山岸さんのこと。(9)

「山岸さんの会」が解散した後、気にかかっていたことが二つあった。
ひとつは資料の類は国立新美術館に寄贈されたが、作品類はどうなったか。著作権が絡む問題であり、所有権についても定かではないものが多かった。結果「山岸さんの会」としては処理しきれない(関わるべきではない)ということとなり、すべて遺族に委ねるという決論だったと理解していた。THからはすべて遺族に引き渡し、ぼくは遺族によって焼却されたと聞いたように記憶していたが、それが記憶違いだったらしいことが後日判明する。
もうひとつは、「しのぶ会」の案内発送のため、画廊の名簿と通夜・葬儀の芳名録、「山岸さんの会」メンバーの情報を集約して作られた、山岸さんや画廊と関わりのある人々の名簿データである。個人情報保護が当たり前の時代、易々と公開したり利用するべきではないと思うが、貴重なデータであることに間違いはない。山岸さんの死から二年ほど経った2010年頃だったと思う、ぼくは会の事務局役だったSRに名簿データについて電話で訊ねた。ところがSRのパソコンが壊れデータが見れない、プリントも見つからないと言う。貴重なデータだから、なんとか救出するか最終のプリントを探し出して連絡してほしいと言って電話をきった。
それから10年以上が経過した。
その間にTHは『田村画廊ノート あるアホの一生」を書籍化した。山岸さんがさまざまな媒体に寄稿したものと、彼の個人的なノートに記したメモをまとめたものである。THは山岸さんの生前にノートを本にしたいと申し出て許可を得たらしい(サブタイトルはその会話の中で、タイトルどうしましょうという質問に山岸さんが答えたものらしいが、もしかすると「或阿呆の一生」ではなかったのかと想像する)。さらにTHはAS氏とMJ氏の協力を得て、京都と東京で『あるアホの一生 田村画廊ノート展」展を開いた。
遡って山岸さんの死の直後から、FH氏は編集する「あいだ」誌で山岸さんを偲ぶ不定期連載を開始し、多くの人の貴重な証言を活字化した。その行動の早さはまさにジャーナリストで、まだ心の整理がつかないぼくに執筆依頼のメールが届き、ずいぶん先延ばしさせてもらってしまったことを憶えている。連載末期に遅れて送ったぼくの原稿に対するチェックも優秀な編集者の鏡ともいえる、流石な指摘に満ちた仕事ぶりに舌を巻いたし、あらためて勉強させられた。
みなそれぞれに、山岸さんの記憶と彼の足跡を世に残したいと考え、エネルギーを注いできた。特にTHの努力と労力は、彼にとっていかに山岸さんが大きく重要な存在だったかを窺わせてくれる。ぼくはといえば、神田・日本橋界隈の戦後現代美術の記録や山岸さんの記憶を一冊にまとめるなどという、時間もエネルギーも金銭的余裕もないままただ時を過ごした。かつて数々の出版社との付き合いのなかでともに仕事をした編集者たちの多くは会社からいなくなり、一部は役員となり、なかには代表取締役になった人もいるが、彼らもワンマン創業者ではない、現場に「こういう本を作れ」と指示するような立場とは異なっていた。
一方メディアの主役は紙の活字からデジタルに急速に変わっていた。そんな時代の変容のなかで、日本橋・神田エリアの記憶と山岸さんのことをなんらかのデジタル情報としてアーカイブ化できないかと考えていた。かつて「山岸信郎」で検索して上位に表示された作家OMのブログは洞察に満ちた貴重な記録だ。山岸さんの死の直後にも、作家のMTをはじめとする何人かがその記憶をネット上に上げていた。
(この項つづく)

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