イトー・ブッチギ

伊藤物千樹、2506-2558

 カナガワ地方ドミ町の出身。彼の家族は養鶏で業を立てていたが、極めて貧しかった。ブッチギも幼い時からその仕事を手伝っていたが、主な関心は畜産よりもむしろ武芸にあり、しばしば友人たちと戦争ごっこに興じていた。
 まだ若いある時、養鶏場に忍びこんだ盗人を追いかけて捕まえた。これが評判となり彼は村中に知れ渡った。そして、武勇を買われてオーサカ人の武将に弟子入りすることになった。

 当時長らくヨコハマはオーサカの支配下にあった。2468年にヌマズの領有を巡って敗北してから、ヨコハマは内政も軍事も常にオーサカの監視下にあった。
 早くからブッチギはあらゆる武芸に習熟し、師匠の元から離れて2533年にはヨコハマ王に仕えることになる。
 ヨコハマ国と言えば何より古代の兵器を蘇らせたことで知られる。
 彼らは古代末期の銃火器や防護服を復活させ――なぜそれが可能だったか、いまだに謎が多い――2320年代にトーキョー地方の部族を平らげて、2532年にボーソー半島沿岸を征服したことに味を占めたヨコハマは、国名を『カントー』に改めた。
 国内では26世紀初めからオーサカへの復讐を望む意見が高まっていた。門外不出の古代技術を使えば彼らを降すことも夢ではない。

 こうしてオーサカ遠征に三人の男が率いることになった。
 カントー王族と親戚であるミタラシ・カイエが先頭に立ち、テラウチ・ガイが背後で構え、しんがりをブッチギが務めることに。オーサカに君臨することをはっきり示すためにカントー王ニシデラ・マサと他の王族も同行。

 2538年五月、ブッチギは軍を率いてオーサカ領内に侵入した。当時オーサカヒロシマ方面に軍を展開していたため東部の警備は手薄になっており、容易にイビ河流域にまで到達することができた。
 オーサカ王ヤマオカ・シューキチはエチェバリア・ソースケに死刑囚や政治犯500人をかき集めて決死隊を作らせ、クサツでカントー軍で激突させた。しかしそれらはカントーの古代技術に勝てず、全員が戦死。
 ミタラシ・カイエが率いる第一軍は2540年八月一日に首都オーサカを占領した。シューキチの姿は全く見つからず、八月三十日にようやく遺骸が井戸から見つかった。
 こうして二百年以上続いたオーサカ王国は断絶。
 
 彼らは復讐心によってオーサカの征服を成功させたに過ぎず、手に入れた土地を統治していく指針を何ら持合わせていなかった。そのため共通の敵がいなくなると、急激に彼らの仲は悪くなった。
 テラウチ・ガイはさらに東へ進み、オノミチまで攻寄せた。ちょうどこの頃、大陸の軍がキューシューからヒロシマにかけて広い地域を蹂躙しており、国土の防衛のために分散していたヒロシマ人とも交戦した。2546年に小ヒロシマ内部にまで侵入し、敗北した所でようやくカントー軍の進出は止まる。
 2541年、大陸軍が撤退した後も、テラウチはオノミチからフクヤマまでの土地に居座って現地住民に貢納を求めた。彼は最初ヨコハマへの帰還を望んでいたが、他のカントー人が私利私欲で争い合い、また本国でも貴族たちが領土を私有化していることに失望し、その望みを失ったのである。何より、カントー軍は西へ進めば進むほど投降者や傭兵を起用するなどして無造作に兵力を増強していったため、実際にカントー出身者だった人間はこの時点ですでに少数派だった。

