古文と文語体の違い

 古語と文語は、厳密には違うものだ。古語が単純に古い時代の言葉であるなら、文語は後の世になって、意図的に昔の言葉で書いたものをいうのである。
『文語体』というと何か近代的なイメージがある。それもあるけど、とりあえず二つの言葉の違いを個人的に分析してみた。

古代~中世

 平安時代までに出来上がった散文や歌は、みんな自分の言葉で書いていたものだ。万葉集に出てきた歌は、それこそ奇をてらったりしない本来の歌の姿を現している。これが漢詩ではなく、和歌の地位が上昇して勅令による歌集が増えてくると、面倒なしきたりが増えてくるわけだが。
 枕草子や源氏物語も基本は話し言葉である。自分たちの使っている言語で書くことに何の違和感もなかったし、案外このあたりは我々と同じ。

 ところが、鎌倉や室町といった時代から急激に日本語は変化して、今の日本語の母型というものができあがってくると、それまでの話言葉が伝統のあるものとしてみなされ、意図的に守るべきものとして見られるようになってくる。すると、本当に書き言葉が違う『言語』として乖離していくのだ。実際、その数百年で、話し言葉と書き言葉はただ単語や言葉遣いなどではなく、文法のレベルで違ってくるようになる。
『徒然草』や『平家物語』がちょうどその過渡期に成立した作品になる。もはや人は意図的に昔の言葉、伝統のある言葉を学び、書いていた。もうここから文語体の歴史が始まったといっていい。無論、それは平安時代と同じ文章ではありえず、しばしば当時の俗語や文法的特徴が混じったものだ。
 たとえば、「たし」はまさしく現代「たい」として使われている助動詞だし、「死ににけり」(徒然草)は平安時代までは動詞「死ぬ」に完了の「ぬ」が接続しない以上、あり得ない表現だったとされている。口語性の強い平家物語には「~した」の「た」を使っている箇所がある(四・橋合戦――橋をひいぞ、あやまちすな)。と、確かに当時の話し言葉に関する姿はのぞくのだが、なかんずく地方の方言に関する記述は相当限られているのが実情。

 ちなみに言えば、能や狂言のセリフ、古典の講義用脚本、ポルトガル人の資料などが当時の話し言葉を生き生きと伝えてくれている。特にポルトガル語の資料は、アルファベットで書かれているから、現在とは違う発音を教えてくれるあたりかなり貴重。日本語の辞書が初めて成立したのもその頃だ。アラビア語の辞典がクルアーンの研究上必要なこともあって、だいぶ早くから成立したのを考えると言語意識の差を実感する。

漢文・候文など

 江戸から昭和にかけて長らく書簡でしばしば使われた候文は、まさにこの書き言葉から派生した、非常に人工的な言語だといえる。方言に関する資料が少ないと言ったが、実際候文のおかげで方言を考えることなく地域間の意思疎通ができたという利点は大きい。九州の武士が徳川慶喜に謁見した時も、言葉が通じなかったので候文のような話し方をすることで何とか会話しようとしたとかいう逸話が伝わっている。

 漢文にしてもそうで、言葉を伝統的に使おうとする考え方が東アジア全体に定着していたといえる。僕はむしろそれを、非常に長い幅にわたる時代の言葉を、何の言語の違いによる『遅れ』を感じさせることなく接続することができる、優れたシステムだと肯定的に考えたい方だ。ヨーロッパではラテン語が宗教や科学の言語として使われていたのと同じこと。ラテン語も、本来は話し言葉だったが、時代が進むにつれてフランス語やスペイン語へと変化していく中で、古式ゆかしい、守るべき言語へと変化を遂げたわけだ。
 思えばアラビア語は、古くの話し言葉を文章の言語にせず、そのまましゃべるための言語として保存する努力を惜しまなかった。アラビア語も無論地域差は存在するのだが、クルアーンを基に築き上げられた標準語の体系がこの辺はもはや事情が違いすぎるので、比較にならないが。

近代以降

 明治になってようやく言文一致運動が始まり、新聞にしても、小説にしても、話している言葉で書くのが一般的になった。それでも文語体は大きな地位を占め続けた。
 『舞姫』のような作品は完全に文語体であるが、『たけくらべ』『金色夜叉』みたいに、セリフは話し言葉で、地の文だけ文語体にした文章を特に雅俗折衷体と呼んでいる。僕も雅俗折衷体で作品を書こうと思っているのだ。
 とはいえ、勅書も憲法も法律もみな文語体だった。それが格式高い文章として認識されていたからだ。現在ですら、まだ文語体の部分が法律の中に残っている。
 こうして法的文章の中に用いられる文語体は、言葉そのものというより文法が違うのかもしれない。動詞や形容詞はそれほど難しくない。そして、軍軍記物語の漢文訓読体を基調にしている点で、伊勢物語や更級日記のような和文の系統から若干離れている。古文そのものが一枚岩ではないからね。

 今は文語体で文学を興そうとする動きはほとんど見ない。僕は江戸時代に書かれた歌集や評論の、あの平安朝を擬した文章がとても好きだし、明治の文語体小説もとても味わい深いものだと思っているから、もっとそういうのがあっていいと思うのだが。というより、僕にとって和歌を詠むことがまさにそうだ。

 おそらく百年もしたら、僕らの言葉も古めかしい、複雑な文法を持った難解なものとして理解されるようになるのだろう。そしてそんな、実際に話している言葉じゃない言葉でコンピュータ上に書いてるんじゃないかな。