自分がされて嫌なことは人にしちゃいけませんと言うけれど

コレって開き直られると無効化されるし、自分がされて嫌でなければ人にしてもいいと言えないこともないから、言い換えた方が良いと思うんだ。

相手が嫌なことをしないっていうのも共感性や想像力が足りない人にはさっぱりなので、自分がされて嫌なことと意味が同じだけど違う言い回しで

そのルールを適用された場合、自分が困ることはしない

と。

どういうことかというと、まさしく撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけってことなんだけど、例えば気に食わないという理由で人をイジメる人がいるけど

「気に食わないから人を攻撃して良い」

というルールを設定して相手に強いているわけでしょ?これを自分が利用するならば気に食わないから攻撃された人が、攻撃に対して気に食わないと反撃してと文句を言うなってことなんですよ。

他人に強権を振りかざす人は自分だけが一方的に有利なルール設定者で実行者って思いがちですが、相手もその理屈を使ってきたらどうでしょうか?

喫煙者の人で喫煙所の手前で吸い始めて注意されたら

「これくらいいいだろ?近くなんだし」

と返したとします。

言い換えれば

「ちょっとくらい本来の場所と違っても、自分の裁定で調整できる」

というルールを実行していると言える。コレを適用するなら、その人の家のトイレの前で用を足してもいいことになりませんか?

別に「これくらい」いいですよね?

歩きタバコをする人の家で歩き立ちしょんべんをしてもかまわないことになりませんか?

タバコとトイレは違うから全然違うと言ってくるかもしれませんが、その「コレはよくてコレはダメ」って線引きは誰がするんでしょう?「主張者」適用なら相手も使えるわけですわ。

「子どものしたことですから」

という本来ならば被害者がの言葉であるものを、責任逃れから加害者が使うようになってきましたがコレも

「子どものしたことだから無条件で許すべきである」

というルールを相手に強いるならば、相手側が子どもをけしかけて復讐をしても許さなければおかしいですよね?だって「子どものしたこと」なんだもの。

と、自分の匙加減で曖昧なルールを相手に無理強いすると、相手も同じルールを使った場合困ることって多々あると思う。

だから、そのルールが適当なのかは重々考えるべき

郷に入れば郷に従えという考え方がある。決まり事ってやつは結果的に大多数が過ごしやすいルールなんで好き勝手せずに従った方がいいのよ。

ちょっと話は逸れたけど、

「自分がされて嫌なことを相手にしない」

「相手が自分と同じ意味合いのことを実行した場合に自分が困ることを相手にしない」

というのは意味としての着地点は同じだけど、抑止力的には結構違うから後者で教育した方がいいんじゃないかなと個人的には思う。

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