40歳からの独立 -人材派遣会社をクビになり、映像クリエイターとして独立して4年-No.4 退職届けを出してから行ったこと

こんにちは。山本 輔です。
日々、Noteへの反響をいただきます。独立について皆様興味を持たれているのだな、という認識と、できる限り有益な情報を提供していかなければならない、という律する気持ちが出てまいります。
かといって、そんなに気負った記事ができるわけでもないのですけどね。
僕はただ、当時を振り返って、今に繋がる時間の流れに思いをはせる、だけなのです。

さて今回、テーマにするのは「退職届を出した後」です。
幸か不幸か、僕は会社から引留めは一切ありませんでした。まあ、その理由も推して知るべしでしょう。今となってはありがたい限りです。
翌日にはすぐ取締役会で人事手続きが始まり、人員補充に向けた対策が打たれ始めました。
今思えば、会社としても辞めさせたかったんじゃないかな、手にあまる人間だったんだろうな、と思います。退職に追い込んだ、と体感してもおかしくない状況ではありました(証拠はありません)。
「会社の求める行動基準に則った事務処理ができないなら辞めなさい。しかし、法的にこちらからやめさせるわけにもいかないし、貴方も40を超えて転職も独立も、どちらにしろ食べていく方法などないだろう。ゆえに、人として変わりなさい」という圧力を感じたのです。

いや、それ自体は間違ってないのです。「会社の求める行動基準に則った処理」ができない人は会社を辞めたほうがいいと思います。僕が経営者でも思いますから。それ自体は至極真っ当なのです。

僕にとって不納得だったのは、僕から「雇ってください御社のために頑張ります」と言って入った会社でないのに「うちの会社で働くためにはこの一般常識社会人としての節度を守ってもらわないと困る」と後出しじゃんけんで言われたことなのです。え、この僕にそれ求めるの?入社前に知ってたでしょ。というか転籍時に会社同士のやり取りの中で内密裏に「事務が苦手」「賢いがこだわりが強い」「身体の弱い妻がいる」「意外と気が弱い」とかパーソナルデータのやり取りしてたの知ってんねんで(そしてそのワードファイル見ながら、意外と合ってるな、と思ってた)。わかってて僕のこと奴隷売買したんやろ、と。まさかと思うが、「これくらいの部分は後で治せるし、普通に15年勤めてきた人間なら想定範囲外なことはないだろう」みたいに甘く考えてたんじゃないかな。残念でした僕は想定範囲外なのです。で、甘く考えて引き受けた責任を勝手にこっちにひっかぶらせるな、こっちは人生かかってんだよ、と。

なんというか、サラリーマン至上主義…「雇ってやっている」「生活費を与えてやっている」的なポジションからの話がとてつもなく不快だったのです。別に雇ってくださいと一言も言ってないわ来てくれ言うたからここにおるんじゃ、的な(ああ言っちゃった)(※前回の入社の経緯参照)うん、書きながら思う。これは扱いにくい社員だ。あまりにも鬱陶しい。

僕のことをご存知の方はよく承知かと思いますが、僕は人に自分の行動、思想を他者に変えられることを極端に唾棄する人間です。あまりにもその点において頑固であることは承知しています。
承知はしているけれど、それでも僕の意向関係なく売買されておいて、「業務改善」の名の下に人のパーソナリティを歪ませられるのは不快の一言でした。
その結果は「変わることを強制させられるくらいなら辞めてやる」「このままの役立たずな40代でもこの社会では生きていける。僕はそう思って、このまま変わらないで生き抜いてやる。(前回参照)意外とこのままの僕も他所様では役に立ててるみたいだぞ。このままでも価値を出せる人間を、あたかも『社会的な価値のない人間』と矯正させられることは心外だし、このままの人間を使えないのは会社の『ダイバーシティの欠落』としての認識を持って頂きたい。多様性の無い会社という認識ならそれはそれでいいけれど。その真を問う」という決断をしたのです。やっぱり鬱陶しい奴だね僕は。

