山岸さんのこと。(7)

通夜の当日、山岸さんの姉たちと家族が集まっていた。名刺交換をして次姉のご主人がなんと第二熊野屋ビルを所有する会社の役員であることを知った。通夜の前だったか、それとも翌葬儀の後だったか記憶にない。葬儀場の待合所で、山形に残された作品や資料について今のうち親族に相談しておかなければと、話しはじめたぼくはTHにとめられた。「それは俺から話すから」と彼はぼくに言ったと思う。彼はずっと山岸さんに寄り添って来た。画廊のものを山形まで運んだのも彼だ。十数年連絡もせず最近になっていきなり再接近したぼくなどが、しゃしゃり出る話ではない。考えてみればその通りだ。
よく感じることだが、当たり前といえば当たり前だが葬儀には日がないにもかかわらず、何年も会っていない懐かしい人々が顔を揃えた。TNさんが「あの人に相談するといい」と70年代前半に美術手帖の編集長だったFH氏を紹介してくれた。田村画廊開設間もないころのことだろう「手帖の年末の『今年開催された注目すべき展覧会』という欄を見たら、ウチでやった展覧会ばっかりなんだよ」と山岸さんが語っていたことが、ぼくの頭に蘇っていた。
葬儀が終われば、葛西の自宅をどうするか、そこに遺されたものをまず整理しなければならない。主人がいなくなった葛西の部屋で、山岸さんの派手な(黄色と黒の縞模様)スーツや蔵書を眺めながら、TH氏から先に言い出したのだと思う。「今後どうするか、委員会みたいなものを立ち上げたらいいんじゃないかと思う」と彼は言った。ぼくもそう思っていた。TH氏の提案でSRを含めた三人がそれぞれ二人ずつを推薦して9人の委員会を立ち上げることに、その場で同意した。
年が明けて間もなく、麻布十番にあるSRの自宅兼仕事場に(今でいうリモート参加も含め9人が集まった。メンバーは元美術手帖編集長のFH氏、芸大教授の作家TNさん、多摩美教授でかつて「美共闘」の代表的人物だった作家のHK氏、彼は田村画廊や真木画廊の初期に最も数多く、個展やイベントをした人でもある。80年代になって真木画廊に頻繁に顔を出すようになった作家のYY氏、YY氏は「俺は銀座で売れようと思って頑張ってたんだけど、山岸さんと出会って目から鱗が落ちたんだよ」と語ってくれたことがあった。パステルを和紙に塗り込んだ繊細な作品は、80年代何度も真木画廊の壁に掲げられた。さらに芸大教授のST、彼が紹介してくれ山形で出会ったNT、そしてTH、SR、ぼくの九人である。
その場でFH氏から「こういう話ならMYに加わってもらうといい」と定案があり、二回目の会合から和光大教授で元美術手帖の編集者だったMY氏が加わって10人となった。80年代に銀座1丁目からから神田にかけての現代美術画廊を歩いて巡りその芳名帳を覗くと、批評家CS氏と共に必ずと言っていいくらい見かけるサインの主であった。彼はときわ画廊や日本橋秋山画廊が閉廊した後、その記録集をまとめていた。
一〜二回の会合で、会の役割と名称について話し合った。その役割は、山岸さんが遺した作品や資料の処理をどうするか検討して、親族と連絡を取り決めること、山岸さんを偲ぶ会を開催すること、の二つということになった。会の名称は「山岸さんの会」と決めた。
「山岸さんの会」については活動報告をそれなりに公にすべきだと思うのだが、事務局役を引き受けてくれたSRにとっても、そういった作業は時間的にも内容的にも荷が重すぎるということで、とりあえず偲ぶ会で報告しようという結論になった。
後は実務的な作業である。葛西と山形にTH氏とYY氏は何度も足を運び整理した。資料類はHK氏やYY氏の尽力、FH氏、MY氏のサポートで国立新美術館のアーカイブセンターに寄贈することが決まった。厄介なのは著作権がある作品類であるが、これについては後述する。
偲ぶ会を開くにあたっては、案内を送るべき人の名簿作りが始まった。まず田村・真木画廊に最後に残された案内状送付用の名簿がベースになった。だが9年も前のものである(今から考えるとたかだか9年かもしれない)。当然引っ越している人も多いし、故人となってしまっている人もいる。そこに通夜や葬儀の際記入して戴いた住所連絡先を元に訂正を加え、さらにメンバー全員が持っている情報を反映させ、田村画廊、真木画廊、(ほぼ美術界に限ってはいたが)山岸さんとゆかりのある人の2009年4月時点での名簿ができ、「しのぶ会」の案内を発送するためSRがパソコンに入力した。
そうして2009年5月8日、第一期の田村画廊脇を少し日本橋側へ入った貸会場で「山岸信郎さんをしのぶ会」が開催された。
(この項つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?