食事もして、たまにはちょっとばかり足を踏み外して。(足を踏み外し度合いや迷惑かけ度合いなどにはいろいろあるにしろ)

 そしてタレントや映画人、ミュージシャンが大きなバジェットを手に入れているのは「品行方正な姿」を世に広め「立派な人間こそがスポットライトを浴びて世間から賞賛される役回りを持つからでしょうか。

 ここに関して、僕はあくまでも「否」だと答えます。

 あくまで演技力であったり、素晴らしい演奏であったり、作品を作る力であったり、そこに対して僕らは対価を払い、そしてその素晴らしさを享受しているのであり、決して「立派な人」「社会的尊敬できる偉人」「素晴らしい人が作る素晴らしい作品」を見に行ってるはずではないのです。

 もし仮に「風貌も美しく、人間的に立派で、素晴らしい人を崇め奉るために」メディアを見ていたとすると…僕はそれを「危険思想」と感じてしまいます。「立派な人間がメディアに出て語る」→「立派な発言に違いない」→「いうことを聞かないといけない」→「心理的扇動」と、非常に危ないメディアデモクラシーを感じてしまうのです。もう一度ジョージオーウェルの1984の時代まで遡ってこの世界を作り直さなきゃいけない気もします。

 舞台に立つ側、タレント、ミュージシャンの側はさておき。作り手のネームバリューに関しても。
 監督が不祥事を起こしたら作品がお蔵入りするケースも多々存在します。こちらも僕は違和感を覚えていて。
 やはり同様に「素晴らしい作品を作る人は立派に違いない」という、儒教思想というか「いい仕事をする人は立派な人に違いない」という「職人芸、才能、仕事能力=人格」という風潮を感じるのです。

 これまた僕は、「否」と答えたいところがありまして。

 いい作品を作れるから社会的にいい人間とは決して限りません。そもそも良い悪いを判断することも、人間同士の中では非常におこがましいのですが、少なくとも「お互いに定めた社会的規範」の中では、いい作品を作ることと、その「社会的規範を守れる力」にはなんの因果関係もないはずなのです。(むしろ相反する力関係があるのではないか、とさえ言われるほどに)

 経済的に大発展する会社の社長が全員、立派な人間かといえばそんなことは全くなく(中略)確かに「人知に汗水かいて世間に役に立つものを提供する奉仕者」としての側面があるからには、経済的に発展する経営者には「立派な人が多い」のかもしれません。ですが、人格的なものや奉仕精神と全く別の形でビジネスを成立させることができる現状、経済的成功と人格は切り離して考えるべきと考えます。

 自分の話に置き換えて大変もうしわけありませんが、私自身も恥ずかしながら一介の映像クリエイター、そして講師という恐れ多い役職についていると、ふと感じる時があるのです。僕の作品を好きと言ってくださる方や、受講生の方から「あ、この人は僕のことを人格者だと思っている」と感じる節が。
 僕のスタンスとしては「その方の想いを受けて、気持ちを裏切らないように、襟を正して立派に背中を見せてまいります」という感情があるとともに、やはり「やめて!そういう人間じゃないから!どうしようもなくだらしない人間なのだから!」という言い訳をしたくなる弱さも内包しています。

 話を戻して。
 「作品は、立派な人が作るもの」という考え方。
 これは、どこかで何か変えていかないと、いろいろと軋みが起きてくるんじゃないかと思っています。今回の作品回収騒動だってそうです。コカインを吸引する人が、名演技をしても名演奏をしても名ニワトリ追いかけをしてもいいわけです。そして僕らはあくまでも、その姿を、そのキャラクターを愛していればいいわけで。立派である必要なんてまるでないし、メディアに出る人がみんな立派である必要もないのです。それは見る側も「立派ではないけど、愛すべき人」という視線を送ることも含めて。

 「作品を作る能力」や「演ずる能力」と人格、及び「社会的規範を守る能力(これは人格とまた違います)」はまるで関係なく、その上で作品を享受したり、対価を払ったりする判断(その金額がどこに渡るのかも判断含めて)、それを版元も視聴者も考えながら行動をしていかなければいけないな、と思います。何も考えなくていいわけじゃない。彼の逮捕を受けても、その作品をどのようにこれから愛でていくのか、しっかりと考えていくべきなんだ、と。

 これで話を終わりにしたいのですが、この件、もう一つだけ思うところがあって。

「作品は立派な人が作るもの」という幻想。
これが壊れたら不都合な方々がいろいろいるのも承知しているのです。

例えば、これからクリエイターを目指す若者、経済的に成功した上で名誉を浴びたいと思ってアートに着手する経営者、などなど…。

作品を作ることで、世間からの自分の評価を一変させたい、一夜のチャンスで自分が世間から評価されたい、と願っている方々。(もちろん自分も含めて)

「どんな作品を作っても、あなたの人間としての評価は変わらない。
 品行方正な人間は品行方正だし、クズはどこまでいってもクズだ」

 ということも受け入れていかなければならないのです。
 ある意味、これから羽ばたこうとする方が、世間を見返すチャンスも一つ、失うことも覚悟しなければならないのです。
(そもそも、世間なんか見返したりする必要もないんだけどね。それを言い出すと長いのでまた今度)




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