記憶の縄釣瓶petit: 差別の記憶。

関東大震災から100年だそうだ。これを機にたった100年前にこの国で起きた流言蜚語と差別感情による大惨事、大虐殺についてさまざまに取り上げれている。何か囀ろうと書きかけたが、とても言葉が続かない。

現在の僕たちは世界中どこへ行っても、アジア人だから、日本人だからといった人種的理由で差別されることはまずない。だが一度だけ、差別されていると感じたことがあった。

1990年代の前半、ヨーロッパの何か国かを旅した。その数年前に旅をした際には、フランスでフランス語を解しない者をやや見下す視線を感じたことはあった。しかしその頃はもう西ヨーロッパで差別的視線を感じることはなくなっていた。
ベルリンの壁が崩壊したのは1989年。前回の旅では緊張しながらチャーリーズ・ポイントを通って東ベルリンを歩き回ったが、その旅ではすでに自由に出入りできるようになったチェコのプラハを訪ねた(東京でビザをもらうため訪れた麻布の旧チェコスロバキア大使館は、門を入って右側はチェコ大使館、左側はスロバキア大使館ということになっていた)。
プラハは本当に美しい街だった。出来たばかりのマクドナルドの前には、小銭を入れてもらうための鍋を置いたホームレス(僕の記憶に微かにある「乞食」である)がまだいたが、脳裏には10歳のときに見た「プラハの春」のソ連軍戦車の映像と、数年前のビロード革命、そしてスメタナの『モルダウ』が流れていた。
ビロード革命のニュースで見たヴァーツラフ広場を訪ね、モルダウ川に架かるカレル橋の橋桁に近い、河原にテーブルを並べたカフェの椅子に腰をかけた。外カフェのテーブルを担当するウェイターは20代の若者二人。「エキュスキューズミー」と声をかけた。「ウェイタミニッツ」との応え。しかし待ってもテーブルに来ない。改めて「エクスキューズミー」と声をかける。「ウェイタミニッツ」との応え。
周りには欧米の観光客が溢れていた。そんなときもう長いこと旅をしている風情の、日本人バックパッカーが声をかけてきた。「日本人?」「ええ」。実はその後の展開はよく覚えていない。彼は暴力的な口調の英語でビールをゲットして去っていったか、それとも「ここでなんか頼もうとしても無駄だよ」という言葉だけ残していったか。しかしその後も「エクスキューズミー」と「ウェイタミニッツ」の繰り返しは続いた。
そんな状態で30分ほどが経過しただろうか。隣のテーブルの中高年のアメリカ人観光客夫婦の夫がウェイターを呼び止めた。僕の方を指し「彼の注文を聞いてやれ」と言ってくれた。若いウェイターはやっとぼくのテーブルに来て注文をとり、ビールにありつくことができた。僕はアメリカ人夫妻に丁寧な謝礼を言うよりも前に、涙が込み上げてきていた。

大した話ではない。しかし人種や民族で差別されるというのはこれほどまでに屈辱的なのだと言うことを、この大したことのない経験で体感した。

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