那覇 琉球に移り住む

2015年に那覇市に移住してしばらくしてのこと、誰だったかに辺野古をやるのに移住してきたんですか?と言われたことがある。いや、余裕があればで、まずは別な目的があったのである。
そもそも自分の人生で沖縄県に住むとは思っておらず、いつかは故郷の房州に戻ってとは漠然と思っていた。

転機となったのは、2014年7月の終わりだった。明らかに体力がガクンと下がったのを自覚したのである。なぜかといえば。3.11東電フクイチ事故の影響であろうが、もちろん証拠などない。ないのかよ?と言われるかもしれないが、放射線量のマップはあるが、売られている食物の放射線量までは定かではない。エアカウンターSという放射線計測のものは持っていたが、細かく記録していたわけではない。だから状況というか、ある種の雰囲気でそういうしかないのである。
もちろん、東電フクイチに近い人が被爆を避けて首都圏に避難してきた人もいるのだから、そこで生き抜くという選択もあったのだろうが、その時は先に千葉から北海道に原発避難した人もいたし、女優さんで房州館山に避難したのに更にまたどこかへとも聞いていたので、自分も続こうという思いが強かったのである。
※その顛末にはいろいろ反省もあるが、母親と故郷の家で住む選択もあったなと、病気して老いていく中で自責の念にかられる。。。

ちなみに被爆に関してだが、3.11当日南房総市の現場から海浜幕張の職場に戻る際、市原のコンビナート火災で大量の劣化ウランが燃えた煙を吸ったのが最初であろう。ただし。その時はその自覚はなかったが。

むしろ気になったのは、その後の原発事故であった。200kmは離れているから大丈夫ではないか?自分を安心させるために⁈そういう思いが強かった。実際はブルームばかりかプルトニウムも飛んできたようだが。

3月後半、職場の周りは液状化で噴き出した砂が乾いて舞い飛んでいた。せめてマスクをしていればだったのだが、そうしたのはいつだったか?2011年末のような気がする。とはいえ、職場にまではしていけず、プライベートのみだったが。

被爆症状を疑われるのは2011.9月頃が最初だろう。小さな傷、それも外傷ではなく、内側から盛り上がったような赤い点がいくつか出てきたのが、覚えている最初だ。
次は喉のいがいがな不快感だった。大好きなお酒を吞むとそうなったように思う。とはいえ、まだ呑めたし、2012年5月の福岡、6月の北海道ではそうした不快感がなく、線量の低い場所はいいなと思ったものだ。
それが急変したのが、2013年6月の船橋での(野田退治デモ1周年)デモ割の映画の終了後である。打ち上げで楽しく吞んで過ごしたあと、急に全身だるくなり、その場で寝込んだのである。小1時間して確かタクシーで帰宅したのだが、翌日も会社を休んだ。以後、東京圏にいる間は吞めなくなった。
※この頃は、近所のセブンイレブンで寿萬亀という日本種を扱っていて、週数本買って、呑んで帰らなかった日は毎回晩酌していたのだが、よく新年に棚を見たら、なんと扱いをやめていた。どんだけ吞んでたのか(笑)

さて、写真見返すと、2014年6月に川内原発再稼働阻止で鹿児島行った時も少し吞んでいるようで、原発事故現場から遠く離れるというのは大事なことなのだろう。
本格的に再開するのは、2015夏の那覇移住後なのである。最初は恐る恐る、徐々に酒量も増えたが、最近は病気もあって呑まなくなった。暑いとビールにアイリッシュでハイボール、寒いと熱燗にお湯割りな日々が懐かしい。

だらだら書き連ねてきたが、ここを起点にいろいろ著わしていきたい。ブラウンフォグで集中力も低下、個人的にもやりたいことがあるが。まずはここまで。

お読みいただきありがとうございましたm(__)m

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