七夕後夜祭 ーレディ・サムライという生き方についてー

こんにちは。瑞田多理です。

昨日、七夕後夜祭というライブイベントがあり、観覧してきました。いち観客として、それから創作者として、感じ入ることがたくさんあったのでメモをしがてら皆さんにお届けしたいと思います。

七夕後夜祭というイベント

国際的殺陣パフォーマーであり、また音楽ユニットKAO=Sのボーカルでもある川渕女士の誕生日記念イベントです。お誕生日は7/7だそうで、つまり後夜祭なのです。今回は吉祥寺Star Pine's Cafeにて催されました。
http://ideal-samurai.com/

祭りは二部構成でした。第一部は、川渕かおり女士の主宰する殺陣集団偉伝或による演目『かぐや姫戦記ー序ー』の解禁。第二部はKAO=Sによるライブでした。

めちゃくちゃ良かったのです。一つ一つのトピックを挙げて逐一紹介したいのですが、筆を尽して細を描くことばかりが伝えると言うことの本質では無いと思うので、この記事は三部構成にしたいと思います。
まずはシンプルに、演目の感想を少し書きます。次に彼女のパフォーマーとしての姿勢について軽く触れます。最後に、彼女を自他ともに定義づける言葉である「レディ・サムライ」という精神性について、僭越ながら語れることを語ろうと思います。
そして最後に、創作者として自分が得た感慨を軽く書いて終わりにします。

かぐや姫戦記 序

 舞台の中に殺陣パフォーマンスを取り入れた、偉伝或ならではの舞台です。スマホの写真では伝えきれないことがたくさんあります。たとえデジカメがあったとしても、そう変わらなかったでしょうが。

 まず光るのは、主演川渕かおり女史の深い日舞への造詣です。神は細部に宿るとよく言われますが、女史の舞はそれを強く痛感させます。とにかくきれいなんだもの。空を切って舞う指先は、いっそ無機質さを感じさせるほどに細密な動きを以て生き生きと。払う足のとめ、はね、はらい、びっこをひく様にすら魂あり。
 すさまじく密に練りこまれた舞踊、舞踏、そして武闘……そうですね。殺陣のすさまじさも忘れてはなりません。偉伝或メンバーのそうそうたるメンツが繰り広げる殺陣パートは、全体からすれば一割にも満たない時間なのですが、刀がひらめくそのひと振り一振りが、嗚咽が、慟哭が、断末魔が。思い出の核に刻み込まれています。
 今回の物語は9月に興行される同名パフォーマンスの序章という位置づけのようです。この思いの続きがみられるのかと思うと、今から楽しみで仕方がありません。

KAO=S 桜の鬼

 イベント前半戦は、前述のかぐや姫戦記ー序ーを楽しませていただきました。後半戦に何があったかというと、川渕かおりさんがヴォーカルを務める音楽ユニットKAO=Sのライブでした。

 殺陣パフォーマーでありながら、ヴォーカルであり、作詞家であり、もしかすると作曲家でもあるのかもしれません。なんというバイタリティ……ということは後々言及することとして、楽曲はどれも特徴的なものばかり。「演じるたびに詞が変わる」という『世界の朝』は平和のすぐ隣に存在する苦しみを克明に描き出し、それでも日々は進むから、前に進むのだと強い意志を発露する名曲でした。それは毎回歌詞も変わろうというものです。演者が、聞き手も、前に進んでいるわけですから。

 さて、表題の『桜の鬼』ですが、こちらは川渕かおりさん自身が「KAO=Sの代表作」と表明する曲です。アコースティックギター、三味線、パーカッションによって「音は」紡がれます。そこに加わってくるのは、第四のパフォーマンス。ここでも、舞踏。そして殺陣なのです。