その中、退職届を出した直後、僕はまず何を行ったか。
やったことは本当にただ一つ、でした。

「これまでにお世話になった方々にできる限り(物理的に)挨拶をすること」でした。

前々職の仲間、その会社のOBで別会社に移った方、地元の同級生、地元のお祭りの青年団の方、元上司、お世話になった取締役の方々、元の学校で知り合った卒業生…当時からSNS、Facebookなどのツールがありましたから、できる限りの方に「僕は独立して生きていきます。これまでありがとう。見守っていてください」というメッセージを、一人一人、足と時間と飲食代を用いて、できる限り別個に挨拶もしくは飲み会でご挨拶をしてまいりました。

その時に自分が心に留めていたのは「『お仕事ください』という思いを持ってはならない。あくまで、これまでのお礼を伝えに行くのだ。」という気概でした。

見え透いたこびへつらいはすぐ見透かされます。そして、誰かの庇護に入ろうとするその根性を持つ限りは、雇われ人と何も変わらなくなります。そうじゃない。そうじゃないんだ。僕はこれから一人で生きていくんだ。だからこそ、今までの感謝と、これからは「対等に」お世話になっていきます、という気持ちを皆さんに伝えていかなければならない、と思ったのです。

それゆえに、大きな会社かどうかとか、役職がどうかとか、そんなことは関係なく、仲の良かった方、精一杯僕をサポートしてくれた上司、金銭的、経済的打算を考えずに挨拶に行ったのを覚えています。

いや、そりゃね。お仕事をいただけるものはもちろんいただいたし、結論そこでとてもお世話になったことはたくさんあるのも事実です。でも、それを目的に挨拶をする、というのは、筋が違うだろう、という思いは常に持ち続けていたのです。

同時に、これだけコミュニケーションツールが発達した現在だからこそ、直接ご挨拶することの意味、時間と体力をかけることの意味、その挨拶を受け止めて、先方が時間を取ってくれることの意味をしっかり噛みしめて、自分を応援してくれる方に礼を尽くしたかったのです。

特に「ああ、ご挨拶ができて本当に良かった」と思えた方がいます。
その方は、2000年次、僕が一度独立をして、石川県でパソコンスクールを立ち上げたときに受講されていた、齢八十を超える御年の女性でした。
当時僕は27歳。孫にも至らぬ年端もいかない僕を「先生、先生」と呼んでくださって、パソコンに触れたこともないお方が、一生懸命PhotoshopやFlash(当時)を使ってアニメーションを作っていらっしゃったお姿、一緒に喜んでいたお姿を今でも覚えています。

その後、僕が再度上京してからというもの、年賀状だけのお付き合いになっておりました。

もう一度、独立をするからには、絶対にこの人には挨拶をしなければならない、と僕は思っていました。そして、そのために石川県に足を運びました。

その方は自宅に招きいれてくれて、本当に僕の退職、独立を、目を細めて喜んでお話を聞いてくれたのです。まるで僕を本当の孫のように扱ってくれたのです。その姿を見て、その応援を受けて、僕はしっかりとやっていかなければならないな、と、とても勇気付けられました。1年後、3年後、10年後に「僕はこんなことをやっていますよ」と、この方にちゃんと報告を出来るようにならないと…と。

そう。僕が「頑張ってきたことを報告すると喜んでくれる方がいる」という事実。これを知ることができたのが、独立して最初に手に入れた僕の宝物でした。
そして、それは今の僕のポリシーにも続いていきます。
ラジオ、オペラ、執筆…本業に多少デメリットがあろうとも「僕の名前で目立つ行動をする」のは、このように遠くにいる方に、僕の名前が風の便りで届くように。僕が元気で活動していることが何らかの形で伝わるように、なのです。たとえFacebookで繋がってない方でも。紙媒体しか目を通さない方でも。日々テレビからしか情報を得ない方でも。僕を応援してくれるみんなに、元気な姿が伝わるように。

ただ…本当に独立を覚悟するかといえば、実は転職の道も少しだけ後ろ髪を引かれていたのも、また事実です。
そして、この転職を考えていたこと自体が、僕の独立に思いっきりブーストをかけるきっかけになったのです。

次回はこの続き、退職届けを出してからの活動その2〜台湾とロサンゼルスとハリウッドとラジオ〜編に続きます。


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