①悟りによってもたらされるものの一つは心の置き所を探す苦労からの解放
悟りによってもたらされるものとは何か?
言い換えれば、悟ったらどんな良いことがあるのか?
といった問いに対しては「何も無い」という答えもあり得る。その意味はミーにもよく分かるし、分かるからこそ「悟りによってもたらされるものは何も無い」といった物言いをかつてティーカップブログの方でしたこともある。
でもそれってのは、あくまでも悟りというものをある特定の角度から捉えた物言いなんだ。それから、悟りに対して人間的な欲を抱かせないようにするための一喝の意味がそこに込められていることだってあるだろう。
要するに角度を変えて見てみれば、悟りによってもたらされるものもあるってこと。悟りという同じものでも見る角度によって違った捉え方ができることをお忘れなく。
ミーの場合、悟りによってもたらされたものの一つとしてまず挙げたいのは、心の置き所を探す苦労から解放されたことな。
これはミーだけのことなのかどうか、それはよー分からんけど、ミーの場合悟入前というのはとにかく、心の置き所を探したいという欲求が常にあって、それを探すことに非常なやっかいさを感じていたものだ。そのことは今でもよく覚えている。
心の置き所、それは案外別の言葉で表現することが難しいんだけど、強いて言い換えるとすれば、「心を立脚させられる何か」「心が依拠したり指針にしたりできる何か」あるいは「自分はこん風に在ろうという在り方・あり方の流儀」といったところか。
ちなみにミーの場合、そういうのって必ずしも言語化できるものである必要はなくて、感覚的なものでも良かったんだけどね。
ミーの洞察では、心ってやつはどうも存在を保つためにはそういうものを絶対に必要とするようにできているようだ。つまりそういうものが無いと片時も存在を保ってられないとこがあるってことな。
別の視点から言うと、心ってのは「どんな風にでもなく」はいられない存在のように見える。常にどんな風にかあろうとする性質を持っているのが心なんだと思う。
鳥が止まり木を必要とするのは休みたい時やのんびりしたい時だけなのに対して、心がその置き所を必要とするのはオールタイムであることからも、そのことが分かろうというものだ。
さらにやっかいなのは、心はその置き所を得た後でさえ「もっと確かなもの、良いものはないか」とか「これをもっと確かで良いものにできないか」みたいになっちゃうとこな。
さてそれでは質問なんだけど、悟りによってミーが心の置き所を探し求める苦労から解放された理由は何だと思う?
答えを言おう。心の中からそういう性質が払底されたからなのではない。心は実は自分じゃなかったってことが明らかになったからだ。それが明らかになったってことは言い換えれば、心はミーにとって赤の他人になったってことな。
悟り以降、心はミーにとって赤の他人になった。だからそいつの要請に応じる必要もなくなり、そいつの要請に応じるための苦労からも解放されたというわけ。
それにしても、その時まで自分だったものを赤の他人にしちまうんだから、悟りってえぐいよな。
2015/9/24(中島タロー)
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現在ブログで悟り系記事を発表中。
キャラづくりしながら文章を書いているため主語が「ミー」になっております。違和感ありましたらご寛恕のほどお願いします。
持ち記事の中から比較的、一般の人受けしそうなものをピックアップして、こちらの方で公開することを思いつきました。
今回の記事はその第一弾ということになります。
今後ともよろしくお願いします。
「悟りのブログ」「アウトオブスペース系の悟りとは」管理人・中島タローでした。
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