 無刀の殺陣、と聞いてピンとくる方はいらっしゃるでしょうか。殺陣というものは人を斬る立ち回りを演じることで、以て弑する陣の殺陣という文字を使いますが、この「人を斬る」という解釈について『桜の鬼』はとても重合した意味合いを持っていて、大好きです。
 物語はやや『蜘蛛の糸』を意識させる仕立てになっています。修羅道に落ちたことを表す般若の面から顔が離せない。最初は苦悶するも、次第にそれを受け入れて悪逆の限りを尽くす。しかしある「きっかけ」を経て目を覚まし、蜘蛛の糸のような細い望みにすがって上へ、上へと昇ろうとする。
 ここまでならば、蜘蛛の糸とそう対して変わらない。しかし川渕演じる彼か彼女はその糸の果てにたどり着きます。そして刀を取り、舞うのです。これまでにない激しい動きで、今まで絡みついてきた糸のすべてを断ち切ろうとするかのように。その果てに、息も絶え絶えになった彼か彼女は、ようやく真の「何か」を掴み取って、そして息絶えるのです。

 川渕女史の言葉ですが、刀とは単に殺すものではなく、守る、創る、そして切り拓くものであるということです。この解釈から『桜の鬼』を見るととても面白い。刀を取っていなくとも、その所作のすべてが「刀」なのです。
 修羅道に落ちた主人公の姿は、まさしく「殺す」ための刀の姿でしょう。殺しつくして、殺そうとして、そして目覚めた彼の姿は「(自らを)守ろう」という極めて利己的な姿です。
 それが手にしたものは、まやかしだった。その時舞台に初めて刀の姿が現れます。激しく、しかし一閃ごとが美しい「刀」は、客というよりもむしろ主人公自信を切り裂いているかのようです。自らが・自らを守っていた・縛っていたすべてのしがらみを、斬り、拓く。それが実体を持った刀の乱舞によってまざまざと描かれます。
 そして、大詰め。それは自らという枷を断ち切りつくし、一つの答えを得て逝きます。刀の開いた道に、昇っていくのです。控えめに言って最高でした。
 大筋を振り返ってみれば、それは肉体・自己というものからの守破離を表現しているようでもあります。人間としての生臭さを終始描きながら、最後の昇天においてはまさに神々しく。美しかったというシンプルな言葉ですら、それを表現するには役者不足です。何と言ったらいいのか。いいものを見させていただいたという、感謝しかありません。

レディ・サムライ ー表現者とは何か、どうありたいかー

 殺陣パフォーマンスグループ偉伝或主宰、音楽ユニットKAO=Sヴォーカル・作詞。ほか、日舞にも深い造詣を持っていることが舞踊から明らかな川渕かおりさん。語学にも秀で、海外でのご活躍も多くあります。

 化け物みたいなバイタリティ。誰にでもおいそれとまねできるものではありません。そういう意味で、彼女は明らかに「ストイック女子」なのですが……表現者としての僕はこう思うのです。表現者としては、かくあるべし。

 すなわち、真の弘法は本当に筆を選ばないのだ、と。どんな筆でも積極的に使いこなしてこその一流なのだ、と。

 彼女から感じたエネルギーの正体はおそらくそれで、自分の表現したいことのためなら何でも取り入れる貪欲さなのだと思います。それは自分自身の体についても同様です。役者生命を断たれてもおかしくないような大けがをしても必死にそれを治します。そのおかげであの日、素晴らしいパフォーマンスがみられたわけですが……きっと体の動く限り、命の続く限り、彼女は表現し続けるのでしょう。人の心を切り拓き続けるのでしょう。
 その姿勢こそが、きっと彼女が「レディ・サムライ」と呼ばれる所以なのだと思います。川渕かおりさんそのものの生きざまが、まさしく刀なのですから。

かっこいい川渕かおりさんたちを観に行こう

 川渕かおりさんは何気にぼくっ娘でもあります。
 いや、だからどうというわけではないんですが…………本当ですよ。
 信じられないということなら、9月末に催される「かぐや姫戦記」を観に行きましょう。絶対ですよ。
 きっと、サムライの生きざまに胸を打たれること請け合いです。


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