 ブッチギは途中までミタラシに同行したが、クサツ戦後に開かれた会議で誰がどの土地を攻めるかくじ引きで決めることになった。そこでブッチギは北部を攻めることになり、ナガハマ方面へと北上しフクイ領へと侵略を開始した。オーサカを滅ぼした以上、これと並ぶ大国であるフクイからの干渉は避けられないからである。
 フクイ王キヨノ・シゲヒトはカントーに対等な地位での融和を結ぼうとしたが、カントー人にとってはフクイは所詮オーサカと同じ不倶戴天の敵。2544年ブッチギはツルガを陥落させた。シゲヒトはわずかな従者を引き連れ、ニーガタ方面に逃れた。
 2547年にはコトウラに誼を通じようとする使者を送るが、コトウラはこの使者を斬捨ててしまった。これにブッチギは深い怨恨を抱き、死ぬまで起きる時も、寝る時も、臣下に対して「誰が君の使者を殺したのか?」と尋ねさせた。

 2542年ニシデラ・マサが突然この世を去った。その子はわずか二歳であり、政務を取る能力がなかった。ミタラシは自分が摂政となることを主張し、他の武将とは対立した。ブッチギは不穏な物を感じ、あくまで中立を保った。
 2548年、王位継承権や相続の問題が面倒になったミタラシは幼い王を妃ごと殺害して、みずからオーサカ王を僭称するに至った。テラウチはこれを口実に元オーサカ領内に侵攻し、内通者と結託してミタラシを首都から追放した。
 ミタラシはブッチギの庇護を求めてフクイに逃れるが、ブッチギは今更同胞の内輪争いに加担するわけにもいかず、また自らの手で処断するにも忍びないので、七月二十九日の早朝、密かにテラウチが野道で憩っている所を射殺させた。

 2549年六月二日、かりそめの天幕の中で彼はフクイ王の継承者であることを宣言し、国号を『ツルガ』とした。それはカントー国がはっきり分裂した瞬間だった。2552年にはテラウチもオーサカ王(新オーサカ)として即位し、彼が元いたヒロシマ東部には彼の側近であったスガヤが王を名乗り、一方ナゴヤ以東でも武将が次々と建国した。
 ブッチギはあくまで自分はもはやカントーの忠臣ではないという態度をとり、これらの国々と良好な関係を築くよう努め、仇敵であるコトウラを滅ぼすことを心がけた。

 ブッチギはすぐさま旧フクイの全体を手に入れたわけではなく、最初はツルガ周辺を支配していたに過ぎなかった。フクイが支配していたタカシマ地方はいまだ平定しておらず、カントー人同士の内輪もめも、ブッチギの独断専行を困難にしたから。
 ブッチギは2551年二月にクズリュー川を渡りイシカワ地方に侵入し、その年のうちに現地の集落を次々と攻落とした。この地域にはフクイ王を慕ってニーガタへ去った人間が少なくなかった。そのため、イシカワ地方の大部分はすぐさしたる抵抗もなく旧フクイ領のほとんどを併合することができた。
 だがノト半島は地の利を生かして山中に立てこもり、しびれを切らしたブッチギはイシカワ人のうち偽って投降し、自分を暗殺しようとした人間の首級を送り付けた。恐れをなしたノト人は2554年に降伏した。

 それからは、自らを「最後の同盟都市」と誇り、外界の交渉を頑なに拒むコトウラ市を再びブッチギが攻撃する時が来た。2553年から2554年にかけ、ブッチギは何度かコトウラ市を囲む城壁を攻撃したが、コトウラ兵は山あいの土地に陣取り、山中のゲリラ戦などで頑強に抵抗したためついに討伐することができなかった。結局、ブッチギはコトウラの滅亡は時間の問題として、征伐と諦めた。(のち2566年十二月二日、ツルガ軍がコトウラ城壁を包囲し始め2567年七月一日についにコトウラを滅ぼして彼の夢を実現させた)

 2558年冬、ブッチギはフクイからの逃亡者を集めて国を復興させ、ニーガタで増強しつつあるシゲヒトを討伐するためにニーガタ征服を計画する。
 自ら軍勢を率いるがその途中、二月六日、北部テツカベの兵営で病没した。子のナオトがツルガ王として跡を継いだ。