山岸さんのこと。(10)

これで完結としよう。「山岸さんのこと。」という標題から少し離れてしまった気がしないでもないが仕方ない。とりあえずまとめておく必要はある。
山岸さんの死から12年経過した2020年秋、それは当然夜中に一人で飲んでいて一人で思い出して一人で思いついたからに間違いないのだが、あの名簿のことについて翌日SRに電話を入れた。なんとか復旧するか最終プリントを探し出して連絡すると約束した日からでも10年、さらに12年、またさらに12年経過したら、ほとんどの関係者がこの世からいなくなってしまう。現世と記憶と、生とその痕跡と、なにが大事なのかわからないが、とりあえず生きている今は現世の記録を大事だと感じる。
ぼくは「相談したいことがあるので昼飯でも食いませんか」と言った。麻布十番の交差点を挟んで再会したSRは、僕にとって以前にも増して遠い存在になっていた。前の年にひどい神経痛に苦しんで以来、外出時に杖をつくのが習慣化し、10センチ近く身長が低くなっていたぼくに、彼女は「どうしちゃったの」と声をかけ、ぼくは「まあいろいろあったけどぜんぜん平気」と答えた。
彼女は和食屋へ行こうと言ったが聞くとランチタイムだけの営業。もう店を閉めるからと急かされるのが嫌なので、ゆっくり話ができる店はないかと聞いて午後休みなく営業しているという牛タン屋に入りぼくはビールを注文した。こちらは一日二食、間食なしだった若いころとすっかり変わって、もう一気には食えなくなっていたが、時間をかけて少しずつなら結構食えるし飲めもする肉体に、進化いや変化していた。
近況報告をかねて、ぼくはTwitterに投稿した原稿やその年の初めに小林とやりとりしたメールを彼女のアドレスに転送した。喋るのが面倒だったし、人は他人の話をそんなに聞いていないものだということを覚えるには時間もかかったが、文字にすると意外にも理解してもらえることが多いことを知ったのは、今の配偶者と暮らし始めてだいぶ年月を過ごしてからのことかも知れない。
その席でぼくは以下のことを提案、お願いし、彼女も了解した。それは「あの名簿のデータの復旧か最終的プリントの発見をしてほしい。そのための協力はしたい」ということだった。これまでのようにうやむやのまま時間が過ぎることは避けたかったので、1月末までという期限を設けることにもした。
その日彼女と別れたあと、座って煙草を吸えるところを探したが麻布十番の街もしばしば訪れた20年前とは様変わりして、結局禁煙の表示が掲げられているバス停で一服だけし、地下鉄に乗った。家に帰り着くか着かないかのうちに、SRから「山岸さんの会」全員へ向けた一斉メールが届いた。今日のぼくとの話を伝えるものだったが、その中には話の誤解もあり、また曲解と取れるような内容もあったので、訂正するように彼女にメールを送った。何度かメールのやり取りがあったかもしれない。何度めかの彼女からのメールには「今後は個人的なメールではなく、会のみんなが見れるようなメールにしてください」とあった。こんな元夫婦のやり取りを読んで面白い人がいるとも思えない。またぼくはSRのことを晒すつもりもない。ただこの項を書くにあたってぼくの心の動きを記すためには避けて通れないと感じ書いている。
SRの「山岸さんの会」全員へ向けての一斉メール以降、会がまた動き出した。SRはデータ復旧に行動を始め、逐一メールで全員に報告し、何人かが反応をくれ始めた。一方ぼくは、年末から年始、2月くらいまで気力も体調も底の状態だった。今年に入ってから「山岸さんの会」の一斉メールには反応していないし、こちらから会のメーリングリストに送信もしていない。とりあえずは、底にいろんなものが沈んだまま静まり返っていた池に、小石を投げ込んでちょっと波紋が立ったかなという気持ちだった。
そんな中SRからは「ASさんの写真が出てきました」とか「しのぶ会の録音がありましたので国立新美術館に寄贈します」といったメールが送信されていた。山岸さんの遺品中の「作品」に類するものはTHがどこかに保管していたようだ。焼却されたというのはぼくの記憶違いらしい。それらの「作品」はHK氏の努力で多摩美に寄贈される方向で話が進んでいるらしい。そんな結論に至っていないことをこんな場で公したらいけないのかも知れない。いや多分いけない。
だがそもそも「山岸さんの会」とは一体なんだったのか。公の機関ではない。誰からもなんの権利も与えられていない。いわば山岸さんの記憶を残したいという個々の気持ちで集まった自主的なグループだ。そのグループが、個人情報とか、コンセンサスとか、公とか言っていることに、ぼくはもう疲れていた。
ただ心に引っ掛かっていることはある。SRが今年新たに国立新美術館に寄贈するといっている資料、THが保管しHK氏により多摩美との折衝が進んでいる作品類、その具体的内容が会のメンバーに知らされていない気がしているのだ。ただこれは気がしているだけで、ぼくの勝手な勘違い、記憶違いかも知れないが。

