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人は誰のために生きるか

おっ、なんだ。
硬そうだわね。

うっす。タスクです。

まぁなんでこんなタイトルにしたのかというと、祖母が最近逝去し、葬式を行った時に強く感じた事だったから。

同情が欲しくて書いたわけじゃないということだけ理解して頂けると嬉しい。

高校3年(18歳)、大学2年(20歳)、そして25歳の3回祖父母の死に触れたが、確実に「生きることそして死ぬこと」への捉え方が変わっていることに気づいたので、柄じゃないがとにかく書き殴りたいと思う。


まず基本的なスタンスとしては、過去全員天寿を全うしたので、「寂しさ」よりも「労い」が上回る感じ。

「もう会えない」「もっと話しておけばよかった」という気持ちもゼロではないが、「お疲れ様」「あなたの人生は幸せだったかい?」と言うような感覚が近い。

まあ自分より何十年も先輩なのだから、少し生意気なのかもしれないが、そこは孫だから大目に見ていて欲しい。笑


高校生と大学生の時は、労いの思いに加えて、「○○○が口癖だったなぁ」とか「しょっちゅう親(あっちからすると子)とケンカしてたなぁ笑」とかそんな思い出も振り返る。

2回とも亭主関白の色が濃い祖父との別れだったから、周りの親戚から武勇伝も聞きながら合掌。


しかし、今回の祖母との別れは違った。


過去2回の別れと確実に違ったのは、お葬式に来る方々を見るようになったこと。

視点が変わり「人は誰のために生きるか」という問いについて強く考えた
と同時に「なぜ人はその個人を全うするのか」と言うことについても深く考えた。

前置きが長かったかな。

タイトルに対する現時点での結論は

「人は自分だけの為に生きるのではなく、外部の為に生きるのではないか」


ということ。


それをなぜ感じたかというと、棺で眠った祖母に対して語りかける参列者の言葉に答えがある気がしたから。

「あんたはいつもああで、こうで〜」
「○○さんから色んな事言われてたけどでも頑張ったね」
「昔は△△だった時は助けられたよ〜」

など。

父から聞いたが、祖母は地域に貢献した過去があるとか、ビジネスで上手くいった経験があるとか、分かりやすい功績などは特にないと言う。

本当に普通の裕福でもない、むしろ貧乏家族をなんとなく支えた「ただの祖母」である。

上述のような僕にとっては「ただの祖母」と参列者の間に過去何があったかは分からないが、参列者からの一方的なやりとりを聞いて、確実に祖母は誰かの為に役立っていたのだと感じた。


そして、
「なぜ僕はタスクとして生まれたか」を強烈に考えた。

・自分の人生を豊かにする為?
・誰かを幸せにする為?


違う。


僕なりの25歳の段階での答えは

「たまたま」


なのである。


なぜ「たまたま」と言う答えが出たのかというと、それも今回の祖母の葬式で感じた。


祖母は「誰かの為に役立っていた祖母」になる為に生きたのだろうか?
多分、違う。
「偶然生まれて、その偶然を懸命に生きただけ」
なのである。
結果はどうあれ、彼女なりに時には闘ったり、時にはサボったりしながら。

言い換えると、「偶然」という檻の中で、精一杯生を全うしたまでな感じ。


祖母が祖母であるというアイデンティティは、生まれた瞬間に祖母の意思では確立できない。
生きていく中で他者がそういう「像」を作り上げるような気がする。

ひょっとしたらアフリカに住む人として生まれた可能性もあるし、もっといえばヒトじゃなくメダカとかネコとして地球に生まれたかもしれない。


だから祖母が祖母であることは「偶然」である。

その偶然を必死に生き抜いた結果、参列者の言葉を頂き、それが彼女の生きる意味だったのかもしれないと感じた。


養老孟司の「バカの壁」にもある

「人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる」

という言葉に対する納得感が凄まじかった。もちろん今回の葬式を通して。


残すは母方の母(おばあちゃん)のみ。

労いの気持ちを持ってお見送りできるラストチャンス。

とりあえず僕は自分のペースで頑張ります。

合掌🙏

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