カレーの記憶。

「カレーの記憶」なんていうタイトルをつけると、おそらく日本人である限り100人いれば100通りのさまざまなカレーの記憶があるのではないだろうか。
記憶というものは極めて個人的なものだ。しかしだからこそその中のひとつの記憶を(誰も興味がなくても)、その形が曖昧さを増していき霞の向こう側に消え去る前に、記しておこうと思い立った。

「モナカカレー」
昭和中期生まれの僕にとって当然、最初のカレーの記憶は母が家で作るカレーライスだ。記憶に残る最古のカレールーはエスビーの「モナカカレー」。文字通りモナカ状の形態の中にミックススパイス=カレー粉が入っていた。モナカの皮=焼いた小麦粉がとろみをつける役割を果たしていたのだと思う。

「グリコワンタッチカレー」→「エスビーゴールデンカレー」→「エスビーゴールデン・フォンドボーディナーカレー」
程なくして我が家のカレールーは「グリコワンタッチカレー」になる。今のカレールーと同じ、割りやすいチョコレート状の形態をしたルーが銀紙に包まれてパッケージに収まっている。当時相次いで発売された「オリエンタル即席カレー」「明治キンケイインドカレー」など新しい銘柄を母は次々に試していたが、おそらく自分の舌と最終的な食べ手である僕の舌の判断によって(兄たちは母の出す料理にあまり論評しなかった)、大阪発のグリコに落ち着いたと記憶する。大阪発と言えば、後に大塚の「ボンカレー」が我が家の台所には欠かさず常備されることになるが、なぜか同じ大阪発ハウスのカレーを(ルーもレトルトも)美味しいと思ったことはない。
グリコの時代が1年だったのか3年だったのか定かではない。そんななか東京のカレー粉メーカー、エスビーが「エスビーゴールデンカレー」を発売する。これは決定打だった。このルーによって我が家のカレーはグリコからエスビーに戻ることになる。やがて「エスビーゴールデン・フォンドボーディナーカレー」が登場する。極まっていた。本当に美味かった。今でも欧風のとろみのついたカレールーで、これを超えるものはないかも知れない。

「ボンカレー」
レトルトカレーの登場である。僕の「ボンカレー」の記憶は、土曜夜の『巨人の星』の放送で流れる笑福亭仁鶴師匠の「ボンボンカレーボンカレー、ボーンンカレエー」という『子連れ狼』のパロディCMと共にある。こちらはすぐに腹が減る十代前半。腹が減ったらボンカレーであった。台所に立つのが好きで幼い頃から母の手伝いで料理していた僕はもちろん、めったに台所に立たない次兄もしばしばボンカレーを作っていた(3分間待つだけだが)。それでも長兄がボンカレーを作るのは見たことがない。いま考えるとすでに彼は食い気より色気の年齢になっていた。

皿を舐める
家の夕食がカレーのときは大抵お代わりをした。そして最後に皿を舐めた。やがて外でお金を払ってカレーを食べるようになっても、最後に皿を舐める衝動を抑えるのには20代半ばまで苦労していたような気がする。

そば屋のカレー
家から離れたところで、街ではそこそこ大きな店を経営していた父を手伝い、母は日中父の店にいた。小学校帰りの僕は、しばしば家より近いその店に行って母の仕事が終わるのを待っていた。確か5階建だった店の半地下売り場の奥に「社員食堂」があった。「社員食堂」といってもそこで何か調理してくれる人がいるわけではない。社員が弁当を食べたり出前を食べたりする空間で、休憩所も兼ねていた。僕はそこで母を待つことが多かったが、土曜日などは出前を取ってもらいお昼にすることも多かった。その店の名前がどうしても思い出せなくて悔しいのだが(「竹林」だったような気もするが)歩いて2〜3分のところにあるそば屋のカレーライスが、家のカレーとまったく違うものでこれも好きだった。今から想像すれば、小麦粉とカレー粉を炒めてそばつゆでのばし、豚コマと玉ねぎを入れたようなものなのだが、今でも忘れられないのは、玉ねぎを縦に6等分くらいにしてそれを横に2等分にした切り方の玉葱の旨さである。今でもカレーを作るときにはあの玉葱の旨さを再現したいと考えてしまう。

