自由、liberty、freedom

『自由』とは、実に不思議な因縁にあふれている語彙ではないか。

 シュメール語にamagiという言葉がある。人類最古の自由は何より、「負債のない状態」「奴隷ではない状態」という意味から始まった。自由人という身分が存在した社会ならではの発想だ。
 奴隷から『解放』された状態――ラテン語の形容詞liberがちょうどそれに当てはまる。そしてそこからlibertas、英語のlibertyが生まれてくる。

 それとは別に、英語にはゲルマン系の言語を通してfreedomという言葉も生まれた。freedomが何かをするのに邪魔や抑圧がない状態だとすれば、libertyはより積極的に、圧政からの解放を強調している。さらにliberal(革新)という言葉も生まれてくる。伝統に対する束縛がない。何かをすることに対するたがが存在しないわけだから。
 ただこの自由という日本語を無意識のうちに重ね合わせてはいけない。これを混同しないように、日本語に元からあった単語としての自由を『自由』と今から呼ぶことにする。

 そもそも『自由』とはlibertyなりfreedomの概念を表すために考え出された造語ではない。ずっと昔から、全く違う意味合いをもって使われてきた言葉だ。ちょうど徒然草にも『自由』の用例がある。

「よろづ自由にして、大方、人に従ふといふことなし」(第60段)

 ここに使われている『自由』はまさに「自分自身に由る」と読み、「身勝手」にも等しい意味だ。
 確かに自由は決していい意味合いを持つ言葉ではなかった。それが次第に支配に囚われない破天荒なさまとして評価する面から肯定的に『自由』を使う例も増え、それが欠如した状態を『不自由』と言うようにもなってくる。
 自由という字面からそもそも何者かから解放された状態、という風に理解するのは難しい。
 だが、近代、より早く江戸時代から日本人はfreedom(元々はオランダ語を通じて知った言葉だ)に『自由』という言葉を当てはめた。他にも様々な翻訳があったにも関わらず、現代では『自由』という言葉が定着してしまい、それ以外を用いる気配は皆無。
『自由』が定着してからも、日本語の中で『自由』が久しく持つ危うさが払拭されることはなかった。現代ですら、自由という言葉が『何をしても勝手』みたいな、どうしても嫌な風に使われることが多い。訳語事情の大家柳父章は、はっきりfreedomに自由という言葉を導くのは間違いだったと語っている。
 freedomを訳す候補としては、他に『寛弘』『不羈』といった言葉が並んでいた。『寛弘』は見慣れないとしても、『不羈』程度がちょうどいい。『独立』の横に並べられるほどの熟語なのだから。けれど『自由』ほどよく使う言葉ではなかったから結局選ばれなかったのだろう。『哲学』みたいに、一から新しい言葉を作るわけにはいかなかったのだろうか。
 正確な訳が結局日本の伝統的な思想の中には見つけられなかったわけだ。
 思えば、ヨーロッパ史のrevolution、feudalismに中国史の『革命』『封建』といった用語を導入してしまうのも、決して正確ではない。政治事情や文化的な背景の全く違う世界を、理解することはそもそも難しいのだ。昔の人が苦心の末に言葉を探して、当てはめたのだと分かってはいても、今見ると粗が目立っているが、それが伝統になってしまった以上、現代でも頼るしかないというもどかしさがある。

『自由』がこうして二つの流れを汲む言葉になってしまった以上は、個人的には二つの自由を分割するものが欲しい所だが、どちらも同じ言葉になっているせいで区別が難しい。
『自由』がfreedomやlibertyといった言葉の影響を受ける以前の、本来の意味が悪いとは言えない。徒然草に見える『自由』だって、かの里芋イーター絶対的な個性を示すための言葉として使われていたのである。
 日本語でfreedomが「渾沌とした」「無秩序な」的な形容動詞として使われるのも、『自由』の負の側面が逆流している証拠なのだろう。そこに日本史の性質が垣間見えるような気がする。libertyは支配からの解放(何ならliberateがまま『開放する』という意味だ)だが、『自由』は身勝手であり、横暴なのである。
 ヨーロッパの歴史を観れば、自由は血なまぐさいもので、重みがある。そして、市民一人一人の努力によって勝ち取られたという認識がある。もはや自由はただの束縛からの解放状態以上の物になってしまった。自由が人間の追求めるべき使命であることが定着した社会では、更に人は自由であるように命令すらされる。
 そして、20世紀にはサルトルが「人は『自由の刑』に処されている」というようなことを言い出す。ここに束縛の対義語だったはずの自由は束縛に回帰していく。人類の歴史が決して発展とは言い切れない好例とでも言いたくなる。

 参考文献

網野善彦『中世再考』講談社学術文庫、2000年
柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年