山岸さんのこと。(6)

2008年夏、二泊の予定で山岸さんと共に山形市内の実家を訪れたのは、7月末から8月頭のことだったと記憶する。東北・山形新幹線に乗るため「上野駅で待ち合わせましょう」と山岸さんは言った。「いやいや、今は東京駅から出ていますよ」と東京駅八重洲口で待ち合わせ地下へ向かった。すでに以前から心臓にペースメーカーをつけていた山岸さんは身障者手帳を持っていて、ぼくはその介助者扱いで新幹線は格安だった。
ぼくは車内でもボイスレコーダーのスイッチを入れた。例によって「そんなもん回すなよ」と言いながら山岸さんはよく話し、ぼくもさまざまな質問をした。山形駅近くの百貨店で食材を調達し、タクシーでかつて野外展で訪れた郊外の実家へ向かった。あのころ父君と母君が暮らしていた母屋は物置になり、ぼくらが泊めてもらった離れが、山岸さんが帰郷する際、寝泊まりする家になっていた。
二年ぶりと言っていたか三年ぶりと言っていたか、山岸さんは荷物を置くと台所へ向かい、この辺にお酒があったはずだと流しの下を探った。一升瓶が出てきた。食器棚に揃った小皿をひとつ取り出し「まだ酢になってなければ飲める」と一口試飲し「うん、まだ大丈夫、飲める」と言った。その頃身体に痒みが出るようになり蒸留酒しか飲まなくなっていたぼくは、晩酌のお供とナイトキャップのため、歩いて行ける距離に一軒だけある店へ向かい、焼酎と多少のつまみを買った。
盆地はすっかり夏だった。山岸さんはしばらく寝ますと言って寝ただろうか、ぼくは畑が広がる周辺を散策し午後の日射しを浴びた。それから目覚めた彼を促し、道を挟んだ元母屋へ向かった。建物には鍵がかけられていたがそのキーは近いところに隠されていた。鍵を開けるにも、何年か閉め切られたままだった引き戸を開けるにも、「ちょっとコツがあるんだよ」と言う山岸さんさえ少し苦労した。母屋にはかつて台所だったところにも、床の間のある元居間にも仏壇のある奥の部屋にも、真木画廊から運び込まれた多くのものが山積みになっていた。
確か手前の部屋には画廊で見慣れた紙入れが置かれ、中にはさまざまな版画やドローイング、写真作品が収められていた。また室内にはいくつかの小さな立体作品があり、壁にもかけられていた。多摩美系もの派の代表的作家SK氏の石と木のオブジェが印象に残っている。また韓国出身のLU氏の平面作品も紙入れに収まっていたのではないかと思う。何人もの作家のポートフォリオが収められたファイル、案内状等の資料、作品集、書籍。奥の部屋は、雨漏りがして一部の資料類に濡れた痕跡があり、床からは植物が育っていた。
その日、ぼくの頭の中をどんな思いが巡っていたか、ほとんど覚えていない。とりあえず元離れの台所でぼくは夕食の支度をし、二人で飲んで語って、寝た。翌朝朝食も作ったはずだが、山岸さんの食はあまり進んでいなかったかも知れない。昼ごろ海沿いの酒田から、SKが紹介してくれたNTが山を超えてやって来てくれた。彼は山岸さんとの再会が本当に嬉しそうだった。元母屋前で記念写真を撮り、再び母屋内を探索し、その夜もぼくは食事の支度をし。三人で飲んで語って寝た。
山岸さんの飲酒や煙草をとめなかったことが、彼の死期を早めることになってしまったのではないかと後悔することがある。彼の最後の年に、二人で飲んで語ってしまったことが、いいことだったのか悪かったのか、今も結論は出ない。翌日NTは酒田へ戻り、僕らは東京に帰った。
山岸さんはその頃月に一度、東京女子医大病院に検査と診察に通っていた。医者の息子が医者のことを「あいつらは信用ならない、医者という人種は嘘ばかり言うからな」と罵倒しながらの通院だった。9月に入った頃だったと思う。山岸さんから「田代さん、調子が悪く腰が痛くてバスや電車に乗るのもしんどい。車で病院まで乗っけてってくれませんか」と電話があった。しかしぼくもすぐ動けるわけではない。それにぼくの車は2シーターのスポーツタイプ、腰が痛くて体の大きい身には乗るのさえキツイだろうと感じ「それなら山岸さん、救急車呼んじゃえばいいじゃないですか」と言ってしまっていた。結局彼はタクシーで病院へ行ったようだった。そして即日入院となった。
入院といっても歩けないわけではない。見舞いに行っても院内を歩き、ナースをからかい、病室のある高層階の待合室で眼下に拡がる東京の街並みを眺めながら、ぼくらは語りあった。…さすがに酒はなかったが。外出もさして制限がなくタクシーで自宅に戻っては必要なものを持って来たりしていた。入院してからはSRも頻繁に病院へ通い、洗濯物を持って帰っては洗って届けたりと世話をしていた。季節が秋になり少しずつベッドから立ち上がるのが困難になっていったが、それでもぼくが行くと「昨日は彼が来てくれた」「さっきあいつが来たんだよ」と嬉しそうに喋り、相変わらずナースに冗談を飛ばしていた。
だが11月のある未明、病院から電話があった。ぼくの父も母もそうであったように、そして多くの場合そうであったとこれまでも聞いてきたように、「急変」ということだった。
(この項つづく)

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