山岸さんが言っていた「俺の記憶は墓場まで持っていく」という言葉。THがまとめた本のページをめくりながら、もしかするとぼくらは、みんなで山岸さんの心情に反したことをやっているのではないかと思うことがある。生きた現場、生きた表現、生きた批評、生きた芸術、それを彼は追い求めて生きた。
しかし同時に、あらゆる人が目撃し、あらゆる人が参加し、あらゆる人が記憶に刻んだ日本橋と神田のある状況が、かつてあったことは事実だ。多くの表現者の表現とともに。
そしてそこに山岸信郎という人がいつもいたという事実とともに。
(了)

附記
この記事を書くにあたって、ぼくはいくつかのことを自分に課した。
ひとつはできる限り記憶を文字として吐き出していくことに努め、資料を探らないということ。ただしあくまでできる限りであり、まったくという意味ではない。結果として事実と異なることが数多くあるだろう。例えば山岸夫人の名前を芳枝さんと記憶していたが、東文研のサイトには良枝という表記があった。
記憶というのは当然、曖昧なものだ。それも人によりその曖昧さの位相は異なる。中には明らかに記憶を書き替えている人にも何人か出会ってきた。言い訳染みるがぼくの場合は映像的記憶が最も鮮明に刻まれている。次に音響的記憶。前後関係や因果関係、言語的記憶はかなり怪しい。人の名前を覚えるのが苦手でよく忘れたりするのだが、見事なまでに一回会っただけの人の名を脳に刻みつける人もいる。また、驚くほど数多くの知り合いの誕生日を記憶している友人もいた。
ただ不思議なもので、記憶というのは引き出しから引きずり出すと、釣瓶井戸の縄を引き上げるように深い暗闇の中からその姿を現してきたりもする。
この13年の間にぼくが使用するマッキントッシュは確か二度クラッシュし、その度にメールデータは失われた。まだクラウドなどない時代である。一部の重要なテキストとIllustratorやInDsignで制作したファイル、そしてあのボイスレコーダーの音声ファイルは、USBメモリにとりあえず保管されている。山岸さん関連のメールのやり取りとりは 2008年から2009年にかけてのものはすべてプリントして、山岸さんと対話した際にメモした殴り書きとともに、プラスチック製の行李に収まっているはずだが、それを整理する日がいつ訪れてくれるか…。
まあそんな事情なので、明らかな記憶違いや事実と異なることがあればご指摘いただきたい。この点についてはこういうメディアの便利なところ、随時修正を加えて更新したい。
次に人名表記に厳密なルールはない。一般的な出版物であれば、人名表記には一定のルールを定め、当然それに従って表記を統一する。敬称を入れるか入れないかといったいったことだ。この記事には固有名詞表記とイニシャル表記が混在している。大雑把にいえば内容に深く関わる、固有名詞を外せないと思った人は固有名詞表記、また歴史的人物や一般的な著名人も固有名詞表記、そして名前出しても許してくれるだろうという親しい人間も固有名詞表記である。名前を記す(晒す)以上は本人の了解を得るべきだ、あるいは問題が生じるかも知れない人はイニシャル表記とした。しかし厳密ではない。どちらかといえば書いている時点での気分による。敬称も、氏とさんと呼び捨てがある。これもまったく厳密ではなく、ある意味ぼくにとってのその人との距離感のあらわれのようなものだ。
こういった気分や距離感といったものは、たとえば絵画における筆致のようなものとご理解いただきたい。

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