「サンバード」
少し前にtweetしたのだが、僕が小学校高学年から中学生にかけて、父の羽振りは相当良くなって、僕らが幼いころ親しんだ「サンダーバード」という名と同じ名のついた車を、運転手に運転させて全国を飛び回るようになっていた。同時に東京のメディア関係の人脈も築き始め、テレビに出ている人を埼玉の新築した自宅に招待することも多くなった。そんな父だが時間を見つけては自らの運転で家族を都内のいろいろな店に連れて行ってくれた。
有楽町の高架下にあった「サンバード」というカレー店もそのひとつだ。エスビー直営の店だった。「S&BはSunとBirdなのか」とそのとき思ったが、元はと言えば「日鶏印カレー」。さらになぜ日鶏印なのかといえば、大正から昭和にかけて西洋料理店で使われるカレー粉は多くがイギリス製の「C&B」のカレー粉で、それに対抗した(もじった)ネーミングだったようだ。肝心のカレーの味はといえば、家で作る「エスビーゴールデン・フォンドボーディナーカレー」を超えるものではなかった記憶しかない。

「C&C」
都内の中学に通い始めラグビー部に入ると、日曜日に他校と試合をする機会が生じる。でもラグビー専用グラウンドのある学校など少なく、小田急線沿線のS学園グラウンドで試合をすることが多かった。昼過ぎの試合に備え午前中に新宿駅で集合する、そんなときは駅構内のカレースタンドで腹ごしらえをする。
新宿駅西口の小田急エリアから京王エリアに斜めに抜ける小さな通路に、そのころからのお決まり立ち食いカレースタンド「C&C」は、多少姿を変えつつ今もある。京王電鉄が経営する(現在は京王レストラン経営)、東京のカレー好きには知られたカレースタンドの名店だ。実際ここのカレーはスパイシーで美味しい。現在店舗数全国一を誇る中京地区発祥チェーンの、スパイシーさの欠片らもないカレーとは大違いだ。「C&C」はやがて京王沿線を中心に店舗網を増やし、‪一時‬期はカレー激戦区とも言われる神保町にも2店舗を構えていた。
ただそれだけではない。その後もこのチェーンとのつき合いは、長く続くことになる。大学時代のラグビー部の試合は、中央線沿線に集中する美大のグラウンドが多かった。やはり新宿駅で集合である。そして20代後半、京王電鉄明大前駅を利用する街に住んで夕方出勤の会社に勤めるようになると、出勤前の「C&C」はほぼ日課となった。注文は「ポークカレー辛口」か「魚フライカレー辛口」、ときにはゆで卵をトッピング。カウンターに置かれた福神漬けとらっきょうもたっぷりといただく。「カツカレー」は残念ながら肉が悲しく、カツが揚げ置きのためほとんど注文しなかった。その後少しずつ進化し、温泉卵や温野菜のトッピング、特厚カツカレーも登場した(これは注文が少ないため注文を受けてから揚げてくれることが多かった)。
最近もたまに「C&C」のカレーを食べたくなる。そんなときは有楽町駅のJR高架下にある店でレトルトを買ってくる。ただ家で食べるとあんなに美味しいと感じていた「ポークカレー辛口」が少し塩辛く感じる。カレーというのは、家で食べるか外で食べるか、テーブルに座って食べるか立って(あるいは回転椅子に座って)カウンターで食べるかでは味わいが異るということを、この頃になって気づいた。

