リ・チャンシウ

無題19-1

李昌秀、2240-2296

 アマクサ出身。もとは両親の名前すら分からない無頼の徒で、街の若衆と喧嘩ばかりしていた。やがて力の道を極めたいと考えた彼は、傭兵としてキューシュー各地を回った。

 ルタオ人の中でも特に下層民は総じて民族的な帰属意識が曖昧であり、都市同盟側についてルタオ人相手に戦うということが少なくなかった。チャンシウはクマモト人コン・シウチという人物の元で戦った。
 チャンシウには元から不思議な人徳があり、捕虜ですら自分の味方につける力にたけていた。このことをシウチに嫉妬され、命を狙われそうになると彼は数人の仲間と共に独立して、キューシュー南部で様々な君主の元を転々とした。やがてタオナン国で数十年仕えた。
 その内チャンシウは自分の国を持ちたいと思うようになり、まだどの勢力も及んでいないオーイタに目を付けた。

 当時オーイタは都市同盟にもルタオにも組しない力の空白地帯だった。住民はいたもののそれまで二つの勢力の争いは知らず、隔絶された環境にいた。
 2289年、チャンシウはオーイタの領有を宣言した。これにいち早く反応したのが対岸イマバリ市だった。シコクには21世紀末から住み着いたルタオ人が少なくなく、彼らがチャンシウに呼応して蜂起するのを恐れたのである。
 イマバリ市はフクオカ市に住むフカミ・ナオミチという人物に援軍を乞うた。ナオミチは元々解放奴隷の商人でルタオで暮らしていた経験もあり、チャンシウ相手によく対処してくれると期待したからである。
 しばらくの間戦争に出かけていなかったナオミチはこれを承諾し、五百人ほどの手勢を率いてオーイタへ降っていった。そして二人の間で激しい戦いが起こった。
 ナオミチが最終的にオーイタの支配権をにぎると、チャンシウは翌年南のミヤコノジョーに落ち延びた。この地域はオースミ国の支配下にあったが、彼は現地の代官を強襲して殺し、強引に統治を確立した。そして代官の悪政を止めたという名目で無理やり認めさせた。

 このためチャンシウは危険人物であるという噂が立ち、クマモトやオースミから討伐軍が出された。これにはかつての上司コン・シウチが関わっており、シウチは必ず裏切者を亡き者にしようとしていた。チャンシウは数か月にわたって捕縛されたが、ルタオ共通の敵がいなくなることを恐れたナガサキ市が身代金を払って釈放させた。その時にはすでにシウチはこの世になかったが。
 こうして再び自由の身になったチャンシウはタオナン国の臣下としてではなく独立の君主として振舞うようになり、ルタオ中での悪名はますます高まった。

 2294年五月から、チャンシウは再びオーイタへと北上して途上いくつもの村を焼き払った。ナオミチは今度こそ彼を捕らえてその領土を併呑しようとしたが、時にオースミからの侵略という急報が出たために退却した。ナオミチは二度とチャンシウがやってこないようにオーイタ周辺に城砦を築かなければならなかった。チャンシウはそれ以後、オーイタへ兵を動かさなくなるがナオミチ本人との交流を止めることはなく、更に密接に絡むようになった。

 彼はナオミチと因縁の敵同士だった。しかしそれは時としてむしろ親交とすら評されるような奇怪なものだった。彼はナオミチの絵を描かせて、ことあるごとに自分が彼とどう戦い、どのような功績を挙げたか、臣下に対して説いた。ナオミチはこのことを知ると、自分を必要以上に賞賛しないように使者を遣わして戒めた。
 ある時はナオミチに花嫁衣装を送ったこともある。ナオミチは瓦を送り返してやった。すると今度はオキナワから輸入された高価な宝石を送り付けた。
 またある時は年賀状を書き、次は必ずお前を殺すとナオミチをおどした。ナオミチはそれに答えて、ではお前の家の隣に松の木を植えろ、お前が死んだときに棺桶が作れるように、とおどした。こういう所から、個人的にはチャンシウとナオミチは仲が良かったのではないか、という風聞が絶えない。
 しばしば周囲から狂人と評されたが終生、政治家というよりは任侠気質の人物であり、礼儀というものにほとんど関心がなかった。酒豪であり一日、常に数リットルも呑んだ。最期も宴を開いている時に、池に移った月を取ろうとして溺死したと伝えられている。ナオミチはその死を直接悼むことはなかったが、長男のホアンが彼の所領を継ぐと、それを祝賀する手紙を送った。
 チャンシウには数人の側室がいたそうだが、その中にはキューシューやオーイタからシェン夫人は鬼女であり、チャンシウも彼女にだけは頭が揚がらなかったそうだ。しかしチャンシウはすさまじい猟色家で他にも多くの愛人を持ち、子を産んでいた。彼の子孫はホアン以外、ミヤコノジョーを出て各地に散らばっている。