インド料理との出会い
いちばん困る項目を立ててしまった。実は僕のインド料理との出会いは、いくら思い出そうとしても思い出せない。高校生の頃か、浪人の頃か。エポックメーキングなどなく、それくらいいろいろ一気に来たのだと思う。70年代、雑誌を読むようになった僕に海外情報やホンバモノについての情報が押し寄せていた。映画を見に行って東銀座「東劇」のそばにあった「ナイル」に吸い寄せられたか、写真用品かフィルムを買いに新宿西口の「淀橋カメラ」に行き「ボンベイ」を見つけたか、ビートルズの四人はみな髭を伸ばし、若者の間ではインドブームが頂点へ届こうとしていた。

「ボンベイ」
学校帰りに新宿で電車を降りることが多くなっていた。「新宿フォークゲリラ」なんてのは過去の物語としてしか捉えられない僕らだったが、西口には「フーテン」と呼ばれる若者たちがたむろし、その中に、ある事件をきっかけに一切学校に来なくなった学年のアイドル的存在の女の子が、おそらくシンナーでラリっているのを目撃したりもした。
だが僕の目的は激安「淀橋カメラ」だ。現在「ヨドバシカメラ」新宿西口店があるのとさほど変わらない場所に、知る人ぞ知る問屋のような「淀橋カメラ」はあった。おそらくその先を腹でも減って探索したのだろう、淀橋の左側の道を少し進んだところに「ボンベイ」があった。

インドカレーを作る
「ボンベイ」の各テーブルには、正確な名称は思い出せないが「ボンベイ通信」的な、4ページだったか8ページだったか、A6版程度の小冊子が置いてあった。当時の飲食店はそういうものを置いているところが多かった。その最終ページに、インド大使夫人がエッセイとともにインド料理のレシピを紹介するコラムがあった。
子供のころから台所に立つのが好きで、自分で好きなものは率先して母の手伝いをしながら料理するようになっていた僕は、母の作らないものを作ろうと考える年齢に達していた。
「ボンベイ」の冊子の最終ページを参考に、初めてインド風のカレーを作ろうと思った。インド料理店のメニューを見ても、カレーとマサラとコルマがどう違うのかも分からなかったが(今でもわからない)。
クミン、ターメリック、クローブ、コリアンダー、カルダモン、タイム、ナツメグ、シナモン、キャラウェイ…おそらく西武百貨店地下でレシピにあるスパイスをなんとか揃えた。当時スーパーでは手に入らないものばかりだ。しかし僕が作ろうと思ったのは「マトンカレー」。「マトン肉」は西武百貨店にもなかったと思う。アメ横など行ったこともない当時の僕は、確か青山紀ノ国屋で手に入れた気がする。
大蒜、生姜、玉葱、人参はいうまでもなく、ヨーグルトに漬け込んだマトンにトマト、セロリとパセリをたっぷりと入れて煮込んだマトンカレーは本当に美味かった。
これは今でも自信を持って誰にでも振るまえる、例えばかつて『danchyu 』誌でNo.1に輝いた駿河台下「エチオピア」のカレーを超える、最高の美味さと自負している。ただなにせ準備と手間がかかるので最近はなかなか作る気になれない。

醤油、ケチャップ、チョコレート、インスタントコーヒー
一応このことにも触れておこう。カレーに「醤油、ケチャップ、チョコレート、インスタントコーヒーを入れると旨さが増す」という説があるが、それは正しい。あるいは味噌もマヨネーズも七味も柚子胡椒も、もちろんナンプラーもオイスターソースもチリソースもリンゴもハチミツもみんな正しい。カレーは味と香りのカーニバルである。

「デリー」
大学に入ってつき合った女性は違う科の2年先輩だった。新宿区生まれで千代田区育ち、まあお嬢さんだ(彼女は上野、御徒町周辺の老舗、銘店をよく教えてくれた)。当時僕らの学校の学生は、飲みに行くといえば上野広小路、御徒町、湯島界隈と決まっていた。まだ1年生の1学期だったと思う、もしかするとつき合い始める前だったかも知れない、上野の「デリー」に連れて行ってくれた。今や「銀座デリー」となってしまった「デリー」の元々の店だ。住所は湯島だから「湯島デリー」という言い方もある。
今でも変わっていないと思うが、7〜8坪ほどの細長い店は右側が厨房、左側の壁に沿って2〜4人がけのテーブル席が4つ。テーブルと厨房の間にカウンターがあり、5〜6人座れただろうか。
6種類くらい並んだメニューから彼女は迷わず「カシミールカレー」を注文し、僕にも勧めた。辛かった。辛いもの好きを吹聴していたが、生まれて初めて経験する、渋谷東急文化会館にあった赤坂四川飯店の坦々麺を超える辛さだった(それを超える辛さはタイ料理の上陸を待つしかない)。彼女はその辛いとろみのないカレーをスープのように啜りつつ、それと交互にご飯を口に入れた。「こう食べた方が美味しい」と彼女は言った。僕もそれを真似た。
その後6年間、週に1〜2回の割で、飲みに行く前は友人や後輩を誘ってデリーで腹ごしらえをするようになった。友人たちの中には僕と同じく虜になる者も多かったが、中にはあまりの辛さに泣き出してしまう音校の女子もいた。

「アジャンタ」
やはり大学時代の記憶、東京のもうひとつのインド料理草分け店の話。九段の靖國神社の大鳥居の右側を少し奥へ入ったところに、現在麹町二番町にある「アジャンタ」はあった。戦前に建てられたであろう洋風のお屋敷を改装した趣のある店だった。メニュー構成は多彩、「ナイル」や「デリー」と異なる(といっても現在どこでも見かけるインド料理店のメニューの原型と言ってよい)本格北インド料理の店で、近所のインド大使館関係の客が多かった。ここで僕は、子供の頃から話では聞いていたインド人は手でご飯を食べるという姿を、初めて目撃したかも知れない。
その後洋館は取り壊され、現在地に移転して24時間営業になったこともあり、仕事終わりに何度か訪れたが、いつもカレーの温度がぬるく、次第に足が遠のいた。

「ナイル」
すで触れている「ナイル」について記す。
A.M.ナイル氏は1928年京都帝国大学工学部に留学するため来日。その後、インド独立闘争のリーダーであり新宿中村屋に匿われて中村屋にインドカリーのレシピを伝授したと伝えられる、ラス・ビハリ・ボースの右腕として「アジア主義」の大きなうねりの中、満州、シンガポール等へ渡り「インド独立政府」や「インド独立軍」の設立に関わった。アジアを植民地支配していた西欧や、インドを支配していたイギリスと戦う日本の「大東亜共栄圏」思想は、いま僕らが考える(学んできた)ものとは少し異るものとして、彼らの目に映っていたことが充分想像できる。
そんな中1944年に、日本女性との間にG.M.ナイル氏が生まれている。終戦直後は、それまでイギリス政府から要注意人物とされていたため一時身を隠したらしいが、極東軍事裁判のパール判事の通訳を務め、1947年に、独立したインドの国籍が回復されたとwikipedeia にはある。
1949年、東銀座にインド料理店「ナイルレストラン」を開業。さらに1952年「ナイル商会」を設立し、インドからのスパイス直輸入事業を始める。
子供のころ、家から所沢へと向かう所沢街道沿いに「インドカレー粉」の大きな看板が掲げられた工場があった。その前を車で通ると、カレーの香りが漂っていた(ような気がする)。これが言ってみれば「ナイル」と僕との最初の出会いなのだろう。西武鉄道沿線に工場を構えた縁かどうかは知らないが、池袋の西武百貨店には(デパートが今ほど専門店テナントを誘致するのが常識でなかった時代から)「銀座ナイル」のテナントがあったと記憶している。
「ナイル」のカレーを食べたのは池袋が先だったか本店が先だったか記憶にない。初めて東銀座の「ナイル」に入ったのはたぶん1970年代末、東劇で映画を観た帰りだったろうか。古びた建物だが本格派の匂い。すでに店は30代のG.M.氏が切り盛りし、A.M.氏は入口脇のレジにでんと腰を掛けていた。
コンクリート製(だったと思う…それとも土間だったか)の床は傾き、そこに並べられた錆びた鉄パイプ製のテーブルの天板には「日印親善は食卓から」と染め抜かれた、ターメリック色の特性テーブルクロスがFRP樹脂で固められていた。レトロを気取って客を集められる時代でもない。一方の事業ではそれなりに収益を上げていたはずだが、今から考えるとA.M..氏は思い出の込もった開店当初のお店を、維持し続けたかったに違いない。
テーブルに座るとメニューを見ている客に「ムルギランチいかがですか、ムルギランチ美味しいですよ」と強引にムルギランチを勧めるスタイルはその頃から定着していた。実際美味しいから仕方ない。三度目あたりからはメニューなど持ってこない。テーブルに座るなりこちらが「ムルギランチ」と言うか、あちらが「ムルギランチでいいですね」と言うかだけの話になってくる。
店は「あたしゃ江戸っ子だっから」と言う見た目インド人のG.M.氏が切り盛りし、店の入り口にはA.M.爺さんがどっしりと座っている。通り掛かった一見さん、店の中を覗きながら入ろうかどうしようか迷っていると、爺さんおいでおいでのジェスチャーをする。それを見た一見さん、爺さんの迫力ある佇まいに、入るのを諦め行ってしまうというのがありし日の「ナイル」の日常だった。
大学を出て20代後半に東銀座の会社に勤め始めると「ナイル」との関わりは(当然)更に深くなった。週に一度は必ずムルギランチを食べたくなった…ほぼ中毒になっていた。みんなで夕食を食べに行くのが日課の会社で、週のうち一日は「ナイル」と決まっていた。お店を(ついに)改装すると一月ほど休業した際のこと、出産を控え会社を辞めることになった同僚のため、特別に店を開けてくれてパーティーをしたりもした。メニューにない、さまざまなインド料理がテーブルに並んだ。
A.M.爺さんが座るレジそばのテーブルでムルギランチを注文すると「混ぜて食べてください、混ぜた方が美味しいよ」という「指示」が飛んでくる。もちろんほかのテーブルでもG.M.さんや従業員が「混ぜて食べてください、混ぜた方が美味しいですよ」と声をかける。そんななか僕は頑なに混ぜずにムルギランチを食べた。混ぜると味がぼやけて感じた。一緒に盛られたものを混ぜずに一緒に口に入れる、島国日本的嗜好を貫いた。馴染になればうるさくは言われない、そんな関係になっていた。何度も通っているうちには、サイドメニューを頼もうかという余裕も出てくる。そんなときは「メニューください」と言えばいい。「インド風オムレツ」「カバーブ」「プラオ」…どれも美味しいが、僕は「ラサムスープ」と「アチャル」を欠かさず注文するようになっていた(超名物「パッパル」はアルコールを頼めばお通しとして出てくる)。
80年代後半、エスニックブーム、グルメブーム、レトロブームのなか、夕方になると店の前に行列が出来るようになっていた。外に人が並んでいるときに食事が終ってもテーブルでおしゃべりを続けている客には、決まった儀式が待っている。番頭さん(と僕らが勝手に呼んでいたインド人従業員)が、まずお皿を下げる、テーブルを拭く、コップの水を替える、それでも気付かない客には「お客さんすいません、待ってる人いるからね、そろそろいいですか」。儀式を先延ばしするためにはインド紅茶や甘ーいマンゴーを注文すればいいのだが、それにも限度はある。

そんな僕らが通っていたころ、A.M.ナイル氏はレジから姿を消し、そして亡くなった。現在日本生まれの奥さんとともに、故郷インドの地に眠っている。

以上が30代始めまでの僕の、おおまかな「カレーの記憶」だ。その後もさまざまな店を訪れ、さまざまなカレーを食し、家ではさまざまなカレー料理に挑戦した。しかしここまで書いてきて、記しておくべき記憶とは人生の前半までがすべてなのかも知れない、という気がしてきた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?